目 次
巻一 文韜(ぶんとう) 第一 文師(ぶんし)文師 第二 盈虚(えいきょ)盈虛 第三 国務(こくむ)國務 第四 大礼(たいれい)大禮 第五 明伝(めいでん)明傳 第六 六守(りくしゅ)六守 第七 守土(しゅど)守土 第八 守国(しゅこく)守國 第九 上賢(じょうけん)上賢 第十 挙賢(きょけん)舉賢 第十一 賞罰(しょうばつ)賞罰 第十二 兵道(へいどう)兵道 巻二 武韜(ぶとう) 第十三 発啓(はっけい)發啟 第十四 文啓(ぶんけい)文啟 第十五 文伐(ぶんばつ)文伐 第十六 順啓(じゅんけい)順啟 第十七 三疑(さんぎ)三疑 巻三 龍韜(りゅうとう) 第十八 王翼(おうよく)王翼 第十九 論将(ろんしょう)論將 第二十 選将(せんしょう)選將 第二十一 立将(りっしょう)立將 第二十二 将威(しょうい)將威 第二十三 励軍(れいぐん)勵軍 第二十四 陰符(いんぷ)陰符 第二十五 陰書(いんしょ)陰書 第二十六 軍勢(ぐんせい)軍勢 第二十七 奇兵(きへい)奇兵 第二十八 五音(ごいん)五音 第二十九 兵徴(へいちょう)兵徵 第三十 農器(のうき)農器 巻四 虎韜(ことう) 第三十一 軍用(ぐんよう)軍用 第三十二 三陣(さんじん)三陣 第三十三 疾戦(しっせん)疾戰 第三十四 必出(ひっしゅつ)必出 第三十五 軍略(ぐんりゃく)軍略 第三十六 臨境(りんきょう)臨境 第三十七 動静(どうせい)動靜 第三十八 金鼓(きんこ)金鼓 第三十九 絶道(ぜつどう)絕道 第四十 略地(りゃくち)略地 第四十一 火戦(かせん)火戰 第四十二 塁虚(るいきょ)壘虛 巻五 豹韜(ひょうとう) 第四十三 林戦(りんせん)林戰 第四十四 突戦(とつせん)突戰 第四十五 敵強(てききょう)敵強 第四十六 敵武(てきぶ)敵武 第四十七 烏雲山兵(うんうんさんぺい)烏雲山兵 第四十八 烏雲沢兵(うんうんたくへい)烏雲澤兵 第四十九 少衆(しょうしゅう)少眾 第五十 分険(ぶんけん)分險 巻六 犬韜(けんとう) 第五十一 分合(ぶんごう)分合 第五十二 武鋒(ぶほう)武鋒 第五十三 練士(れんし)練士 第五十四 教戦(きょうせん)教戰 第五十五 均兵(きんぺい)均兵 第五十六 武車士(ぶしゃし)武車士 第五十七 武騎士(ぶきし)武騎士 第五十八 戦車(せんしゃ)戰車 第五十九 戦騎(せんき)戰騎 第六十 戦歩(せんぽ)戰步 底本と校例巻一 文韜(ぶんとう)文韜
十二篇、戦い方の話は一字もない。『文韜』が問うのは、まだ天下を取っていない者が何によって天下を取るか、ということである。答えは第一篇ですでに出ている——「天下は一人の天下に非ず、乃ち天下の天下なり。天下の利を同じくする者は則ち天下を得、天下の利を擅にする者は則ち天下を失う」。以下の十一篇はこの一句の展開で、民を愛すること、臣を選ぶこと、土地を守ること、国を守ること、賢を上とすること、賢を挙げること、賞罰のこと。最後の『兵道』でようやく兵の話になるが、その第一声は「聖王は兵を凶器と号し、已むを得ずして之を用う」である。本書の来歴について。旧題は周の呂望(太公望)の撰。しかし『漢書・芸文志』の兵家に『六韜』は著録されず、儒家に周史『六弢』六篇があるのは別の書である。『六韜』の名は『三国志・先主伝』の裴松之注に初めて見え、『隋書・経籍志』が「太公六韜五卷」を初めて著録する。『四庫全書総目』は「将軍」の語や「正殿を避く」の制を根拠に仮託と断じ、「詞意浅近、古書に類せず」という。だが一九七二年、山東臨沂の銀雀山漢墓から出土した竹簡に今本『文韜』『武韜』と合致する残文があり、遅くとも前漢初めには成立していたことが証明された。仮託は本当だが、書物そのものは古い——これが今日いえる最も穏当な一句である。
第一 文師(ぶんし)文師第一
全書の序幕であり、本書唯一の物語でもある。文王が狩に出る前に卜わせると、この行で得るものは龍でも虎でもなく「天の汝に遺る師」だという。そこで三日斎戒し、渭水の北岸で茅の上に坐って釣りをする老人に出会う。以下の対話は釣りから始まり、「餌で魚を取る」ことと「禄で人を取る」ことは同じ仕掛けだという話に進み、最後にあの有名な一句に落ちる。
文王が狩に出ようとしたとき、史官の編が卜を布いて言った。「渭水の北岸で狩をなされば大きな収穫がありましょう。龍でも彲でもなく、虎でも羆でもない。兆に出たのは公侯、天があなたに遺わす師です。これが昌(文王の名)を輔ければ、福は三代の王にまで及びましょう」。
文王が言った。「兆はそこまで出ているのか」。
史編が言った。「わが先祖の史疇が禹のために占ったとき、皋陶を得ました。その兆がこれと同じでした」。(皋陶は舜・禹の時の名臣。四庫本は「舜の為に占う」に作る。)
文王は三日斎戒し、狩車に乗り、狩馬を駕して渭水の北岸で狩をした。すると果たして太公に出会った。茅の上に坐って釣りをしていた。文王はねぎらって尋ねた。「先生は釣りがお好きですか」。
太公が言った。「君子は其の志を得るを楽しみ、小人は其の事を得るを楽しむと聞いております。いま私が釣っているのは、まさにそれに似ておりまして、釣りそのものを楽しんでいるのではありません」。
文王が言った。「どう似ているのか」。
太公が言った。「釣りには三つの権(てこ)があります。禄をもって人を釣るのも、人に死んでもらうのも、官位で釣るのも、みな同じ仕掛けです。釣りは得ようとしてするもの、その理は深く、そこから大事が見えてまいります」。
文王が言った。「その理を聞かせてほしい」。
太公が言った。「源が深ければ水が流れ、水が流れれば魚が生じる——これが理です。根が深ければ木は伸び、木が伸びれば実がなる——同じ理です。君子は情が同じければ親しみ、親しめば事が生じる——やはり同じ理です。言葉のやりとりは情の飾り、真情を言い尽くすのが事の極みです。いま私は真情を憚らず申し上げましたが、お気に障りましたか」。
文王が言った。「仁人だけが至極の諫めを受け入れ、至極の真情を嫌わない。どうして気に障ろうか」。
太公が言った。「糸が細く餌が明るければ小魚が食い、糸が調い餌が香ばしければ中魚が食い、糸が太く餌が豊かなら大魚が食う。魚は餌を食って糸に牽かれ、人は禄を食って君に服する。ゆえに餌で魚を取れば魚は殺せ、禄で人を取れば人は使い尽くせ、家で国を取れば国は抜け、国で天下を取れば天下は畢る。ああ、長く連なって集まったものは必ず散り、暗く目立たぬ光は必ず遠くまで届く。微かなるかな聖人の徳、独り見るところに導かれる。楽しいかな聖人の慮、万物おのおのその次に帰して収穫はおのずと集まる」。
文王が言った。「どう樹え斂めれば天下が帰するのか」。
太公が言った。「天下は一人の天下ではなく、天下の天下である。天下の利を天下と同じくする者は天下を得、天下の利を独り占めする者は天下を失う。天に時あり地に財あり、それを人と共にできるのが仁、仁のある所に天下は帰する。人の死を免れさせ、難を解き、患を救い、急を済うのが徳、徳のある所に天下は帰する。憂いも楽しみも好悪も人と同じくするのが義、義のある所に天下は赴く。人は死を悪み生を楽しみ、徳を好み利に帰する。人のために利を生み出せるのが道、道のある所に天下は帰する」。(この一段が全書の綱領である。)
文王は再拝して言った。「まことにその通りだ。どうして天の詔命を受けぬわけがあろうか」。そして太公を車に乗せて共に帰り、師に立てた。
第二 盈虚(えいきょ)盈虛第二
天下の治乱の根は君にあるか天にあるか。太公は一言で答える——「禍福は君に在りて天時に在らず」。残りは全部その証拠で、堯の暮らしぶりの具体的な一覧である。賢君を徳としてではなく、一つの生活様式として描いている。
文王が太公に尋ねた。「天下は熙熙として、あるいは盈ちあるいは虚しく、あるいは治まりあるいは乱れる。なぜこうなのか。君の賢不肖が等しくないからか。それとも天時の変化がおのずとそうなのか」。
太公が言った。「君が不肖なら国は危うく民は乱れ、君が賢聖なら国は安んじ民は治まる。禍福は君にあって天時にはありません」。
文王が言った。「古の賢君のことを聞かせてほしい」。
太公が言った。「昔、帝堯が天下に王たりしは、上古のいわゆる賢君であります」。
文王が言った。「どう治めたのか」。
太公が言った。「帝堯が天下に王たりし時、金銀珠玉は飾りに用いず、錦繡文綺は着ず、珍奇なものは見ず、玩好の器は宝とせず、淫佚の楽は聴かなかった。宮垣も屋宇も白土を塗らず、棟も垂木も柱も削らず、茅葺きの屋根も草の伸びた庭も刈らなかった。鹿の皮衣で寒さを防ぎ、布の衣で身を覆い、粗い飯を食い、藜藿の羹を啜った。役作のために民の耕織の時を害さず、心を削り志を約して、無為に事えた。
「吏で忠正に法を奉ずる者はその位を尊くし、廉潔で人を愛する者はその禄を厚くした。民に孝慈の者があれば愛敬し、農桑に力を尽くす者があれば慰め励ました。善き者を見分けてその門閭に表を立て、心を平らかに節を正しくし、法度で邪偽を禁じた。(四庫本は「淑慝を旌別す」に作り、善悪を分ける意でより通る。)
「憎む者でも功があれば必ず賞し、愛する者でも罪があれば必ず罰した。天下の鰥寡孤独を養い、禍で人を亡くした家を賑わした。自らの用度は極めて薄く、賦役は極めて寡なかった。ゆえに万民は富み楽しみ、飢寒の色がなかった。百姓はその君を日月のごとく戴き、父母のごとく親しんだ」。
文王が言った。「大いなるかな、賢徳の君よ」。
第三 国務(こくむ)國務第三
国を治める第一のことは何か。答えは四文字、「民を愛するのみ」。それを利・成・生・与・楽・喜と、害・敗・殺・奪・苦・怒の六対に開き、各条に具体的な中身を与える——農時を奪わない、刑罰を減らす、賦斂を薄くする、宮室を倹しくする、吏が苛擾しない。
文王が太公に尋ねた。「国を為める務めを聞きたい。主を尊く人を安んじるには、どうすればよいか」。
太公が言った。「民を愛する、それだけです」。
文王が言った。「どう愛するのか」。
太公が言った。「利して害さず、成して敗らず、生かして殺さず、与えて奪わず、楽しませて苦しめず、喜ばせて怒らせない」。
文王が言った。「その理由を説いてほしい」。
太公が言った。「民がその生業を失わなければ利したことになり、農が時を失わなければ成したことになり、刑罰を省けば生かしたことになり、賦斂を薄くすれば与えたことになり、宮室台榭を倹しくすれば楽しませたことになり、吏が清くて苛擾しなければ喜ばせたことになります。逆に、生業を失わせれば害し、農時を失わせれば敗り、罪なくして罰すれば殺し、重く取り立てれば奪い、宮室台榭を多く営んで民力を疲らせれば苦しめ、吏が濁って苛擾すれば怒らせる。ゆえに善く国を為める者は、民を馭すること父母が子を愛し、兄が弟を愛するようにする。飢寒を見ればこれがために憂え、労苦を見ればこれがために悲しむ。賞罰はわが身に加わるごとく、賦斂はわが家から取るごとくにする。これが民を愛する道です」。
第四 大礼(たいれい)大禮第四
君臣の礼。言い方が変わっている——上に在る者はただ「臨む」、下に在る者はただ「沈む」。次いで三問——主位はどうあるべきか、主聴はどうするか、主明はどう求めるか。三つ目の答え「天下の目を以て視れば則ち見えざる無し」の一段は、先秦で君主の耳目を論じた最も美しい文章である。
文王が太公に尋ねた。「君臣の礼はどうあるべきか」。
太公が言った。「上たる者はただ臨み、下たる者はただ沈む。臨んで遠からず、沈んで隠さない。上たる者はあまねく、下たる者は定まる。あまねきは天、定まるは地。天あり地ありて、大礼は成るのです」。
文王が言った。「主の位はどうあるべきか」。
太公が言った。「安らかに徐かに静かに、柔らかな節度をまず定める。善く与えて争わず、心を虚しくし志を平らかにし、物に接するに正を以てする」。
文王が言った。「主の聴き方はどうか」。
太公が言った。「みだりに許さず、逆らって拒まない。許せば守りを失い、拒めば塞がってしまう。高山を仰ぐごとく、極めることはできない。深淵を測るごとく、測ることはできない。神明の徳は、正しく静かなるをその極みとします」。
文王が言った。「主の明とはどういうものか」。
太公が言った。「目は明を貴び、耳は聡を貴び、心は智を貴ぶ。天下の目で視れば見えぬものはなく、天下の耳で聴けば聞こえぬものはなく、天下の心で慮れば知れぬものはない。四方の報せが輻の轂に集まるように一斉に入ってくれば、明は蔽われません」。
第五 明伝(めいでん)明傳第五
文王が病臥し、太子発(のちの武王)が傍らにいる、臨終の伝授である。一問一答のみ。道が止まる三つ、道が起こる四つ。末尾の四句は『大戴礼記・武王践阼』に載る丹書の語とほとんど同文である。
文王が病に臥し、太公望を召した。太子の発が傍らにいた。文王は言った。「ああ、天は私を棄てようとしている。周の社稷はお前たちに属することになる。いま私は至道の言を師として、はっきりと子孫に伝えたい」。
太公が言った。「王は何をお問いになりますか」。
文王が言った。「先聖の道が止まるところ、起こるところを聞かせてもらえるか」。
太公が言った。「善を見て怠ること、時が至って疑うこと、非を知りながらそこに居ること——この三つは道の止まるところです。柔にして静、恭にして敬、強くして弱を示し、忍びて剛である——この四つは道の起こるところです。ゆえに義が欲に勝てば昌え、欲が義に勝てば亡び、敬が怠に勝てば吉、怠が敬に勝てば滅びます」。
第六 六守(りくしゅ)六守第六
人君が国を失う理由はただ一つ、「与する所を謹まざる」ことである。そこで六守(仁義忠信勇謀)と三宝(大農・大工・大商)。六守は口で言うものではなく試すものだ——富ませ、貴くし、付し、使い、危うくし、事で圧す。六つの状況が六つの品性を検する。
文王が太公に尋ねた。「国に君臨し民を主どる者がそれを失うのは、なぜか」。
太公が言った。「与する所を謹まないからです。人君には六守三宝があります」。
文王が言った。「六守とは何か」。
太公が言った。「一に仁、二に義、三に忠、四に信、五に勇、六に謀。これを六守と申します」。
文王が言った。「六守を謹んで選ぶとはどうするのか」。
太公が言った。「富ませてその犯さぬかを観、貴くしてその驕らぬかを観、事を付してその転ばぬかを観、使ってその隠さぬかを観、危うくしてその恐れぬかを観、事で圧してその窮せぬかを観る。富んで犯さぬのが仁、貴くして驕らぬのが義、付されて転ばぬのが忠、使われて隠さぬのが信、危うくして恐れぬのが勇、事に窮せぬのが謀です。人君は三宝を人に借してはならない。借せば君はその威を失います」。
文王が言った。「三宝とは何か」。
太公が言った。「大農・大工・大商、これを三宝と申します。農がその郷に一まとまりであれば穀は足り、工がその郷に一まとまりであれば器は足り、商がその郷に一まとまりであれば貨は足ります。三宝がおのおのその処に安んじれば、民は二心を抱きません。その郷を乱さず、その族を乱さない。臣は君より富まず、都は国より大ならず。六守が長ければ君は昌え、三宝が全ければ国は安んじます」。
第七 守土(しゅど)守土第七
自分の地盤を守る。前半は比喩の連発——日中必ず彗し、刀を操れば必ず割き、斧を執れば必ず伐る。涓涓として塞がざれば将に江河と為らん、両葉去らざれば将に斧柯を用いん。要するに、手を下すべき時に下さねば後で収まらない、ということ。中央に全篇の要が挟まる——「人に国柄を借すこと無かれ」。
文王が太公に尋ねた。「土地を守るにはどうすればよいか」。
太公が言った。「親族を疎んぜず、衆を怠らず、左右を撫し、四方を御する。人に国柄を借してはならない。借せば権を失います。壑を掘って丘に附けず、本を捨てて末を治めない。日が中すれば必ず干し、刀を操れば必ず割き、斧を執れば必ず伐る。日が中して干さぬのは時を失うといい、刀を操って割かぬのは利の期を失い、斧を執って伐たねば賊が来る。涓涓として塞がねば江河となり、熒熒として救わねば炎炎をどうすることもできない。両葉を去らねば斧柯を用いることになる。ゆえに人君は必ず富むことに従事せねばならない。富まねば仁を行えず、施さねば親を合わせられない。親を疎んずれば害され、衆を失えば敗れる。人に利器を借してはならない。借せば人に害され、その世を終えることもできません」。
文王が言った。「仁義とは何か」。
太公が言った。「その衆を敬い、その親を合わせる。衆を敬えば和し、親を合わせれば喜ぶ。これが仁義の紀です。人に汝の威を奪わせてはならない。その明に因り、その常に順う。順う者は徳を以て任じ、逆らう者は力を以て絶つ。敬して疑わなければ、天下は和して服します」。
第八 守国(しゅこく)守國第八
一つの土地を守る話から天下を守る話へ。太公はまず七日の斎戒を求め、四時・陰陽・盈蔵の循環を語る——「盈つれば則ち蔵し、蔵すれば則ち復た起こる」。治世には聖人は退き蔵れ、乱世には出てくる。政治を節気の中に置いて見る見方である。
文王が太公に尋ねた。「国を守るにはどうすればよいか」。
太公が言った。「斎戒なさい。天地の経、四時の生ずる所、仁聖の道、民機の情を申し上げましょう」。王は七日斎戒し、北面して再拝して尋ねた。(君が北面するのは、太公を師として遇する礼である。)
太公が言った。「天は四時を生じ、地は万物を生ずる。天下に民あり、聖人がこれを牧する。ゆえに春の道は生じて万物栄え、夏の道は長じて万物成り、秋の道は斂めて万物盈ち、冬の道は蔵して万物静かなり。盈つれば蔵し、蔵すれば復た起こる。その終わる所を知らず、その始まる所を知らない。聖人はこれに配して天地の経紀とする。ゆえに天下治まれば仁聖は蔵れ、天下乱るれば仁聖は昌る。至道はかくの如きものです。聖人が天地の間にあって守る宝は、まことに大きい。その常に因って視れば民は安んじる。民は動いて機となり、機が動けば得失が争われる。ゆえにこれを陰に発し、陽に会する。みずから先に唱えれば天下がこれに和する。極まれば常に返り、進んで争う者もなく、退いて譲る者もない。かくのごとく国を守れば、天地と光を同じくしましょう」。
第九 上賢(じょうけん)上賢第九
用人の裏面の一覧。六賊は在位の者が国を傷つける六通り、七害は用いてはならない七種の人——功を邀う好戦の徒、名あって実なき者、偽の清高、虚論の徒、諂って禄を貪る者、雕文刻鏤で農を害する者、巫蠱左道の者。各条に処置が付く。
文王が太公に尋ねた。「人に王たる者は、何を上とし何を下とし、何を取り何を去り、何を禁じ何を止めるべきか」。
太公が言った。「賢を上とし不肖を下とし、誠信を取って詐偽を去り、暴乱を禁じ奢侈を止める。ゆえに人に王たる者には六賊・七害があります」。
文王が言った。「その道を聞きたい」。
太公が言った。「六賊とは。一に、臣で宮室・池榭を大いに作り、遊観し倡楽を養う者、王の徳を傷つけます。二に、民で農桑を事とせず、気に任せて遊俠をなし、法禁を犯し吏の教えに従わぬ者、王の化を傷つけます。
「三に、臣で朋党を結び、賢智を蔽い、主の明を障える者、王の権を傷つけます。四に、士で志を高くし節を抗げて気勢とし、外に諸侯と交わってその主を重んじない者、王の威を傷つけます。
「五に、臣で爵位を軽んじ有司を賤しみ、上のために難に当たるのを恥じる者、功臣の労を傷つけます。六に、強宗が侵奪して貧弱を陵侮する者、庶人の業を傷つけます。
「七害とは。一に、智略権謀がないのに重賞尊爵を与えられ、そのために強勇にして戦を軽んじ、外で僥倖を求める者。王はつつしんで将としてはなりません。二に、名あって実なく、出入に言を異にし、善を掩い悪を揚げ、進退ともに巧を弄する者。王はつつしんで謀を共にしてはなりません。
「三に、身を樸にし衣服を悪くし、無為を語って名を求め、無欲を言って利を求める者。これは偽人です、王はつつしんで近づけてはなりません。四に、冠帯を奇にし衣服を偉にし、博聞弁辞、虚論高議をもって体裁とし、窮居静処して時俗を誹る者。これは奸人です、王はつつしんで寵してはなりません。
「五に、讒佞して官爵を求め、果敢に死を軽んじて禄秩を貪り、大事を図らず利を見て動き、高談虚論で人主を悦ばせる者。王はつつしんで使ってはなりません。六に、雕文刻鏤・技巧華飾をなして農事を傷つける者、王は必ず禁じなさい。七に、偽方異技・巫蠱左道、不祥の言で良民を幻惑する者、王は必ず止めなさい。
「ゆえに民が力を尽くさぬなら、わが民ではない。士が誠信でないなら、わが士ではない。臣が忠諫せぬなら、わが臣ではない。吏が平潔で人を愛さぬなら、わが吏ではない。相が国を富ませ兵を強くし、陰陽を調和し、万乗の主を安んじ、群臣を正し、名実を定め、賞罰を明らかにし、万民を楽しませることができぬなら、わが相ではない。
「そもそも王者の道は龍の首のごとし。高く居て遠くを望み、深く視て審らかに聴き、その形を示してその情を隠す。天のごとく高くして極むべからず、淵のごとく深くして測るべからず。ゆえに怒るべくして怒らねば奸臣が起こり、殺すべくして殺さねば大賊が発し、兵勢が行われねば敵国が強くなります」。
文王が言った。「善いかな」。
第十 挙賢(きょけん)舉賢第十
一つの病だけを的確に治す篇——「賢を挙げて其の功を獲ず」。診断は鋭い。問題は賢を挙げないことではなく「挙げて用いない」こと、さらに世俗の毀誉を賢不肖の物差しにすることにある。世俗の毀誉は党派が作るから「党多き者進み、党少なき者退く」。処方は八文字、「名に按じて実を督し、才を選び能を考す」。
文王が太公に尋ねた。「君が賢を挙げることに務めながらその功を得られず、世の乱れはいよいよ甚だしく、ついには危亡に至るのはなぜか」。
太公が言った。「賢を挙げて用いないのは、賢を挙げる名があって賢を用いる実がないのです」。
文王が言った。「その失はどこにあるのか」。
太公が言った。「失は、君が世俗の誉める者を用いたがり、そのため真の賢を得られぬところにあります」。
文王が言った。「どういうことか」。
太公が言った。「君が世俗の誉める者を賢とし、世俗の毀る者を不肖とすれば、党の多い者が進み、党の少ない者が退きます。そうなれば群れた邪が比周して賢を蔽い、忠臣は罪なくして死に、奸臣は虚誉で爵位を取る。ゆえに乱はいよいよ甚だしく、国は危うきを免れません」。
文王が言った。「では賢を挙げるにはどうするのか」。
太公が言った。「将と相の職を分け、おのおの官名によって人を挙げ、名に按じて実を督し、才を選び能を考し、実がその能に当たり名がその実に当たるようにする。これが賢を挙げる道です」。(後世の「名を循ねて実を責む」考課法の萌芽である。)
第十一 賞罰(しょうばつ)賞罰第十一
全書最短の篇。賞は多寡ではなく「信」、罰は「必」。衆人の目の前で賞され罰されれば、見ていない者も自ら変わる——「聞見せざる者も陰化せざるは莫し」。
文王が太公に尋ねた。「賞は勧めを存するため、罰は懲らしめを示すためのもの。私は一人を賞して百人を勧め、一人を罰して衆を懲らしめたい。どうすればよいか」。
太公が言った。「およそ賞を用いるには信を貴び、罰を用いるには必を貴ぶ。賞が信あり罰が必なることを耳目の聞見する所で行えば、聞見せぬ者もみな陰に化せられます。まことというものは天地に暢び神明に通ずる、まして人においてをや」。
第十二 兵道(へいどう)兵道第十二
『文韜』の末篇にして、本書の兵論の総綱。ここから問う人が文王から武王に代わる。「凡そ兵の道は一より過ぐるは莫し」。以下三問三答、いずれも「形を示す」話である——外は乱れて内は整い、飢を示して実は飽く。西を欲して東を襲う。底本はこの篇を『武韜』に列するが、本頁は景宋本・四庫本に拠って『文韜』に戻した。巻末〈底本と校例〉参照。
武王が太公に尋ねた。「兵の道とはどういうものか」。(この篇から問う人が文王に代わって武王となる。)
太公が言った。「およそ兵の道は一に過ぎるものはありません。一なれば独り往き独り来ることができる。黄帝は「一は道に階し、神に幾し」と言いました。これを用いるは機に在り、これを顕すは勢に在り、これを成すは君に在り。ゆえに聖王は兵を凶器と号し、已むを得ずしてこれを用いました。いま商王は存することを知って亡ぶことを知らず、楽しむことを知って殃いを知らない。存するとは本当に存することではなく、亡ぶことを慮るかどうかにある。楽しむとは本当に楽しむことではなく、殃いを慮るかどうかにある。いま王はすでにその源を慮られた。どうしてその流れを憂えましょうか」。
武王が言った。「両軍が相対し、彼は来られず、こちらも行けず、おのおの固く備えて先に発するのを敢えてしない。襲いたいがその利を得られない。どうすればよいか」。
太公が言った。「外は乱れて内は整い、飢えを示して実は飽き、内は精にして外は鈍く、一たびは合し一たびは離れ、一たびは聚まり一たびは散じる。謀を陰にし機を密にし、塁を高くし鋭を伏せ、士は寂として声なく、敵にわが備えを知らせない。西を欲すれば東を襲うのです」。
武王が言った。「敵がわが情を知り、わが謀を通じていたらどうするか」。
太公が言った。「兵が勝つ術は、敵の機を密かに察して速やかにその利に乗じ、さらに疾くその不意を撃つことです」。
巻二 武韜(ぶとう)武韜
五篇。兵を動かさずに済む形をどう作るか、という話である。全巻の鍵語は「啓」と「閉」——「天下を利する者は天下これを啓き、天下を害する者は天下これを閉づ」。五篇のうち三篇の題に「啓」の字が入っており、いずれも同じことを言っている。門は天下の側が開けるものだ、と。中央の『文伐』が特異で、十二条すべて血を流さない手段である——好むところに順い、愛する者に親しみ、左右に賄い、淫楽を助け、忠臣を離間する。後世の権謀書の祖本であり、同時に『六韜』が歴代の道学者に嫌われてきた箇所でもある。『四庫全書総目』は胡応麟『筆叢』を引いて、『文伐』『陰書』などは「孫呉・尉繚の屑しとせざる所」だという。末篇『三疑』は強きを攻める・親を離す・衆を散らすの三難をまとめ、答えは六文字、「これに因り、謀を慎み、財を用う」。底本はこの巻を六篇とするが、景宋本・四庫本はともに五篇で、『兵道』は『文韜』に属する。本頁は旧本に従う。巻末〈底本と校例〉参照。
第十三 発啓(はっけい)發啟第十三
武王の代の前、最後の長い君臣問答。文王が問うのは「商王の虐は極まった、どうするか」だが、太公の答えは終始「まだ時ではない」である。天道に殃いがなければ先に倡えてはならず、人道に災いがなければ先に謀ってはならない。中段の「全勝は闘わず、大兵は創なし」の八字が本書の最高の基準である。末段は商が亡ぶ三つの徴候——野には草が穀に勝ち、衆には邪が直に勝ち、吏には暴虐が清明に勝つ。実地調査の報告の口ぶりである。
文王が豊にいたとき、太公を召して言った。「ああ、商王の虐は極まり、罪なき者を殺している。公尚よ、私を助けて民のために憂えてくれ。どうすればよいか」。(豊は文王が遷った都、今の西安の南西。尚は太公の名。)
太公が言った。「王はただ徳を修めて賢に下り、民に恵んで天道を観なさい。天道に殃いがなければ先に倡えてはならず、人道に災いがなければ先に謀ってはなりません。必ず天の殃いを見、また人の災いを見て、はじめて謀ってよい。必ずその陽を見、また陰を見てはじめてその心を知り、外を見また内を見てはじめてその意を知り、疎を見また親を見てはじめてその情を知るのです。
「その道を行けば道は致すべく、その門に従えば門は入るべく、その礼を立てれば礼は成るべく、その強に争えば強は勝つべし。全勝は闘わず、大兵は創なし。鬼神と通ずるがごとし。微なるかな、微なるかな」。(『孫子・謀攻』の「戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり」と同旨。)
「人と病を同じくすれば相救い、情を同じくすれば相成し、悪を同じくすれば相助け、好を同じくすれば相趨る。ゆえに甲兵なくして勝ち、衝機なくして攻め、溝塹なくして守る。
「大智は智ならず、大謀は謀らず、大勇は勇ならず、大利は利ならず。天下を利する者は天下これを啓き、天下を害する者は天下これを閉づ。天下は一人の天下に非ず、乃ち天下の天下なり。天下を取るは野獣を逐うがごとく、天下みな肉を分かつ心あり。同じ舟で渡るがごとく、渡れば皆その利を同じくし、敗れれば皆その害を同じくする。しからば皆これを啓くあり、これを閉づるなし。
「民に取らざる者こそ民を取る者であり、国に取らざる者こそ国を取る者であり、天下に取らざる者こそ天下を取る者である。民に取らざれば民これを利し、国に取らざれば国これを利し、天下に取らざれば天下これを利す。ゆえに道は見るべからざるに在り、事は聞くべからざるに在り、勝は知るべからざるに在り。微なるかな、微なるかな」。
「鷙鳥まさに撃たんとすれば低く飛んで翼を斂め、猛獣まさに搏たんとすれば耳を弭して俯し伏す。聖人まさに動かんとすれば必ず愚かな色をする。いまかの殷商は、衆口相惑い、紛紛渺渺として、色を好んで極まりなし。これ亡国の徴である。その野を観れば草菅が穀に勝ち、その衆を観れば邪曲が直に勝ち、その吏を観れば暴虐残賊、法を敗り刑を乱して上下気づかない。これ亡国の時である。大明発して万物みな照らされ、大義発して万物みな利せられ、大兵発して万物みな服す。大なるかな聖人の徳、独り聞き独り見る。楽しいかな」。(底本「暴虐残疾」の「疾」は「賊」の形訛。両本ともに「残賊」に作るので改めた。)
第十四 文啓(ぶんけい)文啟第十四
同じ「啓」の字を文治の側に用いる。冒頭は『老子』に似て「何をか憂え何をか嗇しまん、万物みな得たり」。中段は家から天下までの構築の順序——人を聚めて家となし、家を聚めて国となし、国を聚めて天下となす、これを大紀という。万国おのおのその所を楽しみ人おのおのその上を愛する、これを大定という。逆に上が忙しくなれば刑が繁く、刑が繁ければ民は憂え、民が憂えば流亡する、これを大失という。末尾の比喩がよい——「天下の人は流水の如し。これを障れば則ち止まり、これを啓けば則ち行き、これを静かにすれば則ち清む」。
文王が太公に尋ねた。「聖人は何を守るのか」。
太公が言った。「何をか憂え何をか嗇しまん、万物みな得たり。何をか嗇しみ何をか憂えん、万物みな遒し。政の施す所、その化を知る者なく、時の行く所、その移るを知る者なし。聖人これを守って万物は化す。何の窮まりかあらん、終わってまた始まる。優にし游にし、展転してこれを求む。求めて得れば蔵さざるべからず、すでに蔵せば行わざるべからず、すでに行えば復たこれを明らかにするなかれ。天地は自ら明らかにせず、ゆえに長く生きる。聖人は自ら明らかにせず、ゆえに名が彰れるのです」。
「古の聖人は、人を聚めて家となし、家を聚めて国となし、国を聚めて天下となし、賢人を分封して万国となした。これを大紀という。その政教を陳べ、その民俗に順い、群がる曲がりを直に化し、形容において変わる。万国は通ぜずして、おのおのその所を楽しみ、人おのおのその上を愛す。これを大定という。ああ、聖人はこれを静かにすることに務め、賢人はこれを正すことに務める。愚人は正すことができず、ゆえに人と争う。上が労すれば刑が繁く、刑が繁ければ民は憂え、民が憂えば流亡する。上下その生に安んぜず、累世休まらない。これを大失という。天下の人は流水のごとし。これを障れば止まり、これを啓けば行き、これを静かにすれば清む。ああ神なるかな。聖人はその始めを見てその終わりを知る」。
文王が言った。「静かにするとはどうするのか」。
太公が言った。「天に常形あり、民に常生あり。天下とその生を共にすれば天下は静かになります。太上はこれに因り、その次はこれを化す。民が化して政に従う、ゆえに天は無為にして事成り、民は与うるなくして自ら富む。これが聖人の徳です」。
文王が言った。「公の言はわが懐に協う。夙夜これを念じて忘れず、用いて常としよう」。
第十五 文伐(ぶんばつ)文伐第十五
本書中もっとも人目を引く篇。「文伐」とは刀兵を動かさぬ討伐のことで、十二節が順に並ぶ。好むところに順う、愛する者に親しむ、左右に賄う、淫楽を助ける、忠臣を離間する、内を収め外を間する、重宝で重親を結ぶ、名で尊んで驕らせる、道を以て塞ぐ、そして最後に乱臣を養い美女淫声を進め良犬馬を遺る。十二節が備わって初めて「乃ち武事を成す」。順序が大事である——文伐は用兵の前置きであって代替ではない。全篇に道徳的な弁解が一行もないのも、この書が一手に成らぬと疑われる理由の一つである。
文王が太公に尋ねた。「文伐の法とはどういうものか」。
太公が言った。「およそ文伐には十二節あります。一に、その好むところに因ってその志に順う。彼は驕りを生じ、必ず奸事をなす。もしこれに因ることができれば、必ずこれを除くことができます。(底本は十二節の各条に上の引用符を置いて閉じないので、本頁で削った。巻末〈底本と校例〉参照。)
「二に、その愛する者に親しんでその威を分かつ。一人にして両心あれば、その中は必ず衰える。廷に忠臣なければ社稷は必ず危うい。三に、その左右に陰かに賄って情を得ること甚だ深し。身は内にあって情は外にあれば、国はまさに害を生じよう。
「四に、その淫楽を輔けてその志を広くし、珠玉を厚く賄い、美人で娯しませる。辞を卑しくして聴くに委ね、命に順って合わせれば、彼は争わなくなり、こちらの奸節は定まる。
「五に、その忠臣を厚遇しながら贈り物は薄くし、その使者を留めてその事を聴かない。すみやかに代わりの使者を置かせ、誠実な事を託し、親しんで信じれば、その君はまたこちらと和するだろう。もしその忠臣を厚遇しきることができれば、その国は謀るべし。(敵国の忠臣を殊更に尊んでその君に疑わせる反間の術である。)
「六に、その内を収め、その外を間する。才ある臣が外で他人のために働き、敵国が内から侵せば、国で亡びないものは少ない。七に、その心を錮めようとするなら必ず厚く賄う。その左右の忠愛の者を買収し、陰かに利を示して本業を軽んじさせれば、蓄積は空になる。
「八に、重宝を賄って共に謀る。謀ってこれを利し、利すれば必ず信ずる。これを重親という。重親が積もれば必ずわがために用いられる。国を有しながら外を向く、その地は必ず敗れる。
「九に、名をもって尊び、その身を難ませない。大勢を示せば従って必ず信ずる。最高の尊号を致し、まずこれがために栄を作り、少しく聖人に飾れば、その国は大いに偸む(怠る)ようになる。
「十に、これに下って必ず信を得、その情を得る。意を承けて事に応じ、同じ母から生まれたかのようにする。すでに得たら、密かにこれを収める。時がまさに至らんとすれば、天がこれを喪ぼすがごとくである。
「十一に、道をもってこれを塞ぐ。人臣で貴と富を重んじ危と咎を悪まぬ者はない。陰かに大尊を示し、密かに重宝を輸り、その豪傑を収める。内の蓄えは甚だ厚くして外は乏しきを装う。陰かに智士を入れてその計を図らせ、勇士を納れてその気を高くさせる。富貴は甚だ足りてなお繁く滋り、徒党すでに具わる。これを塞ぐという。国を有して塞がれれば、どうして国を有し続けられようか。
「十二に、その乱臣を養ってこれを迷わせ、美女淫声を進めてこれを惑わせ、良犬馬を遺ってこれを労させ、時に大勢を与えてこれを誘う。上は察して天下と共にこれを図る。十二節備わって、乃ち武事を成す。いわゆる上は天を察し、下は地を察し、徴すでに見れば、乃ちこれを伐つのです」。(文伐は用兵の前置きであって代替ではない。)
第十六 順啓(じゅんけい)順啟第十六
一問一答のみだが、本書でもっとも重い一段の一つ。「天下を蓋う」が五つ——大・信・仁・恩・権——に「事えて疑わず」を加えて六条。備われば「然る後に天下の政を為すべし」。後半は「天下」を主語とする八組の対句で、利すれば啓き、害すれば閉じ、生かせば徳とし、殺せば賊とする。末句は第一篇の名句をさらに一歩進める——天下は一人の天下ではない、ただ道ある者がこれに処る。
文王が太公に尋ねた。「どうあれば天下を治められるのか」。
太公が言った。「大が天下を蓋い、然る後に天下を容れることができる。信が天下を蓋い、然る後に天下を約することができる。仁が天下を蓋い、然る後に天下を懐けることができる。恩が天下を蓋い、然る後に天下を保つことができる。権が天下を蓋い、然る後に天下を失わない。事えて疑わなければ、天運も移すことができず、事変も遷すことができない。この六つが備わって、然る後に天下の政を為すべきです。ゆえに天下を利する者は天下これを啓き、天下を害する者は天下これを閉づ。天下を生かす者は天下これを徳とし、天下を殺す者は天下これを賊とす。天下を徹する者は天下これを通じ、天下を窮せしむる者は天下これを仇とす。天下を安んずる者は天下これを恃み、天下を危うくする者は天下これを災とす。天下は一人の天下に非ず、ただ道ある者これに処るのです」。
第十七 三疑(さんぎ)三疑第十七
武王には三つの不安がある。強敵を攻め崩せないこと、その親を離せないこと、その衆を散らせないこと。太公は三つとも裏返す——強きを攻めるにはまず養ってさらに強くさせよ(太強なれば必ず折れる)、親を離すにはその親を用い、衆を散らすにはその衆を用いよ。『老子』三十六章と同じ機鋒である。末段は逆に正面から——民に恵を施して財を惜しまず、心→智→財→衆→賢と一環ずつつながって「賢の啓くあり、以て天下に王たり」に落ちる。
武王が太公に尋ねた。「私は功を立てたいが、三つの不安がある。力が強きを攻めるに足りぬこと、親を離せぬこと、衆を散らせぬこと。どうすればよいか」。
太公が言った。「これに因り、謀を慎み、財を用いることです。そもそも強きを攻めるには、必ずこれを養って強くさせ、これを益して張らせる。太だ強ければ必ず折れ、太だ張れば必ず欠ける。強きを攻めるにはその強を以てし、親を離すにはその親を以てし、衆を散らすにはその衆を以てするのです。
「およそ謀の道は周密を宝とする。事を設けてこれに示し、利をもって玩ばせれば、争う心が必ず起こる。その親を離そうとするなら、その愛する所に因る。その寵人と交わり、その欲する所を与え、その利する所を示し、そうしてこれを疎んじさせ、志を得させない。彼が利を貪って甚だ喜べば、残る疑いも止む。
「およそ攻の道は、必ずまずその明を塞ぎ、然る後にその強を攻め、その大を毀ち、民の害を除く。色でこれを淫し、利でこれを啗い、味でこれを養い、楽でこれを娯しませる。
「すでにその親を離したら、必ず民を遠ざけ、謀を知らせない。扶けて納れ、その意を覚らせず、然る後に成る。民に恵を施すには必ず財を惜しまない。民を牛馬のように、たびたび餧い食わせれば、従ってこれを愛するようになる。心は以て智を啓き、智は以て財を啓き、財は以て衆を啓き、衆は以て賢を啓く。賢の啓くあり、以て天下に王たるのです」。(「民は牛馬の如し、数しば餧い食らわす」は本書中もっとも露骨な一句で、『文韜・国務』の「民を馭すること父母の子を愛するが如し」とちょうど対照をなす。底本は「民如牛馬」四字を脱し、「餧」を「衣」に訛る。景宋本・四庫本ともに誤らないので、本頁で補正した。)
巻三 龍韜(りゅうとう)龍韜
十三篇。本書の骨格であり、『六韜』がもっとも独自な部分でもある。どう戦うかではなく、「将」という職そのものを論じる——幕僚をどう組むか(『王翼』)、将をどう相るか(『論将』『選将』)、どう権を授けるか(『立将』)、どう威を立てるか(『将威』)、どう兵を励ますか(『励軍』)、どう秘密通信するか(『陰符』『陰書』)、どう形勢を読むか(『軍勢』『奇兵』『五音』『兵徴』)。末篇『農器』でまた「戦具は尽く人事に在り」に戻る。軍事思想史に名を残した箇所が三つある。『王翼』は七十二人・十八職の幕僚編制を挙げる。現存最古の参謀本部の名簿である。『選将』の「八徴」——問・窮・間・顕・財・色・難・酒——は現存最古の体系的な識人法である。『立将』の授鉞の礼と「軍中の事は君命を聞かず」は、「将、外に在れば君命も受けざる所あり」という語のもっとも完全な出典である。『四庫全書総目』は『陰符』を偽書の証拠に挙げ、撰者が「陰符の義を知らず、誤って符節の符と為す」と言うが、この批評自体が面白い——それは、この篇の記す長さの符号体系が実用に堪えることを認めているからである。
第十八 王翼(おうよく)王翼第十八
幕僚編制表。武王が将帥の「股肱羽翼」を問うと、太公は七十二人・十八職の名簿を挙げ、職掌を一つずつ記す。腹心一人が総参謀と応急、謀士五人が安危と賞罰、天文三人が星暦風気、地利三人が地形水阻、兵法九人が演練と糾察、通糧四人が糧道、奮威四人が突撃、伏鼓旗三人が旗鼓号令と偽装、股肱四人が工事、通材三人が賓客応対、権士三人が奇詭、耳目七人が情報、爪牙五人が士気、羽翼四人が宣伝、遊士八人が間諜、術士二人が鬼神、方士二人が医薬、法算二人が会計。
武王が太公に尋ねた。「王者が師を帥いるには必ず股肱羽翼があって威神を成すという。どうすればよいか」。
太公が言った。「およそ兵を挙げ師を帥いるには、将をもって命とします。将たるの要は通達にあり、一術を守らないこと。能に因って職を授け、おのおの長ずる所を取り、時に随って変化し、これを綱紀とする。ゆえに将には股肱羽翼七十二人あって天道に応ずる。数を法の如く備え、命の理を審らかに知り、殊能異技があれば万事は畢ります」。(七十二は数術的な数で、以下の各職を合わせるとちょうどこの数になる。)
武王が言った。「その目を問いたい」。
太公が言った。「腹心一人。謀を賛け卒(にわか)に応じ、天を揆って変を消し、計謀を総覧し、民命を保全することを主どる。謀士五人。安危を図り、未だ萌さざるを慮り、行能を論じ、賞罰を明らかにし、官位を授け、嫌疑を決し、可否を定めることを主どる。
「天文三人。星暦を司り、風気を候し、時日を推し、符験を考え、災異を校べ、天心の去就の機を知ることを主どる。地利三人。三軍の行止の形勢、利害の消息、遠近険易、水の涸れ山の阻む所を主どり、地の利を失わせない。
「兵法九人。異同を講論し、行事の成敗を論じ、兵器を簡練し、非法を刺挙することを主どる。通糧四人。飲食を度り、蓄積を掌り、糧道を通じ、五穀を致し、三軍を困乏させないことを主どる。
「奮威四人。材力ある者を択び、兵革を論じ、風馳電掣して由る所を知らせないことを主どる。伏鼓旗三人。鼓旗を伏せ、耳目を明らかにし、符節を詭り、号令を謬らせ、闇忽として往来し、出入すること神の如くすることを主どる。
「股肱四人。重きに任じ難きを持し、溝塹を修め、壁塁を治めて守禦に備えることを主どる。通材三人。遺を拾い過を補い、賓客に応接し、論議談語して患を消し結を解くことを主どる。権士三人。奇譎を行い、殊異を設け、人の識る所ならざる無窮の変を行うことを主どる。耳目七人。往来し、言を聴き変を視、四方の事と軍中の情を覧ることを主どる。爪牙五人。威武を揚げ、三軍を激励し、難を冒し鋭を攻めて疑慮なからしめることを主どる。羽翼四人。名誉を揚げ、遠方を震わせ、四境を揺り動かして敵の心を弱めることを主どる。(底本「使冒難攻鈗」の「鈗」は「鋭」の形訛。景宋本は正しく「鋭」に作るので改めた。)
「遊士八人。奸を伺い変を候し、人情を開闔し、敵の意を観て間諜とすることを主どる。術士二人。譎詐をなし、鬼神に依託して衆心を惑わすことを主どる。方士二人。百薬を主どり、金瘡を治し、万病を癒すことを主どる。法算二人。三軍の営壁・糧食・財用の出入を計会することを主どる」。
第十九 論将(ろんしょう)論將第十九
将を相る法。まず五材——勇・智・仁・信・忠。次いで十過を挙げ、しかも一つ一つに破り方が付く。勇にして死を軽んずる者は激すべく、性急な者は久しくすべく、貪る者は賄うべく、仁にして忍びざる者は労すべし。本書でもっとも冷たい一段である。末段は言い切る——「兵は両つながら勝たず、また両つながら敗れず」。
武王が太公に尋ねた。「将を論ずる道とはどういうものか」。
太公が言った。「将には五材十過があります」。
武王が言った。「その目を問いたい」。
太公が言った。「いわゆる五材とは、勇・智・仁・信・忠です。勇なれば犯すべからず、智なれば乱すべからず、仁なれば人を愛し、信なれば欺かず、忠なれば二心なし」。
「いわゆる十過とは。勇にして死を軽んずる者、急にして心の速やかな者、貪にして利を好む者、仁にして人に忍びざる者、智にして心の怯なる者、信にして人を信ずるを喜ぶ者、廉潔にして人を愛さぬ者、智にして心の緩やかな者、剛毅にして自ら用いる者、懦にして人に任ずるを喜ぶ者。
「勇にして死を軽んずる者は暴すべく、急にして心の速やかな者は久しくすべく、貪にして利を好む者は遺るべく、仁にして人に忍びざる者は労すべく、智にして心の怯なる者は窘しむべく、信にして人を信ずるを喜ぶ者は誑くべく、廉潔にして人を愛さぬ者は侮るべく、智にして心の緩やかな者は襲うべく、剛毅にして自ら用いる者は事うべく、懦にして人に任ずるを喜ぶ者は欺くべし。(十過は五材のそれぞれを行き過ぎに押しやったもので、それがそのまま隙になる。)
「ゆえに兵は国の大事、存亡の道にして、命は将に在る。将は国の輔、先王の重んずる所である。ゆえに将を置くには察せざるべからず。ゆえに曰く、「兵は両つながら勝たず、また両つながら敗れず」。兵が出て境を踰えれば、期は十日を出でずして、国を亡ぼすことがなければ必ず軍を破り将を殺すことになる」。
武王が言った。「善いかな」。
第二十 選将(せんしょう)選將第二十
前篇を承けて人を見抜く法。前半は外貌と内情の合わない十五種——厳しく見えて不肖、温良に見えて盗、恭敬に見えて心は慢。最後の一種が肝要で、「勢虚しく形劣りて外に出づれば至らざる所なく遂げざる所なき者」——見栄えがせず、しかも果たさぬ事のない者。「天下の賤しむ所、聖人の貴ぶ所」。後半が有名な「八徴」である。
武王が太公に尋ねた。「王者が兵を挙げ、英雄を簡練し、士の高下を知ろうとするには、どうすればよいか」。
太公が言った。「そもそも士には外貌と中情の相応じない者が十五あります。厳しくして不肖な者、温良にして盗をなす者、貌は恭敬にして心は慢る者、外は廉謹にして内に至誠なき者、精精として情なき者、湛湛として誠なき者、謀を好んで決せぬ者、果敢の如くにして能わざる者、悾悾として信ならざる者、恍恍惚惚としてかえって忠実な者、詭激にして功効ある者、外は勇にして内は怯なる者、粛粛としてかえって人を易る者、嗃嗃としてかえって静愨なる者、勢虚しく形劣りて外に出づれば至らざる所なく遂げざる所なき者。天下の賤しむ所は聖人の貴ぶ所であり、凡人には知れない。大明なる者でなければその際を見ることができない。これが士の外貌と中情の相応じない者です」。
武王が言った。「どうして知るのか」。
太公が言った。「これを知るに八徴あり。一に言をもって問い、その辞を観る。二に辞をもって窮め、その変を観る。三に与に間謀し、その誠を観る。四に明白に顕らかに問い、その徳を観る。五に財をもって使い、その廉を観る。六に色をもって試し、その貞を観る。七に難を告げ、その勇を観る。八に酒に酔わせ、その態を観る。八徴みな備われば、賢不肖は別れます」。(後世よく引かれる「八徴」。『荘子・列禦寇』の「九徴」、『呂氏春秋・論人』の「八観六験」と同源で異なる。)
第二十一 立将(りっしょう)立將第二十一
将を拝する儀式。本書でもっとも絵になる一篇である。君は正殿を避け、三日斎戒して太廟で霊亀を鑽り日を卜する。君は西面、将は北面。君は自ら鉞を執り、その首を持って柄を将に授けて言う、「これより上、天に至るまで将軍これを制せよ」。また斧を執り、柄を持って刃を将に授けて言う、「これより下、淵に至るまで将軍これを制せよ」。続いて将の答辞——「国は外より治むべからず、軍は中より御すべからず」。そして君からその場で一言の確約を求め、なければ将を受けないという。末段の「軍中の事は君命を聞かず、皆な将より出づ」「上に天なく、下に地なく、前に敵なく、後に君なし」は、中国の軍事伝統でもっとも徹底した授権の文である。
武王が太公に尋ねた。「将を立てる道とはどういうものか」。
太公が言った。「およそ国に難あれば、君は正殿を避け、将を召して詔して言う。「社稷の安危は一に将軍に在り。いま某国臣たらず、願わくは将軍師を帥いてこれに応ぜよ」。将すでに命を受ければ、太史に命じて卜せしめ、三日斎戒し、太廟に之いて霊亀を鑽り、吉日を卜して斧鉞を授けます。(正殿を避けるのは事態が尋常でないことを示す。『四庫全書総目』はまさにこの制をもって本書が周以後のものだとする。)
「君は廟門に入って西面して立ち、将は廟門に入って北面して立つ。君は親ら鉞を操り、首を持って柄を将に授けて言う。「これより上、天に至るまで、将軍これを制せよ」。また斧を操り、柄を持って刃を将に授けて言う。「これより下、淵に至るまで、将軍これを制せよ。その虚を見れば進み、その実を見れば止まれ。
「三軍の衆きをもって敵を軽んずるなかれ。命を受けたるの重きをもって必死を期するなかれ。身の貴きをもって人を賤しむなかれ。独見をもって衆に違うなかれ。弁説をもって必然と為すなかれ。士がまだ坐らぬうちに坐るなかれ、士がまだ食わぬうちに食うなかれ、寒暑は必ず同じくせよ。かくの如くであれば、士衆は必ず死力を尽くす」。将すでに命を受ければ、拝して君に報じて言う。「臣聞く、国は外より治むべからず、軍は中より御すべからず。二心は以て君に事うべからず、疑志は以て敵に応ずべからず。臣すでに命を受け、斧鉞の威を専らにす。臣、敢えて生きて還らず。願わくは君もまた一言の命を臣に垂れられよ。君が臣に許さざれば、臣、敢えて将たらず」。君がこれを許して、将は辞して行くのです」。(「軍は中より御すべからず」は「将、外に在れば君命も受けざる所あり」の語のもっとも完全な出典である。)
「軍中の事は君命を聞かず、皆な将より出づ。敵に臨んで戦いを決するに二心あることなし。かくの如くであれば、上に天なく、下に地なく、前に敵なく、後に君なしです」。
「ゆえに智者はこれがために謀り、勇者はこれがために闘い、気は青雲を厲し、疾きこと馳騖の如く、兵は刃を接せずして敵は降服する。外に戦い勝ち、内に功を立て、吏は遷り士は賞せられ、百姓は歓悦し、将に咎殃なし。ゆえに風雨は時節に応じ、五穀は豊かに熟し、社稷は安寧です」。
武王が言った。「善いかな」。
第二十二 将威(しょうい)將威第二十二
一問一答のみだが、きわめて鋭い原則。威は大なる者を誅して立て、明は小なる者を賞して示す。「一人を殺して三軍震う者は、これを殺す。一人を賞して万人悦ぶ者は、これを賞す」。殺は当路の貴重の臣にまで及ばせて「刑上極まる」、賞は牛飼い馬洗いにまで及ばせて「賞下通ず」。
武王が尋ねた。「将は何をもって威と為し、何をもって明と為し、何をもって禁止せしめ令行わしめるのか」。(景宋本・四庫本はここを「武王太公に問うて曰く」に作る。)
太公が言った。「将は大を誅するをもって威と為し、小を賞するをもって明と為し、罰の審らかなるをもって禁止せしめ令行わしめる。ゆえに一人を殺して三軍震う者は、これを殺す。一人を賞して万人悦ぶ者は、これを賞す。殺は大なるを貴び、賞は小なるを貴ぶ。殺が当路貴重の臣に及ぶ、これを刑の上極まるという。賞が牛豎・馬洗・廄養の徒に及ぶ、これを賞の下通ずるという。刑上極まり賞下通ず、これが将威の行われる所です」。
第二十三 励軍(れいぐん)勵軍第二十三
兵を率いる法。太公は「三勝」を挙げる。自分を兵卒と同じ条件に落とす三通りである。礼将(冬に裘を着ず、夏に扇を操らず、雨に蓋を張らず)、力将(険路では必ずまず車を降りて歩く)、止欲将(全軍が落ち着いてから自分の宿舎に入り、炊事がみな済んでから食べ、軍が火を挙げなければ自分も挙げない)。理由は一句——身をもって経ねば兵卒の寒暑労苦飢飽は知れない。ゆえに「士は死を好み傷を楽しむに非ず」。
武王が太公に尋ねた。「私は三軍の衆に、城を攻めては先登を争い、野に戦っては先赴を争い、金の声を聞いて怒り、鼓の声を聞いて喜ぶようにさせたい。どうすればよいか」。(金は退却、鼓は前進の合図。金を聞いて怒るとは、もっと戦いたいということ。)
太公が言った。「将には三つの勝ちがあります」。
武王が言った。「その目を聞きたい」。
太公が言った。「将が冬に裘を服ず、夏に扇を操らず、雨に蓋を張らないのを礼将といいます。将が身をもって礼を行わなければ、士卒の寒暑を知るすべがない。隘塞を出で泥塗を犯すには、将は必ずまず車を降りて歩く。これを力将といいます。将が身をもって力を出さなければ、士卒の労苦を知るすべがない。軍がみな宿営を定めてから将は舎に就き、炊く者がみな熟してから将は食に就き、軍が火を挙げなければ将もまた挙げない。これを止欲将といいます。将が身をもって欲を止めなければ、士卒の飢飽を知るすべがない。将が士卒と寒暑・労苦・飢飽を共にすれば、三軍の衆は鼓の声を聞けば喜び、金の声を聞けば怒る。城高く池深く矢石が繁く下っても士は先登を争い、白刃が始めて合すれば士は先赴を争う。士は死を好み傷を楽しむのではありません。その将が寒暑飢飽を審らかに知り、労苦を明らかに見ているからです」。
第二十四 陰符(いんぷ)陰符第二十四
長さで符号化した秘密の割符。主と将が八種の符を約束し、おのおの長さが決まっている。大勝克敵は一尺、破軍擒将は九寸、降城得邑は八寸、却敵報遠は七寸、警衆堅守は六寸、請糧益兵は五寸、敗軍亡将は四寸、失利亡士は三寸。符には字がないから敵手に落ちても読めない。代わりに言えるのはこの八件だけで、だから次篇が続く。遅延や漏洩は一律に誅。
武王が太公に尋ねた。「兵を引いて諸侯の地に深く入り、三軍に卒かに緩急があって、利もあれば害もある。私は近きをもって遠きに通じ、中より外に応じて三軍の用に給したい。どうすればよいか」。
太公が言った。「主と将には陰符があり、凡そ八等です。大勝克敵の符は長さ一尺、破軍擒将の符は九寸、降城得邑の符は八寸、却敵報遠の符は七寸、警衆堅守の符は六寸、請糧益兵の符は五寸、敗軍亡将の符は四寸、失利亡士の符は三寸。およそ使いを奉じて符を行い、稽留する者、また符の事が漏れ聞こえた場合は、告げた者をみな誅します。八符は主将の秘聞であり、陰かに言語を通じて中外相知るの術を漏らさぬためのものです。敵はたとい聖智であってもこれを識ることはできません」。(符には字がなく長短だけが意味を持つ。ゆえに奪われても読めない。『四庫全書総目』はこれを「陰符の義を知らず」と譏るが、制度としては完結して実用に堪える。)
武王が言った。「善いかな」。
第二十五 陰書(いんしょ)陰書第二十五
『陰符』の足りぬところを補う。事が多ければ八種の符では言い尽くせないから書を用いる。その法は「一合して再離し、三発して一知す」——一通の書を三分し、三人が一分ずつ別々に運び、三つ合わせてはじめて読める。誰の手にある一分も単独では意味をなさない。中国文献最古の分割秘密通信であり、原理は現代の「秘密分散」と同じである。
武王が太公に尋ねた。「兵を引いて諸侯の地に深く入り、主と将が兵を合わせ、無窮の変を行い、不測の利を図ろうとする。その事は煩多で符では明らかにできず、相隔たること遼遠で言語も通じない。どうすればよいか」。
太公が言った。「およそ陰事・大慮があるときは、書を用いて符を用いません。主は書をもって将に遺り、将は書をもって主に問う。書はみな一合して再離し、三発して一知す。再離すとは、書を分かって三部とすること。三発して一知すとは、三人が一分ずつ操り、相参じて互いに情を知らぬようにすること。これを陰書といいます。敵はたとい聖智であってもこれを識ることはできません」。(「一合して再離し、三発して一知す」は中国文献最古の分割秘密通信であり、単独の一分は無意味である点で現代の「秘密分散」と原理を同じくする。)
武王が言った。「善いかな」。
第二十六 軍勢(ぐんせい)軍勢第二十六
本書でもっとも玄妙で、もっともよく引かれる篇。核心は「無形」である——「善く戦う者は軍を張るを待たず、善く患を除く者は未だ生ぜざるに理む、善く敵に勝つ者は無形に勝つ、上戦は与に戦うなし」。中段は四句の下降——白刃の前で勝ちを争うのは良将ではない、失ってから備えるのは上聖ではない、智が衆と同じなら国師ではない、技が衆と同じなら国工ではない。後段は決断の話で、「疾雷は耳を掩うに及ばず、迅電は目を瞑るに及ばず」は後に成語となった。
武王が太公に尋ねた。「攻伐の道とはどういうものか」。
太公が言った。「勢は敵の動に因り、変は両陣の間に生じ、奇正は無窮の源より発する。ゆえに至れる事は語らず、兵を用いるときは言わない。しかも事の至れるものはその言、聴くに足らず。兵の用いられるものはその状、見るに足らない。倏として往き忽として来たり、能く独り専らにして制せられざるもの、それが兵です。そもそも兵は、聞かれれば議られ、見られれば図られ、知られれば困しみ、辨えられれば危うい。
「ゆえに善く戦う者は軍を張るを待たず、善く患を除く者は未だ生ぜざるに理め、善く敵に勝つ者は無形に勝つ。上戦は与に戦うなし。ゆえに白刃の前に勝ちを争う者は良将に非ず、すでに失いて後に備えを設ける者は上聖に非ず、智が衆と同じきは国師に非ず、技が衆と同じきは国工に非ず。事は必ず克つより大なるは莫く、用は玄黙より大なるは莫く、動は不意より神なるは莫く、謀は識られざるより善きは莫し。そもそも先に勝つ者は、先に敵に弱きを見せて後に戦う者である。ゆえに事半ばにして功倍す」。
「聖人は天地の動に徴を取る。誰かその紀を知ろう。陰陽の道に循ってその候に従い、天地の盈縮に当たってこれを常と為す。物に死生あるは天地の形に因るのです。
「ゆえに曰く、「未だ形を見ずして戦えば、衆しといえども必ず敗る」。善く戦う者は居て撓まず、勝ちを見れば起こり、勝たざれば止まる。ゆえに曰く、「恐懼するなかれ、猶予するなかれ」。兵を用いるの害は猶予が最も大きく、三軍の災は狐疑に過ぎるものはない。
「善き者は利を見て失わず、時に遇いて疑わない。利を失い時に後るれば、かえってその殃いを受ける。ゆえに智者は従ってこれを釈さず、巧者は一たび決して猶予しない。ここをもって疾雷は耳を掩うに及ばず、迅電は目を瞑るに及ばず。これに赴くこと驚くが如く、これを用いること狂うが如し。当たる者は破れ、近づく者は亡ぶ。誰かよくこれを禦がん。そもそも将には、言わずして守る所あり、これを神という。見ずして視る所あり、これを明という。ゆえに神明の道を知る者は、野に横たわる敵なく、対して立つ国なしです」。(「疾雷は耳を掩うに及ばず」は後に成語となった。)
武王が言った。「善いかな」。
第二十七 奇兵(きへい)奇兵第二十七
「奇兵」の対照表。二十六条、いずれも「甲なる者は乙の所以なり」の句形である。深草は遁れるため、谿谷は車騎を止めるため、隘塞山林は少で衆を撃つため、坳沢窈冥は形を匿すため、四分五裂は円を撃ち方を破るため……。末段は将の話に転じ、七つの「将……ざれば則ち三軍……」で締め、「将は人の司命なり」に落ちる。
武王が太公に尋ねた。「およそ兵を用いるの法、その大要はどういうものか」。
太公が言った。「古の善く戦う者は、天上に戦うことができたのでも地下に戦うことができたのでもない。その成と敗はみな神勢に由る。これを得る者は昌え、これを失う者は亡ぶ。
「両陣の間に甲を出し兵を陣し、卒を縦にして行を乱すのは変を為す所以である。深草の蓊翳たるは遁逃する所以、谿谷の険阻なるは車を止め騎を禦ぐ所以、隘塞山林は少をもって衆を撃つ所以、坳沢の窈冥たるはその形を匿す所以、清明にして隠れなきは勇力を戦わす所以、疾きこと流矢の如く撃つこと機を発するが如きは精微を破る所以、詭りて伏し奇を設け遠く張って誑き誘うは軍を破り将を擒にする所以、四分五裂は円を撃ち方を破る所以である。
「その驚駭に因るは一をもって十を撃つ所以、その労倦して暮に舎するに因るは十をもって百を撃つ所以、奇技は深水を越え江河を渡る所以、強弩長兵は水を踰えて戦う所以、長関遠候・暴疾謬遁は城を降し邑を服せしむる所以、鼓行讙囂は奇謀を行う所以、大風甚雨は前を搏ち後を擒にする所以、偽って敵の使いと称するは糧道を絶つ所以である。
「号令を謬らせ敵と服を同じくするは走北に備える所以、戦うに必ず義をもってするは衆を励まし敵に勝つ所以、尊爵重賞は命を用いるを勧める所以、厳刑重罰は罷怠を進める所以、一喜一怒・一予一奪・一文一武・一徐一疾は三軍を調和し臣下を制一する所以、高敝に処るは警守する所以、険阻を保つは固と為す所以、山林の茂穢たるは黙して往来する所以、深溝高塁にして糧を積むこと多きは持久する所以である。ゆえに曰く、「戦攻の策を知らざれば与に敵を語るべからず、分移する能わざれば与に奇を語るべからず、治乱に通ぜざれば与に変を語るべからず」。
「ゆえに曰く、「将、仁ならざれば三軍親しまず、将、勇ならざれば三軍鋭ならず、将、智ならざれば三軍大いに疑い、将、明ならざれば三軍大いに傾き、将、精微ならざれば三軍その機を失い、将、常に戒めざれば三軍その備えを失い、将、強力ならざれば三軍その職を失う」。ゆえに将は人の司命、三軍はこれと倶に治まり、これと倶に乱れる。賢将を得れば兵強く国昌え、賢将を得ざれば兵弱く国亡ぶ」。
武王が言った。「善いかな」。
第二十八 五音(ごいん)五音第二十八
本書でもっとも奇妙な篇——律管の音で敵情を判ずる。天が清く風雨のない夜半、軽騎を敵塁の九百歩外にやり、十二律管を耳に当てて大呼して驚かせ、どの管が応ずるかを聴く。角に応ずれば白虎、徴なら玄武、商なら朱雀、羽なら勾陳、五管とも応じなければ宮で青龍。後半はもっと実際的な言い方に変わる——枹鼓の音が聞こえれば角、火光が見えれば徴、金鉄矛戟の音なら商、人の嘯呼なら羽、寂として聞こえなければ宮。後半は明らかに前半を実行可能な偵察項目に翻訳したもので、一つの数術がどう実用理性に取り込まれていくかがよく見える。
武王が太公に尋ねた。「律音の声で三軍の消息、勝負の決を知ることができるか」。
太公が言った。「深いご質問です。そもそも律管は十二、その要は五音、宮・商・角・徴・羽です。これが正声であり、万代変わりません。五行の神は道の常であり、これで敵を知ることができる。金・木・水・火・土、おのおのその勝つ所をもってこれを攻めるのです。
「古の三皇の世には、虚無の情をもって剛強を制した。文字はなく、みな五行に由った。五行の道は天地自然、六甲の分は微妙の神である。その法は、天が清浄で陰雲風雨のない夜半に軽騎を遣わし、敵人の塁に至って九百歩の外で、あまねく律管を持って耳に当て、大呼してこれを驚かす。声あって管に応ずれば、その来ること甚だ微かである。角の声が管に応ずれば白虎をもってし、徴の声が応ずれば玄武をもってし、商の声が応ずれば朱雀をもってし、羽の声が応ずれば勾陳をもってする。五管の声がことごとく応じないのは宮で、青龍をもってする。これが五行の符、勝ちを佐ける徴、成敗の機です」。(白虎・玄武・朱雀・勾陳・青龍は五方の神で、ここでは五行に配した用兵の法を指す。この前半は漢代の軍中数術に属する。)
武王が言った。「善いかな」。
太公が言った。「微妙の音には、みな外に候があります」。
武王が言った。「どうして知るのか」。
太公が言った。「敵人が驚き動いたらこれを聴きなさい。枹鼓の音が聞こえれば角、火光が見えれば徴、金鉄矛戟の音が聞こえれば商、人の嘯呼の音が聞こえれば羽、寂寞として聞こえなければ宮です。この五つが声色の符です」。(後半は前半の数術を実行可能な偵察項目に翻訳したもので、両半が並び立っているところに、方術が実用理性に取り込まれていく過程がよく見える。)
第二十九 兵徴(へいちょう)兵徵第二十九
気を望み情を察する。前半はきわめて実際的な士気判断である。三軍が悦び、士卒が法を畏れ、将命を敬い、互いに敵を破ろうと励ますのは強の徴。しばしば驚き、隊伍が揃わず、互いに敵の強さを言い合い、妖言が止まないのは弱の徴。金鐸鼙鼓の音も聴く——揚がって清いのは吉、低く濁るのは凶。後半は城の気を望む話で、漢代の軍中方術に属する。末句がもっとも実用的である——城を囲んで十日雷も雨もなければ必ず急いで去れ、その城には大きな援けがある。
武王が太公に尋ねた。「私は戦わぬうちに敵の強弱を知り、勝敗の徴を予見したい。どうすればよいか」。
太公が言った。「勝敗の徴は精神に先に現れ、明将はこれを察する。しかしその敗は人に在ります。敵の出入進退を謹んで候し、その動静、言語の妖祥、士卒の告げる所を察しなさい。
「およそ三軍が悦懌し、士卒が法を畏れ、その将命を敬い、相喜んで敵を破らんとし、相励まして勇猛を尚び、相賢として威武を尚ぶ、これは強の徴である。三軍がしばしば驚き、士卒が斉わず、相恐れて敵の強きを言い、相語って不利を言い、耳目相属し、妖言止まず、衆口相惑い、法令を畏れず、その将を重んじない、これは弱の徴である。
「三軍が斉整し、陣勢すでに固く、深溝高塁にして、また大風甚雨の利があり、三軍に故なく、旌旗が前を指し、金鐸の声が揚がって清く、鼙鼓の声が宛やかに鳴る、これは神明の助けを得た大勝の徴である。行陣が固からず、旌旗が乱れて相繞い、大風甚雨の利に逆らい、士卒が恐懼し、気が絶えて続かず、戎馬が驚き奔り、兵車が軸を折り、金鐸の声が下って濁り、鼙鼓の声が沐するが如く湿る、これは大敗の徴である。
「およそ城を攻め邑を囲むとき、城の気色が死灰の如くであれば城は屠るべし。城の気が出て北すれば城は克つべし。気が出て西すれば城は必ず降る。気が出て南すれば城は抜くべからず。気が出て東すれば城は攻むべからず。気が出てまた入れば城主は逃げ北げる。気が出てわが軍の上を覆えば軍は必ず病む。気が出て止まる所なければ日を用いること長久である。およそ城を攻め邑を囲んで、旬を過ぎて雷せず雨ふらざれば、必ず亟やかにこれを去れ。城には必ず大輔がある。これが攻むべきを知って攻め、攻むべからざるを知って止まる所以です」。(望気は漢代の軍中方術。ただし末条はこの篇でもっとも実用的である。)
武王が言った。「善いかな」。
第三十 農器(のうき)農器第三十
『龍韜』の締めくくりであり、本書でもっとも面白い一篇。武王が問う——天下が治まったら攻守の具は修めなくてよいか。太公は「戦攻守禦の具は尽く人事に在り」と答え、農具を兵器に翻訳していく。耒耜は行馬蒺藜、牛車は営塁蔽櫓、鋤は矛戟、蓑笠は甲冑干楯、婦人の織る布は旌旗、里の周垣は隊伍の区分、春秋の城郭溝渠の修繕は塹塁。結論は、国を富ませることがそのまま兵を強くすることだ、という。「兵農合一」思想の現存最古かつもっとも徹底した表述である。
武王が太公に尋ねた。「天下が安定し、国家に事がない。戦攻の具は修めなくてよいか。守禦の備えは設けなくてよいか」。
太公が言った。「戦攻守禦の具は、尽く人事に在ります。耒耜は行馬・蒺藜であり、馬牛車輿は営塁・蔽櫓であり、鋤耰の具は矛戟であり、蓑・笠は甲冑・干楯であり、钁・鍤・斧・鋸・杵・臼は攻城の器であり、牛馬は糧用を転輸する所以であり、鶏犬はその伺候であり、婦人の織紝はその旌旗であり、丈夫の壌を平らかにするはその攻城であり、春に草棘を鏺るはその戦車騎であり、夏に田疇を耨るはその戦歩兵であり、秋に禾薪を刈るはその糧食の儲備であり、冬に倉廩を実たすはその堅守であり、田里相伍するはその約束符信であり、里に吏あり官に長あるはその将帥であり、里に周垣あって相過ぐるを得ざるはその隊分であり、粟を輸し芻を取るはその廩庫であり、春秋に城郭を治め溝渠を修むるはその塹塁である。ゆえに兵を用いるの具は、尽く人事に在るのです。(「兵農合一」の現存最古かつもっとも徹底した表述である。)
「善く国を為める者は人事に取る。ゆえに必ずその六畜を遂げしめ、その田野を闢き、その処所を安んじさせる。丈夫が田を治むるに畝数あり、婦人が織紝するに尺度あり。これが富国強兵の道です」。
武王が言った。「善いかな」。
巻四 虎韜(ことう)虎韜
十二篇。ここから『六韜』は地面に降りてくる。語られるのはすべて具体的な状況における具体的な戦い方である。巻頭の『軍用』は甲士一万の軍の装備一覧——車が何乗、弩が何張、斧が何柄、縄索が何条、それぞれに寸法と重さが付く。先秦の兵書には他に類のない器械表であり、先秦の軍事技術研究でもっともよく引かれる一段でもある。以下の十一篇は十一の苦境である。包囲(『疾戦』)、突囲(『必出』)、渡河(『軍略』)、対峙(『臨境』)、相持(『動静』)、悪天候(『金鼓』)、糧道遮断(『絶道』)、攻城(『略地』)、火攻(『火戦』)、虚実の判別(『塁虚』)。いずれも武王がまず最悪の局面を設定し、太公が処置を示す。『略地』末尾の一段——人の積聚を燔くなかれ、人の宮室を毀つなかれ、冢樹社叢を伐るなかれ、降る者を殺すなかれ、得たる者を戮するなかれ、そして「辜は一人に在り」と宣告する——は中国の兵書でもっとも早い占領地軍紀であり、『司馬法』の同類の条文よりも具体的である。
第三十一 軍用(ぐんよう)軍用第三十一
甲士一万の軍の装備一覧。武衝大扶胥三十六乗に始まり、車・櫓・弩・棓・斧・鎚・鉤・蒺藜・行馬・飛橋・飛江・天浮・鉄鎖・大斧・鎌・鉄杙まで、形制・寸法・重量・数量・用途(「堅陣を陥れ、強敵を敗る」「窮寇を要し、走北を遮る」)を逐一記す。末尾の総計が肝要である。甲士一万人、強弩六千、戟楯二千、矛楯二千、ほかに器械の修理を専門とする巧手三百人——この最後の一句は、著者の思い描く軍隊に技術兵科があったことを示す。篇中の器物名は今日多くが確定できず、注は考証の及ぶものに限った。
武王が太公に尋ねた。「王者が兵を挙げるとき、三軍の器用、攻守の具、その科品・多寡に法はあるのか」。
太公が言った。「大いなるかな、王の問いや。そもそも攻守の具はおのおの科品があり、これが兵の大威です」。
武王が言った。「聞きたい」。
太公が言った。「およそ兵を用いるの大数。甲士一万人を将いるには、法として用いるものは——武衝大扶胥三十六乗、材士・強弩・矛戟を翼とし、一車二十四人、八尺の車輪でこれを推し、車上に旗鼓を立てる。兵法にこれを震駭という。堅陣を陥れ強敵を敗ります。(篇中の器物名は今日多く確定できず、確かなものだけ注した。)
「武翼大櫓・矛戟扶胥七十二具、材士・強弩・矛戟を翼とし、五尺の車輪、絞車連弩を自ら副える。堅陣を陥れ強敵を敗る。
「提翼小櫓扶胥一百四十四具、絞車連弩を自ら副え、鹿車輪を用いる。堅陣を陥れ強敵を敗る。大黄参連弩大扶胥三十六乗、材士・強弩・矛戟を翼とし、飛鳧・電影を自ら副える。飛鳧は赤い茎に白羽、銅を首とする。電影は青い茎に赤羽、鉄を首とする。昼は絳縞、長さ六尺・広さ六寸をつけて光耀とし、夜は白縞、長さ六尺・広さ六寸をつけて流星とする。堅陣を陥れ歩騎を敗る。
「大扶胥衝車三十六乗、螳蜋武士が共に載り、縦をもって横を撃ち、敵を敗ることができる。輜車騎寇、一名を電車といい、兵法にこれを電撃という。堅陣を陥れ歩騎を敗る。敵が夜に来て前むときに用いる。矛戟扶胥軽車一百六十乗、螳蜋武士三人が共に載り、兵法にこれを霆撃という。堅陣を陥れ歩騎を敗る。
「方首鉄棓維朌、重さ十二斤、柄の長さ五尺以上、千二百枚、一名を天棓という。大柯斧、刃の長さ八寸、重さ八斤、柄の長さ五尺以上、千二百枚、一名を天鉞という。方首鉄鎚、重さ八斤、柄の長さ五尺以上、千二百枚、一名を天鎚という。歩騎と群寇を敗る。
「飛鉤、長さ八寸、鉤芒の長さ四寸、柄の長さ六尺以上、千二百枚。その衆に投げる。三軍が拒守するには、木螳蜋剣刃扶胥、広さ二丈、百二十具、一名を行馬という。平易の地では歩兵をもって車騎を敗る。
「木蒺藜、地を去ること二尺五寸、百二十具。歩騎を敗り、窮寇を要し、走北を遮る。軸旋短衝矛戟扶胥、百二十具、黄帝が蚩尤氏を敗った所以のもの。歩騎を敗り、窮寇を要し、走北を遮る。
「狭路微径には鉄蒺藜を張る。芒の高さ四寸、広さ八寸、長さ六尺以上、千二百具。歩騎を敗る。敵が暮れに乗じて前み促戦し白刃が接するときは、地羅を張り、両鏃蒺藜・参連織女を鋪き、芒の間を相去ること二寸、一万二千具。曠野草中には方胸鋋矛千二百具。鋋矛を張る法は高さ一尺五寸。歩騎を敗り、窮寇を要し、走北を遮る。狭路微径には地を陥れ、鉄械鎖を参連すること百二十具。歩騎を敗り、窮寇を要し、走北を遮る。
「塁門を拒守するには矛戟小櫓十二具、絞車連弩を自ら副える。三軍が拒守するには、天羅・虎落鎖連、一部の広さ一丈五尺、高さ八尺、百二十具。虎落剣刃扶胥、広さ一丈五尺、高さ八尺、五百二十具。溝塹を渡るには飛橋一間、広さ一丈五尺、長さ二丈以上、転関轆轤八具を著け、環利通索でこれを張る。
「大水を渡るには飛江、広さ一丈五尺、長さ二丈以上、八具、環利通索でこれを張る。天浮鉄螳蜋、矩は内にして円は外、径四尺以上、環絡を自ら副え、三十二具。天浮をもって飛江を張り大海を済る、これを天潢といい、一名を天舡という。山林の野居には虎落柴営を結ぶ。環利鉄鎖、長さ二丈以上、千二百枚。環利大通索、大きさ四寸、長さ四丈以上、六百枚。環利中通索、大きさ二寸、長さ四丈以上、二百枚。環利小徽縲、長さ二丈以上、一万二千枚。天雨には重車の上に蓋う板、枲を結び鉏鋙にし、広さ四尺、長さ四丈以上、車一具につき、鉄杙でこれを張る。
「伐木の大斧、重さ八斤、柄の長さ三尺以上、三百枚。棨钁、刃の広さ六寸、柄の長さ五尺以上、三百枚。銅築固為垂、長さ五尺以上、三百枚。鷹爪・方胸鉄杷、柄の長さ七尺以上、三百枚。方胸鉄叉、柄の長さ七尺以上、三百枚。方胸両枝鉄叉、柄の長さ七尺以上、三百枚。
「草木を芟る大鎌、柄の長さ七尺以上、三百枚。大櫓、刀の重さ八斤、柄の長さ六尺、三百枚。委環鉄杙、長さ三尺以上、三百枚。杙を椓つ大鎚、重さ五斤、柄の長さ二尺以上、百二十具。甲士一万人、強弩六千、戟楯二千、矛楯二千、攻具を修治し兵器を砥礪する巧手三百人。これが兵を挙げるときの軍用の大数です」。(末尾の「巧手三百人」は注目に値する。この一万人の軍には専門の技術兵がいる。)
武王が言った。「まことにその通りだ」。
第三十二 三陣(さんじん)三陣第三十二
きわめて短い篇。天陣は日月星辰・斗柄の方位、地陣は丘陵水泉の前後左右の利、人陣は車馬・文武の配合。「三陣」の説は後世に多くの派生を生んだが、源はこの数句にある。底本の篇題は「三陳」、四庫本は「三陣」。本頁は全書を通じて「陳」「陣」を「陣」に統一し、篇題もそれに従った。
武王が太公に尋ねた。「およそ兵を用いるに天陣・地陣・人陣というのはどういうものか」。
太公が言った。「日月・星辰・斗柄、一は左し一は右し、一は向かい一は背く、これを天陣といいます。丘陵・水泉にもまた前後左右の利がある、これを地陣といいます。車を用い馬を用い、文を用い武を用いる、これを人陣といいます」。(斗柄は北斗の第五から第七星。古人はこれで方位と時節を定めた。)
武王が言った。「善いかな」。
第三十三 疾戦(しっせん)疾戰第三十三
包囲されたらどうするか。太公はまずこの局面に名を与える——「天下の困兵」。次いで唯一の原則を示す。「暴かにこれを用うれば則ち勝ち、徐かにこれを用うれば則ち敗る」。猛烈にやれば生き、ゆるゆるやれば死ぬ。四武衝陣を組み、武車驍騎で敵軍を攪乱して疾撃せよ。後半は脱出後にどう勝ちにつなげるか。
武王が太公に尋ねた。「敵がわれを囲み、わが前後を断ち、わが糧道を絶った。どうすればよいか」。
太公が言った。「これは天下の困兵です。暴かにこれを用いれば勝ち、徐かにこれを用いれば敗れる。かくの如きときは、四武衝陣を為し、武車驍騎でその軍を驚かせ乱してこれを疾撃すれば、横行することができます」。
武王が言った。「すでに囲地を出たとして、それに因って勝ちとしたいが、どうすればよいか」。
太公が言った。「左軍は疾く左し、右軍は疾く右し、敵と道を争わない。中軍は迭いに前み迭いに後る。敵は衆しといえども、その将は走らせることができます」。
第三十四 必出(ひっしゅつ)必出第三十四
前篇を承け、四面包囲・糧道断絶の下での突囲法。全篇が一回の夜間突破行動になっている。人は玄旗を持ち枚を銜み、勇士が先頭で敵塁を平らげて道を開き、弩手が後ろに伏し、弱卒と車騎が中央を行く。外に出れば火と鼓を盛んにし、「地より出づるが若く、天より下るが若し」。後半はさらに難題が重なる——前に大水があって舟楫がない。答えは飛江・転関・天潢で渡り、しかもまず自分の輜重と糧食を焼き、全軍に明告する——「勇闘すれば則ち生き、勇ならざれば則ち死す」。
武王が太公に尋ねた。「兵を引いて諸侯の地に深く入り、敵が四方から合してわれを囲み、わが帰道を断ち、わが糧食を絶った。敵はすでに衆く糧食も甚だ多く、険阻もまた固い。私は必ず出たい。どうすればよいか」。
太公が言った。「必出の道は器械を宝とし、勇闘を首とします。敵の空虚の地、人なきの処を審らかに知れば、必ず出ることができる。将士は人ごとに玄旗を持ち、器械を操り、枚を銜んで夜に出る。勇力・飛足・冒将の士を前に居らせて塁を平らげ、軍のために道を開かせる。材士・強弩を伏兵として後ろに居らせ、弱卒・車騎を中に居らせる。陣が畢われば徐かに行き、慎んで驚駭させない。武衝扶胥で前後を拒守し、武翼大櫓で左右に備える。敵がもし驚いたら、勇力冒将の士が疾撃して前む。弱卒車騎はその後に属く。材士・強弩は隠れ伏して処る。敵がわれを追うのを審らかに候して、伏兵がその後を疾撃し、火と鼓を多くする。地より出づるが若く、天より下るが若し。三軍が勇闘すれば、われを能く禦ぐ者はありません」。
武王が言った。「前に大水・広塹・深坑があり、渡りたいが舟楫の備えがない。敵が屯塁してわが軍の前を限り、わが帰道を塞ぎ、斥候は常に戒め、険塞はことごとく押さえられ、車騎がわが前を要し、勇士がわが後を撃つ。どうすればよいか」。
太公が言った。「大水・広塹・深坑は敵の守らぬ所です。あるいは守るとしてもその卒は必ず寡ない。かくの如きときは、飛江・転関と天潢でわが軍を済らせる。勇力・材士はわが指す所に従い、敵を衝き陣を絶ち、みなその死を致す。まずわが輜重を燔き、わが糧食を焼き、吏士に明告する——勇闘すれば生き、勇ならざれば死す、と。すでに出た者には、わが踵軍を来させ、雲火を設け遠候を置き、必ず草木・丘墓・険阻に依らせる。敵の車騎は必ず遠く追い長駆することを敢えてしない。そして火を記とし、先に出た者は火に至って止まらせ、四武衝陣を為す。かくの如くであれば、わが三軍はみな精鋭勇闘し、われを能く止める者はありません」。(自分の輜重をまず焼くのは退路を断って心を固めるためである。)
武王が言った。「善いかな」。
第三十五 軍略(ぐんりゃく)軍略第三十五
表向きは暴雨中の渡河の問いだが、太公は直接答えず、話を平時に引き戻す——「慮り先に設けず、器械備わらず、教え素より信ならず、士卒習わざれば、王者の兵と為すべからず」。そして器械を用途別に列挙する。攻城には轒轀・臨衝、偵察には雲梯・飛楼、行軍には武衝・大櫓、越溝には飛橋・轆轤、渡水には天潢・飛江。末句が答えである——「三軍用備われば、主将何をか憂えん」。応急とは前もって備えておくことだ、というわけである。
武王が太公に尋ねた。「兵を引いて諸侯の地に深く入り、深谿大谷・険阻の水に遇う。わが三軍がまだ渡り終わらぬうちに天が暴雨し、流水が大いに至って、後は前に属くことができず、舟梁の備えもなく、水草の資もない。私は渡り終えて三軍を稽留させたくない。どうすればよいか」。
太公が言った。「およそ師を帥い衆を将いるに、慮りが先に設けられず、器械が備わらず、教えが素より信ならず、士卒が習わない、かくの如きは王者の兵と為すべきではありません。およそ三軍に大事あるとき、器械を習い用いないものはない。城を攻め邑を囲むには轒轀・臨衝があり、城中を視るには雲梯・飛楼があり、三軍の行止には武衝・大櫓があり、前後を拒守し道を絶ち街を遮るには材士・強弩があってその両旁を衝く。営塁を設けるには天羅・武落・行馬・蒺藜がある。昼は雲梯に登って遠望し五色の旗旌を立て、夜は雲火万炬を設け、雷鼓を撃ち鼙鐸を振るい鳴笳を吹く。溝塹を越えるには飛橋・転関・轆轤・鉏鋙があり、大水を済るには天潢・飛江があり、波に逆らって上流するには浮海・絶江がある。三軍の用が備われば、主将は何をか憂えん」。(問いを越えて答えている点にこそ意味がある。応急とは前もって備えておくことなのだ。底本はこの段の前に「太公曰」が重出するので削った。)
第三十六 臨境(りんきょう)臨境第三十六
国境をはさんで相持し、どちらも先に動けない。太公は兵を三つに分ける。前軍は深溝増塁で守勢を示し、後軍は糧食を積み、別に鋭士を出してその中を潜襲する。後半、敵に見破られたらもう一段重ねる——前軍が毎日挑戦してその心を疲らせ、老弱に柴を曳かせ塵を揚げさせ、鼓を打ち喚きながら、敵から百歩と離れずに往来させる。
武王が太公に尋ねた。「われと敵が境に臨んで相拒み、彼は来ることができ、われも往くことができ、陣はみな堅固で、誰も先に挙げようとしない。私は往いてこれを襲いたいが、彼もまた来ることができる。どうすればよいか」。
太公が言った。「兵を三処に分けます。わが前軍に深溝増塁して出ないよう命じ、旌旗を列し鼙鼓を撃ち、完く守備を為させる。わが後軍には糧食を多く積ませ、敵にわが意を知らせない。そしてわが鋭士を発し、潜かにその中を襲い、その不意を撃ち、その無備を攻める。敵はわが情を知らなければ、止まって来なくなります」。
武王が言った。「敵がわが情を知り、わが機を通じ、動けばわが事を得てしまう。その鋭士は深草に伏し、わが隘路を要し、わが便なる処を撃つ。どうすればよいか」。
太公が言った。「わが前軍に、日ごとに出て挑戦させ、その意を労させる。わが老弱に柴を曳かせ塵を揚げさせ、鼓し呼んで往来させ、あるいはその左に出、あるいはその右に出て、敵を去ること百歩に過ぎないようにする。その将は必ず労れ、その卒は必ず駭く。かくの如くであれば敵は敢えて来ない。わが往く者が止まず、あるいはその内を襲い、あるいはその外を撃ち、三軍が疾戦すれば、敵は必ず敗れます」。(柴を曳いて塵を揚げるのは大部隊の行動を装う古来の疑兵の法。)
第三十七 動静(どうせい)動靜第三十七
兵力伯仲でどちらも動けないとき、いかに恐慌を作り出すか。兵を敵から十里の地点で両脇に伏せ、車騎は百里外を回って前後に出し、旌旗を多くし金鼓を増やし、交戦と同時に鼓噪して一斉に起こす。後半、敵に備えがある場合はもっと手のかかる法——開戦の五日前から遠候を出し、死地を選んで伏を設け、わざと旌旗を収め行陣を疏にし、交戦すれば退き、三里退いて伏兵を起こす。
武王が太公に尋ねた。「兵を引いて諸侯の地に深く入り、敵の軍と相当たる。両陣が相望み、衆寡強弱が相等しく、敢えて先に挙げない。私は敵の将帥を恐懼させ士卒の心を傷ませ、行陣を固からざらしめ、後軍を走らんと欲せしめ、前陣をしばしば顧みさせ、そして鼓噪して乗じ、敵を走らせたい。どうすればよいか」。
太公が言った。「かくの如きときは、わが兵を発し、寇を去ること十里にしてその両旁に伏し、車騎は百里にしてその前後を越える。その旌旗を多くし、その金鼓を益す。戦い合えば鼓噪して倶に起こる。敵将は必ず恐れ、その軍は驚駭する。衆寡は相救わず、貴賤は相待たず、敵は必ず敗れます」。
武王が言った。「敵の地勢はその両旁に伏することができず、車騎もその前後を越えることができない。敵はわが慮りを知り、先にその備えを施している。わが士卒は心を傷め、将帥は恐懼し、戦っても勝てない。どうすればよいか」。
太公が言った。「まことにもっともなお問いです。かくの如きときは、戦いに先立つこと五日、わが遠候を発してその動静を視させ、その来るを審らかに候し、伏を設けてこれを待つ。必ず死地においてする。敵と相避け、わが旌旗を遠ざけ、わが行陣を疏にし、必ずその前に奔る。敵と相当たり、戦い合えば走り、金を撃って止まる。三里にして還れば、伏兵が乃ち起こり、あるいはその両旁を陥れ、あるいはその先後を撃つ。三軍が疾戦すれば、敵は必ず走ります」。(「死地」は『孫子・九地』の語で、ここは敵が入れば退路を失う地形をいう。)
武王が言った。「善いかな」。
第三十八 金鼓(きんこ)金鼓第三十八
酷寒・酷暑に連日の霖雨。溝塁は壊れ隘塞は守れず、斥候は懈怠し、敵が夜襲してくる。太公はまず総則を立てる——「三軍は戒を以て固と為し、怠を以て敗と為す」。そして具体策を示す。塁上の誰何を絶やさず、人は旗を執り内外相望み、号をもって相命じ、声を絶やさず、しかも一律に外を向く。三千人で一屯。敵は備えを見て引き返し、そのとき力尽き気怠るから、鋭士を出して追撃する。後半は追撃時の逆伏対策。
武王が太公に尋ねた。「兵を引いて諸侯の地に深く入り、敵と相当たる。ところが天が大寒あるいは甚暑で、日夜霖雨が旬日止まない。溝塁はことごとく壊れ、隘塞は守れず、斥堠は懈怠し、士卒は戒めない。敵が夜に来て三軍に備えなく、上下惑乱する。どうすればよいか」。
太公が言った。「およそ三軍は戒を以て固と為し、怠を以て敗と為す。わが塁上に誰何を絶やさぬよう命じ、人は旌旗を執り、外内相望み、号をもって相命じ、音を乏しからしめず、しかもみな外に向かわせる。三千人を一屯とし、誡めてこれを約し、おのおのその処を慎ませる。敵がもし来てわが軍の警戒を視れば、至って必ず還り、力尽き気怠る。わが鋭士を発し、随ってこれを撃つのです」。(「誰何」は誰か、何者か、と誰何する合言葉。中国文献では非常に早い歩哨の記録である。)
武王が言った。「敵がわれの随うことを知って、その鋭士を伏せ、佯り北げて止まない。伏に遇って還れば、あるいはわが前を撃ち、あるいはわが後を撃ち、あるいはわが塁に薄る。わが三軍は大いに恐れ、擾乱して次を失い、その処所を離れる。どうすればよいか」。
太公が言った。「三隊に分かれ、随ってこれを追い、その伏を越えないようにする。三隊が倶に至って、あるいはその前後を撃ち、あるいはその両旁を陥れる。号を明らかにし令を審らかにし、疾撃して前めば、敵は必ず敗れます」。
第三十九 絶道(ぜつどう)絕道第三十九
糧道を断たれ前後を越えられる。太公の答えは戦法ではなく地の選び方にある。敵地に深入りするなら必ずまず地形を察し、山林・険阻・水泉・林木に拠って固めを作り、関梁を守り、城邑・丘墓の地形の利まで知っておく。後半は行軍の常制——遠候は二百里外に出し、地勢が不利なら武衝車で移動壁塁を作って前進し、後ろにさらに二支の「踵軍」を置く。遠きは百里、近きは五十里。伝世文献では非常に早い行軍梯次配置である。
武王が太公に尋ねた。「兵を引いて諸侯の地に深く入り、敵と相守る。敵がわが糧道を絶ち、またわが前後を越える。戦おうとすれば勝てず、守ろうとすれば久しくできない。どうすればよいか」。
太公が言った。「およそ敵人の境に深く入るときは、必ず地の形勢を察し、務めて便利を求めます。山林・険阻・水泉・林木に依ってこれを固しとし、謹んで関梁を守り、また城邑・丘墓の地形の利を知る。かくの如くであればわが軍は堅固で、敵はわが糧道を絶つことができず、またわが前後を越えることもできません」。
武王が言った。「わが三軍が大林・広沢・平易の地を過ぎるとき、わが会合が誤って失し、猝かに敵と相薄る。戦っても勝てず、守っても固からず。敵がわが両旁を翼し、わが前後を越え、三軍が大いに恐れる。どうすればよいか」。(景宋本・四庫本はともに「卒かに敵人と相薄る」に作る。)
太公が言った。「およそ師を帥いるの法は、常にまず遠候を発し、敵を去ること二百里にして敵の在る所を審らかに知ることです。地勢が不利なら武衝をもって塁と為して前み、また二つの踵軍を後ろに置く。遠きは百里、近きは五十里。もし警急があれば前後相知り、わが三軍は常に完堅で、必ず毀傷はありません」。(伝世文献では非常に早い行軍梯次配置である。本隊・前候・二重の後衛。)
武王が言った。「善いかな」。
第四十 略地(りゃくち)略地第四十
攻城。前半は囲城の常法——車騎を遠くに置き、内外を隔て、城内は糧が尽き外からは運べず、守将は自然に降る。中段は窮鼠猫を噛む場合の処置で、要点は「これがために遺缺の道を置きて以てその心を利す」——わざと活路を一本残し、死戦させないこと。末段は本書でもっとも重要な軍紀である。積聚を燔かず、宮室を毀たず、冢樹社叢を伐らず、降る者を殺さず、得たる者を戮さず、そして敵国の士民に「辜は一人に在り」と宣告する。後世の「民を弔い罪を伐つ」説の張本である。
武王が太公に尋ねた。「戦い勝って深く入り、その地を略するが、大城があって下せない。その別軍が険阻を守ってわれと相拒む。私は城を攻め邑を囲みたいが、その別軍が猝かに至ってわれに薄り、中外相合してわが表裏を拒むことを恐れる。三軍は大いに乱れ、上下は恐駭する。どうすればよいか」。
太公が言った。「およそ城を攻め邑を囲むには、車騎は必ず遠く、屯衛して警戒し、その内外を阻む。中の人は糧を絶たれ、外からは輸すことができず、城の人は恐怖し、その将は必ず降ります」。
武王が言った。「中の人が糧を絶たれ外から輸せなくなると、陰かに約誓し相与に密謀する。夜に出て窮寇が死戦し、その車騎鋭士があるいはわが内を衝き、あるいはわが外を撃つ。士卒は迷惑し、三軍は敗乱する。どうすればよいか」。
太公が言った。「かくの如きときは、三軍に分かち、謹んで地形を視て処る。敵の別軍の在る所、およびその大城・別堡を審らかに知り、これがために遺缺の道を置いてその心を利し、謹んで備えて失わない。敵は恐懼して、山林に入らねば大邑に帰る。その別軍を走らせ、車騎は遠くその前を要し、遺脱させない。中の人は先に出た者がその径道を得たと思って、その練卒材士が必ず出る。その老弱だけが残る。車騎が深く入り長駆すれば、敵の軍は必ず至ることを敢えてしない。慎んで与に戦うことなく、その糧道を絶ち、囲んでこれを守り、必ずその日を久しくする。人の積聚を燔くなかれ、人の宮室を毀つなかれ、冢樹・社叢を伐るなかれ。降る者は殺すなかれ、得たる者は戮するなかれ。これに示すに仁義をもってし、これに施すに厚徳をもってする。その士民に令して言え、「辜は一人に在り」と。かくの如くであれば天下は和して服します」。(「遺缺の道」は『孫子・軍争』の「囲師には必ず闕く」と同じ。「辜は一人に在り」は後世の「民を弔い罪を伐つ」説の張本である。)
武王が言った。「善いかな」。
第四十一 火戦(かせん)火戰第四十一
火攻を受けたとき。やり方が直観に反する。火が起こるのを見たら、ただちに自分の前も焼いて広げ、後ろも焼き、焼け跡の黒地に退いて守る——火は焼けた所は焼けない。後半、敵が四面に火をかけ煙が軍を覆い、大兵が黒地から起こってきたら。太公の答えは正直である——四武衝陣を組み強弩で左右を護る、「その法、勝つなくまた負くるなし」。全書中、太公が引き分けしかないと認める唯一の箇所である。
武王が太公に尋ねた。「兵を引いて諸侯の地に深く入り、深草の蓊穢たるがわが軍の前後左右を周る。三軍は数百里を行き、人馬は疲倦して休止している。敵が天の燥き疾風の利に因ってわが上風を燔き、車騎鋭士がわが後に堅く伏している。三軍は恐怖し、散乱して走る。どうすればよいか」。
太公が言った。「かくの如きときは、雲梯・飛楼で左右を遠望し、謹んで前後を察します。火が起こるのを見れば、すぐわが前を燔いて広く延ばし、またわが後を燔く。敵がもし至れば、軍を引いて却き、黒地に按じて堅く処る。敵が来てもなおわが後にあれば、火の起こるのを見て必ず遠く走る。われは黒地に按じて処り、強弩材士がわが左右を衛り、またわが前後を燔く。かくの如くであれば、敵はわれを害することができません」。(火は焼けた所へは進まない。ゆえに「黒地に按じて処る」——古代の火攻対策でもっとも有名な一条である。)
武王が言った。「敵がわが左右を燔き、また前後を燔き、煙がわが軍を覆い、その大兵が黒地に按じて起こる。どうすればよいか」。
太公が言った。「かくの如きときは、四武衝陣を為し、強弩がわが左右を翼す。その法は勝つなくまた負くるなしです」。(全書中、太公が引き分けしかないと認める唯一の箇所である。)
第四十二 塁虚(るいきょ)壘虛第四十二
『虎韜』の締め。空営の見破り方。高きに登って下を望む。鼓に音なく鐸に声なく、塁上に飛鳥が多くて驚かず、上に人気の氛気がない——それは草人を立てた偽装である。また、敵が急に去って遠からず、落ち着かぬうちに引き返すのは、士卒を急がせすぎているのだ。急がせすぎれば前後が続かず、続かねば行陣は必ず乱れる。そのときすぐ兵を出して撃てば、少で衆を撃っても勝てる。
武王が太公に尋ねた。「どうやって敵塁の虚実、自ら来たのか自ら去ったのかを知るのか」。
太公が言った。「将は必ず上は天道を知り、下は地利を知り、中は人事を知らねばなりません。高きに登って下を望み、敵の変動を観る。その塁を望めばその虚実を知り、その士卒を望めばその来去を知ります」。
武王が言った。「どうして知るのか」。
太公が言った。「その鼓を聴いて音なく、鐸に声なく、その塁上を望めば飛鳥が多くて驚かず、上に氛気がなければ、必ず敵が詐って偶人を立てたのだと知れます。敵が猝かに去って遠からず、未だ定まらぬうちにまた返るのは、彼がその士卒を用いること太だ疾いのです。太だ疾ければ前後が相次がず、相次がねば行陣は必ず乱れる。かくの如きときは、急ぎ兵を出してこれを撃てば、少をもって衆を撃っても必ず敗ります」。(飛鳥が驚かないのは営中に人がいない最も確かな徴で、後世の兵書がしばしばこの条を引く。)
巻五 豹韜(ひょうとう)豹韜
八篇。いずれも特殊な地形、あるいは劣勢下での戦い方である。林中(『林戦』)、城下まで突入された場合(『突戦』)、敵強我弱(『敵強』『敵武』)、草木のない高山(『烏雲山兵』)、水を隔てての対峙(『烏雲沢兵』)、少で衆を撃つ(『少衆』)、険隘(『分険』)。八篇のうち六篇の問いが「兵を引いて諸侯の地に深く入り」で始まる。『六韜』が想定する戦争の形は、孤軍が他人の土地で戦うことであり、だから全篇を通じていちばん気にしているのは「どうすれば困死しないか」なのである。本巻の二篇の題にある「烏雲」について一言。篇末に自ら「烏散じて雲合し、変化窮まりなき者なり」と解いている。ところが景宋本は二篇の篇題も本文もこの字を一律「鳥」に作る——鳥が散じて雲が合する、のほうが文義は通る。底本と四庫本はともに「烏」なので、本頁は旧に従いつつ両説を併記した。
第四十三 林戦(りんせん)林戰第四十三
林中の戦い。一問一答のみ。要点は、弓弩を外に戟楯を内に、草木を斬り除いて道を広く取り、旌旗を高く置いて敵の目を塞ぎ、林間の木が疎らなら騎を輔とし戦車を前に置き、険阻が多ければ衝陣を組んで前後に備える。末句の「更々戦い更々息み、おのおのその部に按ず」——交代で戦い交代で休むのは、本書に繰り返し現れる疲労管理の原則である。
武王が太公に尋ねた。「兵を引いて諸侯の地に深く入り、大林に遇い、敵と林を分けて相拒む。私は守れば固く、戦えば勝つようにしたい。どうすればよいか」。
太公が言った。「わが三軍を分かって衝陣と為し、兵に便なる処に拠り、弓弩を表とし戟楯を裏とします。草木を斬り除いてわが道を極めて広くし、戦う所に便ならしめる。旌旗を高く置き、謹んで三軍を敕し、敵にわが情を知らせない。これを林戦といいます。林戦の法は、わが矛戟を率いて相与に伍を為すこと。林間の木が疎らであれば騎をもって輔とし、戦車を前に居らせ、便を見れば戦い、便を見なければ止まる。林に険阻が多ければ必ず衝陣を置いて前後に備える。三軍が疾戦すれば、敵は衆しといえども、その将は走らせることができます。更々戦い更々息み、おのおのその部に按ずる、これが林戦の紀です」。
第四十四 突戦(とつせん)突戰第四十四
敵が長駆して城下まで来た場合。太公はまず名を与える——「突兵」。そしてその弱点を指摘する。突入してきた兵は牛馬に食わせるものがなく士卒は糧を絶たれているから、猛進するほかない。対策は遠方の別軍にその後を衝かせ、月末の闇夜に会攻を約すること。後半は敵を城下に誘い込む一式の仕掛けである。城を去ること四里に塁を築き、塁上に百歩ごとに「突門」を開き、門外に行馬を設け、車騎は外、勇士は隠す。まず軽卒が佯り敗け、城上では普段どおり鼓を撃ち旗を張って守るばかりの風を装う。敵が城下に迫ったところで伏兵が突門から出る——「勇者は闘うを得ず、軽者は走るに及ばず」。
武王が太公に尋ねた。「敵が深く入り長駆して、わが地を侵掠し、わが牛馬を駆り、その三軍が大挙して至り、わが城下に薄る。わが士卒は大いに恐れ、人民は係累されて敵の虜となっている。私は守れば固く、戦えば勝つようにしたい。どうすればよいか」。
太公が言った。「かくの如きを突兵といいます。その牛馬は必ず食を得られず、士卒は糧を絶たれ、暴かに撃って前むほかない。わが遠邑の別軍に、その鋭士を選ばせてその後を疾撃させる。その期日を審らかにし、必ず晦に会させる。三軍が疾戦すれば、敵は衆しといえども、その将は虜にすることができます」。(晦は月末で月がない。夜襲に適する。)
武王が言った。「敵が三、四に分かれ、あるいは戦ってわが地を侵掠し、あるいは止まってわが牛馬を収める。その大軍はまだすべて至らないのに、寇にわが城下へ薄らせて、わが三軍を恐懼させる。どうすればよいか」。
太公が言った。「謹んで敵を候し、まだすべて至らぬうちに備えを設けて待ちます。城を去ること四里にして塁と為し、金鼓・旌旗をみな列して張り、別隊を伏兵と為す。わが塁上に精強な弩を多く置き、百歩ごとに一つの突門、門には行馬あり、車騎は外に居り、勇力鋭士は隠れて処る。敵がもし至れば、わが軽卒に合戦して佯り走らせ、わが城上には旌旗を立て鼙鼓を撃たせ、完く守備を為させる。敵はわれを城を守るのみと思って必ずわが城下に薄る。わが伏兵を発してその内を衝き、あるいはその外を撃つ。三軍が疾戦し、あるいはその前を撃ち、あるいはその後を撃てば、勇者は闘うを得ず、軽者は走るに及ばない。これを突戦といいます。敵は衆しといえども、その将は必ず走ります」。
武王が言った。「善いかな」。
第四十五 敵強(てききょう)敵強第四十五
敵衆我寡・敵強我弱で、しかも敵が夜襲してくる。太公はまず名を与え——「震寇」——次いで判断を下す。「出でて戦うに利あり、守るべからず」。夜襲を受けたとき守るのはかえって死路で、打って出るしかない。後半は夜戦の通信法である。人ごとに炬火を持ち、二人で一つの鼓を撃つ。合図を決めておき、聞けば同時に火を滅し鼓を止める——先秦文献ではめったに見られない夜戦号令の細部である。
武王が太公に尋ねた。「兵を引いて諸侯の地に深く入り、敵の衝軍と相当たる。敵衆くわれ寡なく、敵強くわれ弱い。敵が夜に来て、あるいはわが左を攻め、あるいはわが右を攻め、三軍が震動する。私は戦えば勝ち、守れば固いようにしたい。どうすればよいか」。
太公が言った。「かくの如きを震寇といいます。出でて戦うに利あり、守るべきではありません。わが材士・強弩・車騎を選んでこれが左右と為し、その前を疾撃し、その後を急攻し、あるいはその表を撃ち、あるいはその裏を撃つ。その卒は必ず乱れ、その将は必ず駭きます」。
武王が言った。「敵が遠くわが前を遮り、急にわが後を攻め、わが鋭兵を断ち、わが材士を絶つ。わが内外は相聞くことを得ず、三軍は擾乱してみな散り走る。士卒に闘志なく、将吏に守心なし。どうすればよいか」。
太公が言った。「明らかなるかな、王の問いや。まさに号を明らかにし令を審らかにし、わが勇・鋭・冒将の士を出し、人は炬火を操り、二人で同じ鼓を撃つ。必ず敵の在る所を知り、あるいはその表を撃ち、あるいはその裏を撃つ。微号で相知り、これに令して火を滅せしめ、鼓音をみな止める。中外相応じ、期約みな当たる。三軍が疾戦すれば、敵は必ず敗亡します」。(人ごとに炬火を持ち二人で一鼓を撃ち、火を滅し鼓を止めて合図とする——先秦文献ではめったに見られない夜戦号令の細部。)
武王が言った。「善いかな」。
第四十六 敵武(てきぶ)敵武第四十六
不意の遭遇で敵は衆く且つ武、わが軍はすでに潰走して止まらない。ここでも名を与え——「敗兵」——そして「善き者は以て勝ち、善からざる者は以て亡ぶ」という。この局面はまだ救える、要は腕次第だ、と。材士強弩を伏せ、武車驍騎は常に前後三里を遊弋させる。敵が追ってきたら車騎でその左右を衝く——敵が乱れれば「わが走る者は自ら止まる」。
武王が太公に尋ねた。「兵を引いて諸侯の地に深く入り、猝かに敵に遇う。甚だ衆く且つ武である。武車驍騎がわが左右を繞る。わが三軍はみな震え、走って止めることができない。どうすればよいか」。
太公が言った。「かくの如きを敗兵といいます。善き者は以て勝ち、善からざる者は以て亡びます」。
武王が言った。「ではどうすればよいか」。
太公が言った。「わが材士強弩を伏せ、武車驍騎をこれが左右と為し、常に前後を去ること三里。敵がわれを逐えば、わが車騎を発してその左右を衝く。かくの如くであれば敵は擾乱し、わが走る者は自ら止まります」。(潰走を止める法は叱ることではなく、敵もまた乱れているのを見せることだ、というのである。)
武王が言った。「敵がわが車騎と相当たり、敵衆くわれ寡なく、敵強くわれ弱い。その来ることは整治精鋭で、わが陣は敢えて当たれない。どうすればよいか」。
太公が言った。「わが材士強弩を選んで左右に伏せ、車騎は堅陣して処る。敵がわが伏兵を過ぎたら、積弩でその左右を射る。車騎鋭兵がその軍を疾撃し、あるいはその前を撃ち、あるいはその後を撃つ。敵は衆しといえども、その将は必ず走ります」。
武王が言った。「善いかな」。
第四十七 烏雲山兵(うんうんさんぺい)烏雲山兵第四十七
孤軍が草木のない高山に登り四面を敵に囲まれる。太公はまず二律背反を述べる。山の高きに処れば敵に「棲」わされ、山の下に処れば敵に「囚」われる。すでに山に拠ったからには烏雲の陣を組む——陰にも陽にも備え、左右も同様。敵が登れる所にはすべて外側に兵を置き、衢道谷口は武車で塞ぎ、旌旗を高く置く。これを「山城」という。
武王が太公に尋ねた。「兵を引いて諸侯の地に深く入り、高山・盤石に遇う。その上は亭亭として草木なく、四面に敵を受ける。わが三軍は恐懼し、士卒は迷惑する。私は守れば固く、戦えば勝つようにしたい。どうすればよいか」。
太公が言った。「およそ三軍が山の高きに処れば敵に棲わされ、山の下に処れば敵に囚われます。すでに山に被って処る以上、必ず烏雲の陣を為さねばならない。烏雲の陣は陰陽みな備わる。あるいはその陰に屯し、あるいはその陽に屯する。山の陽に処れば山の陰に備え、山の陰に処れば山の陽に備え、山の左に処れば山の右に備え、山の右に処れば山の左に備える。その山、敵の陵ることのできる所には、兵をその表に備える。衢道・通谷は武車をもって絶つ。旌旗を高く置き、謹んで三軍を敕し、敵にわが情を知らせない。これを山城といいます。行列すでに定まり、士卒すでに陣し、法令すでに行われ、奇正すでに設けられたら、おのおの衝陣を山の表に置き、兵に便なる処に拠り、乃ち車騎を分かって烏雲の陣と為す。三軍が疾戦すれば、敵は衆しといえども、その将は擒にすることができます」。(底本「栖」は「棲」に改めた。景宋本は篇題も本文も「烏」を一律「鳥」に作る。)
第四十八 烏雲沢兵(うんうんたくへい)烏雲澤兵第四十八
水を隔てて相持し、敵は富んで衆く、われは貧しく寡なく、しかも斥鹵(塩分の多い荒地)に駐屯して四方に邑も草木もない。本書が想定する最悪の境遇である。太公の第一の答えは現実的で、走るが上——「便を索めて敵を詐り亟やかにこれを去る」、同時に後路に伏を設ける。第二の答えは「途を求むるの道は金玉を主と為し、必ず敵の使いに因る」——金玉で道を買う。第三の答えでようやく戦法になる。底本は「吾が三軍敗れて走る」からいきなり「太公曰く、かくの如きときは」に続き、間の一問一答五十字を脱している。本頁は景宋本・四庫本に拠って補った。巻末〈底本と校例〉参照。
武王が太公に尋ねた。「兵を引いて諸侯の地に深く入り、敵と水に臨んで相拒む。敵は富んで衆く、われは貧しくて寡ない。水を踰えてこれを撃てば前むことができず、日を久しくしようとすれば糧食が少ない。われは斥鹵の地に居り、四旁に邑なく、また草木もない。三軍は掠取する所なく、牛馬は芻牧する所がない。どうすればよいか」。
太公が言った。「三軍に備えなく、士卒に糧なく、牛馬に食なし。かくの如きときは、便を索めて敵を詐り、亟やかにこれを去り、伏兵を後に設けます」。(景宋本・四庫本はこの句を「三軍備えなく、牛馬食なく、士卒糧なし」の順に作る。)
武王が言った。「敵は詐ることができない。わが士卒は迷惑し、敵がわが前後を越え、わが三軍は敗れて走る。どうすればよいか」。
太公が言った。「途を求むるの道は金玉を主と為し、必ず敵の使いに因り、精微を宝と為します」。(底本はこの段と次段の五十字を脱する。本頁は景宋本・四庫本に拠って補った。巻末〈底本と校例〉参照。)
武王が言った。「敵がわが伏兵を知り、大軍は済ろうとせず、別将が隊を分けて水を踰えてくる。わが三軍は大いに恐れる。どうすればよいか」。
太公が言った。「かくの如きときは、分かって衝陣と為し、兵に便なる処に拠ります。その畢く出るのを須って、わが伏兵を発してその後を疾撃し、強弩が両旁からその左右を射、車騎を分かって烏雲の陣と為してその前後に備え、三軍が疾戦する。敵はわれの戦い合うのを見れば、その大軍が必ず水を済って来る。わが伏兵を発してその後を疾撃し、車騎がその左右を衝けば、敵は衆しといえども、その将は走らせることができます。およそ兵を用いるの大要は、敵に当たり戦に臨んでは必ず衝陣を置いて兵に便なる処に拠り、然る後に車騎を分かって烏雲の陣と為すこと。これが用兵の奇です。いわゆる烏雲とは、烏散じて雲合し、変化窮まりなきものです」。(景宋本はここも二篇の篇題も一律「鳥雲」「鳥散じて雲合す」に作り、鳥群が忽ち散り忽ち集まる象を取って文義が通りやすい。底本と四庫本はともに「烏」なので旧に従い、両説を併記した。)
武王が言った。「善いかな」。
第四十九 少衆(しょうしゅう)少眾第四十九
少で衆を撃ち、弱で強を撃つ二つの総則。少で衆を撃つには天の時(日暮)と地の利(深草・隘路)に拠り、弱で強を撃つには外交(大国の与、隣国の助)に拠る。武王が、その条件が一つもなかったらと問い返す。太公の答えが見事で、条件がなければ作ればよい、という。虚勢を張って誘い、道を迂回させて深草を通らせ、路を遠くして日暮に会わせる。外交のほうは「その幣を厚くし、その辞を卑しくす」れば足りる。
武王が太公に尋ねた。「私は少をもって衆を撃ち、弱をもって強を撃ちたい。どうすればよいか」。
太公が言った。「少をもって衆を撃つには、必ず日の暮れをもってし、深草に伏し、隘路にこれを要します。弱をもって強を撃つには、必ず大国の与、隣国の助を得ねばなりません」。
武王が言った。「われに深草なく、また隘路もない。敵はすでに至って日暮に適わない。われに大国の与なく、また隣国の助もない。どうすればよいか」。
太公が言った。「妄りに張り詐り誘って、その将を熒惑し、その途を迂らせて深草を過ぎさせ、その路を遠くして日暮に会わせる。前行がまだ水を渡らず、後行がまだ舎に及ばぬときに、わが伏兵を発してその左右を疾撃し、車騎がその前後を擾乱する。敵は衆しといえども、その将は走らせることができます。大国の君に事え、隣国の士に下り、その幣を厚くしその辞を卑しくする。かくの如くであれば、大国の与、隣国の助を得られます」。(条件がなければ作ればよい。「因」の字を本書中もっとも自在に用いた一段である。)
武王が言った。「善いかな」。
第五十 分険(ぶんけん)分險第五十
『豹韜』の締め。険隘の中で敵と分かれて相拒み、わが方は左が山で右が水、敵は右が山で左が水。山の左に処れば急ぎ山の右に備え、右に処れば急ぎ左に備える。大水があって舟楫がなければ天潢で渡す。渡り終えたら急いで道を広くする。武衝を前後に、強弩を列し、衢道谷口を武衝で絶ち、旌旗を高く置く。これを「軍城」という。険戦の常法は武衝を前に、大櫓を衛とし、材士強弩が左右を翼し、三千人で一屯、左中右の三軍が並び攻めて前み、戦い終えた者は屯所に帰る——「更々戦い更々息み、必ず勝ちて乃ち已む」。
武王が太公に尋ねた。「兵を引いて諸侯の地に深く入り、敵と険阨の中に相遇う。われは山を左にし水を右にし、敵は山を右にし水を左にして、われと険を分けて相拒む。私は守れば固く、戦えば勝つようにしたい。どうすればよいか」。
太公が言った。「山の左に処れば急ぎ山の右に備え、山の右に処れば急ぎ山の左に備えます。険に大水あって舟楫なければ、天潢でわが三軍を済らせる。すでに済った者は亟やかにわが道を広くし、戦う所に便ならしめる。武衝を前後と為し、その強弩を列し、行陣をみな固くさせる。衢道・谷口は武衝でこれを絶つ。旌旗を高く置く、これを軍城といいます。およそ険戦の法は、武衝を前と為し、大櫓を衛と為し、材士強弩がわが左右を翼する。三千人を一屯とし、必ず衝陣を置いて兵に便なる処に拠る。左軍は左し、右軍は右し、中軍は中して、並び攻めて前む。すでに戦った者は屯所に還り帰り、更々戦い更々息み、必ず勝ちて乃ち已むのです」。(ここの「軍城」と前篇の「山城」は同じ構想で、野戦の営塁を守れる城に仕立てることである。)
武王が言った。「善いかな」。
巻六 犬韜(けんとう)犬韜
十篇、全書の締めくくり。軍そのものをどう組み立てるかを論ずる。どう会師するか(『分合』)、いつ撃つべきか(『武鋒』)、性情によってどう隊を編むか(『練士』)、一人からどう百万まで教えるか(『教戦』)、車・騎・歩の換算(『均兵』)、車士・騎士の選抜基準(『武車士』『武騎士』)、車と騎それぞれの死地と勝地(『戦車』『戦騎』)、末篇『戦歩』は歩兵が車騎にどう対するか。特に見るべき箇所が三つある。『練士』は士卒を動機によって十一の隊に分ける——敢死の者、陣を破る者、仇を報いる者、貧しく怒れる者、贅婿や捕虜で名を雪ぎたい者、刑徒で恥を逃れたい者——古代文献では最古の心理による編組法である。『教戦』の「一人戦を学び、教え成れば十人に合す」は逐級拡大の訓練法で、後世、戚継光『紀効新書』もなおこの法を用いた。『均兵』は車・騎・歩の数量換算(易地は一車が歩卒八十人、険地は半分)を与える。先秦文献で唯一の兵種当量表である。
第五十一 分合(ぶんごう)分合第五十一
会師の法。大将がまず戦地と戦日を定め、檄書を各将吏に送って期を約する。城を攻め邑を囲むにはおのおのその所に会し、戦日を明告して漏刻の時まで定める。大将は営を設けて陣し、轅門に表を立て、道を清めて待つ。諸将吏が至ればその先後を校べ、期に先んじて至る者は賞し、期に後れて至る者は斬る。全篇が一つのこと——時間——だけを論ずる。
武王が太公に尋ねた。「王者が師を帥い、三軍が数処に分かれ、将が期して会し合戦しようとするとき、賞罰を約誓するにはどうすればよいか」。
太公が言った。「およそ兵を用いるの法、三軍の衆には必ず分合の変があります。その大将がまず戦地・戦日を定め、然る後に檄書を諸将吏に移して期を約する。城を攻め邑を囲むにはおのおのその所に会し、戦日を明告して漏刻に時あり。大将は営を設けて陣し、表を轅門に立て、道を清めて待つ。諸将吏の至る者は、その先後を校べ、期に先んじて至る者は賞し、期に後れて至る者は斬る。かくの如くであれば、遠近が奔り集まり、三軍が倶に至り、力を并せて合戦します」。
第五十二 武鋒(ぶほう)武鋒第五十二
いつ撃ってよいか。太公は「十四変」を挙げる。新たに集まったところ、人馬がまだ食っていないところ、天時が順わないところ、地形を得ていないところ、奔走しているところ、戒めていないところ、疲労しているところ、将が士卒と離れているところ、長路を渉ったところ、水を済っているところ、暇のないところ、険阻狭路にあるところ、行を乱しているところ、心が怖れているところ。一条一句、本書でもっともテンポの速い篇である。
武王が太公に尋ねた。「およそ兵を用いるの要は、必ず武車驍騎あって陣に馳せ鋒を選び、可を見ればこれを撃つという。どうであれば撃ってよいのか」。
太公が言った。「そもそも撃とうとする者は、敵の十四変を審察すべきです。変が見えれば撃つ、敵は必ず敗れます」。
武王が言った。「十四変を聞かせてもらえるか」。
太公が言った。「敵が新たに集まれば撃つべし。人馬がまだ食わざれば撃つべし。天時が順わざれば撃つべし。地形を得ざれば撃つべし。奔走すれば撃つべし。戒めざれば撃つべし。疲労すれば撃つべし。将が士卒に離るれば撃つべし。長路を渉れば撃つべし。水を済れば撃つべし。暇あらざれば撃つべし。阻難狭路なれば撃つべし。行を乱せば撃つべし。心怖るれば撃つべし」。
第五十三 練士(れんし)練士第五十三
性情と境遇によって士卒を編隊する。十一種——冒刃の士(敢死楽傷)、陥陣の士(鋭気壮勇)、勇鋭の士(奇表長剣)、勇力の士(金鼓旌旗を引き裂く力)、寇兵の士(善走)、死闘の士(失勢した旧臣が功を立て直したい)、死憤の士(戦死した将の子弟が仇を報いたい)、必死の士(貧しく怒って一矢報いたい)、励鈍の士(贅婿や捕虜が名を雪ぎたい)、幸用の士(刑徒が恥を逃れたい)、待命の士(技能があり重きを負うて遠きに致せる)。後の五種が勇力ではなくそれぞれの心の結び目に拠っている点が注目される。古代文献では最古の動機による編組法である。
武王が太公に尋ねた。「士を練るの道とはどういうものか」。
太公が言った。「軍中に大勇力あって死を敢てし傷を楽しむ者は、聚めて一卒と為し、冒刃の士と名づけます。鋭気壮勇強暴なる者は、聚めて一卒と為し、陥陣の士と名づけます。奇表あり長剣を帯び、武を接し列を斉しくする者は、聚めて一卒と為し、勇鋭の士と名づけます。距を披き鉤を伸ばし、強梁多力にして、金鼓を潰破し旌旗を絶滅する者は、聚めて一卒と為し、勇力の士と名づけます。高きを踰え遠きを絶ち、軽足にして善く走る者は、聚めて一卒と為し、寇兵の士と名づけます。王臣で勢を失い、また功を見さんと欲する者は、聚めて一卒と為し、死闘の士と名づけます。将を死なせた人の子弟で、その将のために仇を報いんと欲する者は、聚めて一卒と為し、死憤の士と名づけます。貧窮忿怒して、その志を快くせんと欲する者は、聚めて一卒と為し、必死の士と名づけます。贅婿・人虜で、名を掩い揭げんと欲する者は、聚めて一卒と為し、励鈍の士と名づけます。(贅婿は秦漢では身分が低く、しばしば徴発された。)
「胥靡で罪を免ぜられた人で、その恥を逃れんと欲する者は、聚めて一卒と為し、幸用の士と名づけます。材技が人に兼ね、重きを負うて遠きに致すことのできる者は、聚めて一卒と為し、待命の士と名づけます。これが軍の練士であり、察せざるべからざるものです」。(胥靡は労役に服する刑徒。後の五種は勇力ではなく各人の心の結び目に拠っている。古代文献では最古の動機による編組法である。)
第五十四 教戦(きょうせん)教戰第五十四
きわめて短いが、もっとも有名な篇。訓練は逐級に拡大する。一人が覚えれば十人に合し、十人が覚えれば百人に合し、百人、千人、万人、ついには三軍・百万の衆に及ぶ。この法は後世ずっと用いられ、戚継光『紀効新書』の教練篇もなおこの筋である。前提は「必ず金鼓の節あり」と「これを申ぬるに三令をもってす」——まず信号と条令を固めることである。
武王が太公に尋ねた。「三軍の衆を合わせ、士卒に戦を教えるの道を服習させたい。どうすればよいか」。
太公が言った。「およそ三軍を領するには必ず金鼓の節があり、士衆を整斉する所以のものです。将は必ず吏士に明告し、これを申ぬるに三令をもってし、兵を操り起居し、旌旗で指麾する変法を教える。ゆえに吏士を教えるには——一人に戦を学ばせ、教え成れば十人に合す。十人が戦を学び、教え成れば百人に合す。百人が戦を学び、教え成れば千人に合す。千人が戦を学び、教え成れば万人に合す。万人が戦を学び、教え成れば三軍の衆に合す。大戦の法は、教え成れば百万の衆に合す。ゆえによくその大兵を成し、天下に威を立てるのです」。(「三令」は三たび号令を申ねること。この逐級拡大の訓練法は後世ずっと用いられ、戚継光『紀効新書』の教練もなおこの筋である。)
武王が言った。「善いかな」。
第五十五 均兵(きんぺい)均兵第五十五
車・騎・歩の兵種当量の換算。先秦文献で唯一の表である。まず用途——車は軍の羽翼で、堅陣を陥れ強敵を要し走北を遮る。騎は軍の伺候で、敗軍を踵ぎ糧道を絶ち便寇を撃つ。次に数字——平地では一車が歩卒八十人、一騎が歩卒八人、一車が十騎。険地はそれぞれ半分(四十人、四人、六騎)。さらに編制——五車一長、十五車一吏、五十車一率、百車一将、五騎一長、十騎一吏、百騎一率、二百騎一将、および行列の間隔の具体的な歩数。この篇の数字は三本の出入がもっとも多く、注で逐一校した。
武王が太公に尋ねた。「車をもって歩卒と戦えば、一車は幾人の歩卒に当たり、幾人の歩卒が一車に当たるのか。騎をもって歩卒と戦えば、一騎は幾人の歩卒に当たり、幾人の歩卒が一騎に当たるのか。車をもって騎と戦えば、一車は幾騎に当たり、幾騎が一車に当たるのか」。
太公が言った。「車は軍の羽翼であり、堅陣を陥れ、強敵を要し、走北を遮る所以のものです。騎は軍の伺候であり、敗軍を踵ぎ、糧道を絶ち、便寇を撃つ所以のものです。ゆえに車騎が敵戦(建制どおりの戦い)でなければ、一騎は歩卒一人にも当たりません。三軍の衆が陣を成して相当たるときは——易戦の法では、一車は歩卒八十人に当たり、八十人が一車に当たる。一騎は歩卒八人に当たり、八人が一騎に当たる。一車は十騎に当たり、十騎が一車に当たる。険戦の法では、一車は歩卒四十人に当たり、四十人が一車に当たる。一騎は歩卒四人に当たり、四人が一騎に当たる。一車は六騎に当たり、六騎が一車に当たる。そもそも車騎は軍の武兵であり、十乗は千人を敗り、百乗は万人を敗る。十騎は百人を走らせ、百騎は千人を走らせる。これがその大数です」。(先秦文献で唯一の兵種当量表である。)
武王が言った。「車騎の吏数と陣法はどうか」。
太公が言った。「車の吏数を置くには——五車に一長、十五車に一吏、五十車に一率、百車に一将。易戦の法では、五車を列と為し、相去ること四十歩、左右十歩、隊間六十歩。険戦の法では、車は必ず道に循い、十五車を聚と為し、三十車を屯と為し、前後相去ること二十歩、左右六歩、隊間三十六歩。縦横相去ること一里、おのおの故道に返る。騎の吏数を置くには——五騎に一長、十騎に一吏、百騎に一率、二百騎に一将。易戦の法では、五騎を列と為し、前後相去ること二十歩、左右四歩、隊間五十歩。険戦の法では、前後相去ること十歩、左右二歩、隊間二十五歩。三十騎を一屯と為し、六十騎を一輩と為し、縦横相去ること百歩、周還しておのおの故処に復す」。(本段の数字は三本の出入がもっとも多い。景宋本・四庫本はともに「十車に一吏」「二十車を屯と為す」「縦横相去ること二里」に作り、また「隊間三十六歩」の下に「五車に一長」四字、「六十騎を一輩と為す」の下に「十騎に一吏」四字を多く持つ。抄写の重出と疑われるので底本に従い、異文は備録した。)
武王が言った。「善いかな」。
第五十六 武車士(ぶしゃし)武車士第五十六
車士の選抜基準、一段のみ。年齢四十以下、身長七尺五寸以上、走って奔馬を追い、馬が駆けているところに飛び乗れること。前後左右上下に周旋し、旌旗を束縛でき、力は八石の弩を彀き、前後左右いずれにも射て慣れていること。中国文献では最古の兵種体力基準である。
武王が太公に尋ねた。「車士はどう選ぶのか」。
太公が言った。「車士を選ぶ法は、年四十以下、長七尺五寸以上を取ります。走って奔馬を逐うことができ、馳せているところに乗ることができ、前後左右・上下に周旋し、旌旗を束縛でき、力は八石の弩を彀くことができ、前後左右いずれにも射てみな便習なる者、これを武車の士と名づけます。厚くせざるべからざるものです」。(中国文献では最古の兵種体力基準である。)
第五十七 武騎士(ぶきし)武騎士第五十七
騎士の選抜基準。前篇と対になる。年齢四十以下、身長七尺五寸以上、壮健敏捷で同輩を抜き、馳せながら射ることができ、前後左右に周旋進退でき、溝塹を越え丘陵に登り険阻を冒し大沢を絶ち、強敵に馳せ大衆を乱せること。末句は前篇と同じ——「厚くせざるべからず」。
武王が太公に尋ねた。「騎士はどう選ぶのか」。
太公が言った。「騎士を選ぶ法は、年四十以下、長七尺五寸以上を取ります。壮健捷疾にして倫等を超絶し、馳騎しながら彀射でき、前後左右に周旋進退でき、溝塹を越え、丘陵に登り、険阻を冒し、大沢を絶ち、強敵に馳せ大衆を乱すことのできる者、これを武騎の士と名づけます。厚くせざるべからざるものです」。
第五十八 戦車(せんしゃ)戰車第五十八
戦車の十死地と八勝地。十死地は、往って還るすべのない地、険阻を越えて遠く追う地、前が易く後が険しい地、険阻に陥って出にくい地、泥濘と黒い粘土の地、左が険しく右が易くて坂を仰ぐ地、深草が畝を横切り深い沢を渉る地、車が少なく地が平らで歩兵と釣り合わぬ地、後ろに溝瀆・左に深水・右に峻坂のある地、日夜の霖雨で道が潰陥した地。八勝地はすべて敵の隙である。末句に「将、十害八勝に明らかなれば」とあり、本文の十死地をここでは「十害」という。
武王が太公に尋ねた。「戦車はどうするのか」。
太公が言った。「歩は変動を知るを貴び、車は地形を知るを貴び、騎は別径奇道を知るを貴ぶ。三軍は名を同じくして用を異にするものです。およそ車の戦には、死地十あり、勝地八あります」。
武王が言った。「十死の地とは何か」。
太公が言った。「往いて還るすべなき者は車の死地です。絶険阻を越えて敵に乗じ遠く行く者は車の竭地です。前は易く後は険しき者は車の困地です。険阻に陥って出で難き者は車の絶地です。圮下漸沢、黒土粘埴なる者は車の労地です。左は険しく右は易く、陵に上り阪を仰ぐ者は車の逆地です。殷草が畝を横切り、浚沢を犯し歴る者は車の払地です。車少なく地易く、歩と敵わざる者は車の敗地です。後ろに溝瀆あり、左に深水あり、右に峻阪ある者は車の壊地です。日夜の霖雨が旬日止まず、道路が潰陥して、前は進むこと能わず、後は解くこと能わざる者は車の陥地です。この十が車の死地です。ゆえに拙将の擒にせらるる所以であり、明将のよく避くる所以です」。
武王が言った。「八勝の地とは何か」。
太公が言った。「敵の前後、行陣がまだ定まらざれば、すなわちこれを陥れる。旌旗が擾乱し、人馬がしばしば動けば、すなわちこれを陥れる。士卒があるいは前あるいは後、あるいは左あるいは右すれば、すなわちこれを陥れる。陣が堅固ならず、士卒が前後相顧みれば、すなわちこれを陥れる。前に往いて疑い、後に往いて怯すれば、すなわちこれを陥れる。三軍が猝かに驚き、みな薄って起これば、すなわちこれを陥れる。易地に戦い、暮れて解くこと能わざれば、すなわちこれを陥れる。遠く行きて暮れに舎し、三軍が恐懼すれば、すなわちこれを陥れる。この八が車の勝地です。将が十害八勝に明らかであれば、敵がたとい周く囲み、千乗万騎が前に駆け旁らに馳せても、万戦して必ず勝ちます」。(本文は「十死地」と言い、ここでは「十害」と言う。義は同じ。)
武王が言った。「善いかな」。
第五十九 戦騎(せんき)戰騎第五十九
騎兵の十勝九敗。前篇と対になる。十勝のうち「その疾きこと風の如く、その暴きこと雷の如く、白昼も昏きが如し。しばしば旌旗を更え、衣服を変更す」の一段は、騎兵が繰り返し衝き擾す気勢を写して、本書でもっとも声色のある数句である。九敗は騎兵が入ってはならぬ九種の地形——敗地・囲地・死地・没地・竭地・艱地・困地・患地・陥地。「天井」「地穴」の語は後に『孫子』注家の常用語となった。
武王が太公に尋ねた。「戦騎はどうするのか」。
太公が言った。「騎には十勝九敗があります」。
武王が言った。「十勝とは何か」。
太公が言った。「敵が始めて至り、行陣がまだ定まらず、前後が属かなければ、その前騎を陥れその左右を撃つ、敵は必ず走る。敵の行陣が整斉堅固で士卒が闘わんと欲すれば、わが騎は翼して去らず、あるいは馳せて往き、あるいは馳せて来る。その疾きこと風の如く、その暴きこと雷の如く、白昼も昏きが如し。しばしば旌旗を更え、衣服を変更すれば、その軍は克つべし。敵の行陣が固からず、士卒が闘わなければ、その前後に薄り、その左右を猟り、翼してこれを撃つ、敵は必ず懼れる。敵が暮れに舎に帰らんと欲して三軍が恐駭すれば、その両旁を翼し、その後を疾撃し、その塁口に薄って入るを得させない、敵は必ず敗れる。敵に険阻の保固なく、深く入り長駆すれば、その糧道を絶つ、敵は必ず飢える。地が平らかで易く、四面に敵が見えれば、車騎でこれを陥れる、敵は必ず乱れる。敵が奔走して士卒が散乱すれば、あるいはその両旁を翼し、あるいはその前後を掩う、その将は擒にすべし。
「敵が暮れに返り、その兵が甚だ衆ければ、その行陣は必ず乱れる。わが騎に十をもって隊と為し、百をもって屯と為し、車は五をもって聚と為し、十をもって群と為させ、旌旗を多く設け強弩を雑える。あるいはその両旁を撃ち、あるいはその前後を絶てば、敵将は虜にすべし。これが騎の十勝です」。
武王が言った。「九敗とは何か」。
太公が言った。「およそ騎をもって敵を陥れて陣を破ること能わず、敵が佯り走って車騎でわが後を返り撃つ、これが騎の敗地です。北げるを追って険を踰え、長駆して止まらず、敵がわが両旁に伏し、またわが後を絶つ、これが騎の囲地です。往いて返るすべなく、入って出るすべなし、これを天井に陥り地穴に頓すという、これが騎の死地です。従って入る所は隘く、従って出る所は遠く、彼は弱くてわが強を撃つべく、彼は寡なくてわが衆を撃つべし、これが騎の没地です。大澗深谷、林木の翳茂たる、これが騎の竭地です。左右に水あり、前に大阜あり、後に高山あり、三軍が両水の間に戦って敵が表裏に居る、これが騎の艱地です。敵がわが糧道を絶ち、往いて還るすべなし、これが騎の困地です。汙下沮沢、進退が漸洳たる、これが騎の患地です。左に深溝あり、右に坑阜あり、高下が平地の如く、進退が敵を誘う、これが騎の陥地です。この九が騎の死地です。明将の遠く避くる所以であり、闇将の陥り敗るる所以です」。(「天井」「地穴」は後に『孫子』注家の常用語となった。)
第六十 戦歩(せんぽ)戰步第六十
全書の末篇。歩兵対車騎は、本来もっとも分の悪い対抗である。第一の答えは地形に拠る——丘陵険阻に依り、長兵強弩を前に、短兵弱弩を後ろに置き、交互に発射する。第二の答えは依るべき地形がない場合で、士卒自身を行馬とし、木蒺藜を布き、牛馬を隊伍に入れて四武衝陣を組む。敵の車騎が来るのを望んだら蒺藜を均しく撒き、後ろに広さ深さ五尺の溝を一周掘って「命籠」と名づける。人は行馬を推して進み、車を横にして塁とし、推して前後させ、止まればそれが屯となる。全書は「みな疾戦して解かず」の一句で締めくくられる。
武王が太公に尋ねた。「歩兵が車騎と戦うにはどうするのか」。
太公が言った。「歩兵が車騎と戦うには、必ず丘陵険阻に依り、長兵強弩を前に居らせ、短兵弱弩を後に居らせ、更々発し更々止まります。敵の車騎が衆くして至っても、堅陣して疾戦し、材士強弩でわが後に備えます」。
武王が言った。「われに丘陵なく、また険阻もない。敵の至ることすでに衆く且つ武で、車騎がわが両旁を翼し、わが前後を猟る。わが三軍は恐懼し、乱れ敗れて走る。どうすればよいか」。
太公が言った。「わが士卒に行馬と為らせ、木蒺藜を布き、牛馬を隊伍に置いて四武衝陣と為します。敵の車騎がまさに来らんとするのを望めば、蒺藜を均しく置く。地を掘って後を匝ること広さ深さ五尺、これを命籠と名づける。人は行馬を操って歩を進め、車を闌して以て塁と為し、推して前後し、立てて屯と為す。材士強弩がわが左右に備える。然る後にわが三軍に令して、みな疾戦して解かざらしめるのです」。(全書はこの一句で締めくくられる。)
武王が言った。「善いかな」。
底本と校例
本文は維基文庫(中国語版ウィキソース)の標点本『六韜』、六巻六十篇、本文一万六千六百八十六字(本頁で施した句読点は数えない)。
校合は二本、一字ずつ機械比較した。一つは『四部叢刊初編』所収の常熟瞿氏鉄琴銅剣楼蔵景宋刊本の影印——現存最古の伝本であり、その巻端の葉が本書の表紙に用いた書影である。もう一つは『四庫全書』本『六韜』六巻、句読なし、別系統の伝本である。両本を合わせて異文六百五十条(景宋本三百三十七、四庫本三百一十三)を得た。旧字形と通用字はさらに千四百余処あるが、これは異文に数えない。文義に関わるものはすべて該当段落の注に出校した。字形の差はCJKVI の四種の異体字表によって判定し、表に直接挙がる一対だけを認め、推移閉包は取らない——それらの表には数歩で無関係な字を同じ類に併せてしまう条目が含まれているからである。
篇次は二つの旧本に拠って戻した。底本は『兵道』を『文韜』から『武韜』へ移し、『文韜』十一篇・『武韜』六篇として、発啓・文啓・文伐・順啓の四篇をそれぞれ一つずつ繰り下げている。景宋本の『巻第一』の末篇はまさに『兵道』であり、四庫本はさらに「兵道第十二」「文啓第十四」「文伐第十五」「順啟第十六」「三疑第十七」と篇次を明記する。互いに独立した二つの旧本が一致し底本だけが異なるので、旧本に従った。『文韜』十二篇、『武韜』五篇——現行の諸本とも一致する。
脱文二箇所、五十四字を補った。一、『三疑第十七』の「恵を民に施すには必ず財を愛しむことなかれ」の下に「民は牛馬の如し」四字を脱し、また「餧」を「衣」に訛る。両本ともに「民は牛馬の如し、数しば餧い食らわす」に作る。二、『烏雲沢兵第四十八』は一問一答五十字を脱する。底本は「吾が三軍敗れて走る。これを如何せん」から直ちに「太公曰く、かくの如きときは、分かちて衝陣と為す」に続くが、間に太公が「途を求むるの道は金玉を主と為す」と答える一節と、武王が「敵われの伏兵あるを知り、大軍済らんことを肯んぜず」と再び問う一節が欠けている。これがないと、下文の「その畢く出るを須ってわが伏兵を発す」が待っている「別将の隊を分かちて水を踰ゆる」者がどこにも出てこない。二箇所とも両本にあって底本だけにないので、孤証ではない。補った部分の句読点は本頁で施した。
底本の形訛三箇所を改めた。いずれも両本は誤らない。各段の注に出校した。『王翼第十八』の「鈗」は「鋭」の訛、『発啓第十三』の「疾」は「賊」の訛、『戦歩第六十』の「莉」は「藜」の訛(同篇の上文は正しく「蒺藜」に作る)。
底本の句読点三箇所を改めた。一、『文伐第十五』の十二節は「一に曰く」「二に曰く」……の下にそれぞれ上の引用符を置いて一つも閉じない。全篇で「が十四、」が二つしかなく、余分な十二を削った。二、『軍略第三十五』の「これを如何せん」の下で「太公曰く」が重出し、引用符ともども衍である、削った。三、『文師第一』に紛れ込んだ空白三箇所、削った。
凡例。一、字形は書中多数の一形に統一した。字形を改めるだけで語は改めない。二、「陳」は本書に二十四見(篇題一を含む)、『文啓』の「陳其政教」(陳列の意)と『五音』の「勾陳」(星名)を除けば、他はすべて軍陣の「陣」で、書中もとからある三十六の「陣」と同語である。一律「陣」に作り、篇題『三陳第三十二』もこれに従って『三陣第三十二』とした。四庫本の篇題はもとより「三陣」に作る。三、底本は各韜の下に「第一篇 文韜」の類の一行を置くが、韜は巻であって篇ではなく、原書の六巻六十篇という階層と矛盾する。録文者が加えたものなので取らない。四、底本に紛れ込んだウィキソースの字詞変換タグと著作権テンプレートは削った。五、段落と句読点は本頁で施した。底本は句読点はあるが段落を分けておらず、二つの旧本はいずれも句読なしである。段落はまず話し手の交代で切り、なお長すぎる段は四庫本の録文が残す写本の行界を借りて切った。一続きの発言が切れる場合は、通行の排印法に従い続きの段に上の引用符を補い、閉じるのは末段だけとした。本文は一字も増減していない。
両説を併記した一条。『烏雲山兵』『烏雲沢兵』二篇の篇題と本文の「烏雲」を、景宋本は一律「鳥雲」に作り、篇末の自解も「鳥散じて雲合す」に作る。鳥群が忽ち散り忽ち集まる、のほうが烏(からす)より文義が通る。だが底本と四庫本がともに「烏」に作るので旧に従い、注に備録した。
本書の来歴について。旧題は周の呂望(太公望)の撰。『漢書・芸文志』の兵家に『六韜』は著録されず、儒家にある周史『六弢』六篇は別の書である。『六韜』の名は『三国志・先主伝』の裴松之注に初めて見え、『隋書・経籍志』が「太公六韜五卷」を初めて著録する。『四庫全書総目』は書中の「将軍」の語、「正殿を避く」の制を根拠に仮託と断じ、「詞意浅近、古書に類せず」「その依託の迹、灼然として験すべし」という。しかし一九七二年、山東臨沂の銀雀山漢墓から出土した竹簡に、今本『文韜』『武韜』の数篇と合致する残文があり、遅くとも前漢初めには成立していたことが証明された。仮託は本当だが、書物そのものは古い——これが今日『六韜』の成書について言えるもっとも穏当な一句である。北宋の元豊年間、武学に頒行するにあたり、『六韜』は『孫子』『呉子』『司馬法』『黄石公三略』『尉繚子』『李衛公問対』と合わせて『武経七書』と称され、『六韜』はその首に置かれた。
各篇の要旨と括弧内の注は AI が書いたものです。中国語版では同じ注をボタンで開閉できるようにしてあり、この頁では本文中にそのまま表示しています。