円通 巻一えんつう
全書は「名」と「利」から始まる。円通とは、一方に固執せず、勢いに従って転じることをいう。前半は、名利そのものに罪はない、罪があるのは人のほうだと説く。後半では君子も小人もまとめて解体する——貴賤も得失も心の持ちようで決まるものではなく、名は虚しく、利は人を惑わせ、そして小人は多数である。多数には敵わない。ここが全書の立論点だ。この書は人に小人になれと勧めはしない。「君子でいるのは割に合わない」ということを、推論のできる一つの理屈として立てる。以下の九巻はすべてここから導かれる。この書には古い版本が存在しない。題署と出自については巻末の《底本と校訂例》を見られたい。ここで一言だけ言っておく——「五代の馮道撰」というのは現代人の言い分であり、宋以来の公私の書目でこれを著録した例は一つもない。
善と悪には名がついているが、智者はそれに縛られない。天の理には常(つね)があり、明らかな者はそれを捨てない。道が通らないときでも、変化を心得た者は憂えない。
名を惜しむ者はその名を損ない、身を惜しむ者はその身を全うする。名も利も咎ではなく、それを追うことも罪ではない。過ちはいつも人の側にある。
君子だから貴いのではなく、小人だから賤しいのでもない。貴賤は名では決まらない。君子だから得るのでもなく、小人だから失うのでもない。得失は心の持ちようから来るのではない。名はみな虚しく、利は人を惑わせる。人にはそれが拒みにくいのだ。
栄えている者は君子でいられるかもしれないが、枯れた者は必ず小人になる。君子には及ばないが、小人は多数である。多数には敵わない。名は変えやすいが事は変えにくく、心は変えやすいが命は変えにくい。人が君子を心配しないのに、どうして小人を心配することがあろうか。(末句は反語である。恐れるべきは小人ではなく、小人が多数だという事実のほうだ、というのがこの巻の結論だ。)
聞達 巻二ぶんたつ
官途を、どう昇るかを説く。「聞達」の二字は諸葛亮『出師表』の「聞達を諸侯に求めず」から来ているが、ここではそれを丸ごと裏返して使う。総則は一つ——上を喜ばせる者は栄え、下を喜ばせる者は行き詰まる。まっすぐなだけで媚びなければ上に疑われ、媚びるだけでまっすぐでなければ下に見捨てられる。どちらか一方しか取れない以上、上を取れ、と言う。後半は二本の柱を立てる。虚名に縛られないことを「実」、奸(よこしま)な振る舞いを恥としないことを「察」といい、合わせて「無羈無恥」の四字になる。全書で最も露骨に書かれた一節である。
仕えるのに善悪は勘定に入れず、昇進に奸(よこしま)や卑小は問わない。上を喜ばせる者は栄え、下を喜ばせる者は行き詰まる。君子は下を喜ばせるので、上は名(評判)に惑わされない。小人は上を喜ばせるので、下はその悪を懲らせない。下はまっすぐであることを美とし、上は媚びることを忠とする。まっすぐで媚びがなければ上に疑われ、媚びてまっすぐでなければ下に捨てられる。上に疑われることが禍の根であり、下に捨てられることは毀誉にとどまる。栄える者にはみな小人の名がついてまわるが、それは根を固めて末を捨てているだけのことだ。
富貴には常(つね)があり、その道は「実」である。福も禍も定まった命ではなく、その道は「察」である。実とは虚名に縛られないこと、察とは奸な振る舞いを恥としないこと。羈(きずな)もなく恥もない——それが栄えるということの中身だ。
名を求める者は官に就くな、地位は名ではない。官を求める者は名を求めるな、徳は栄達ではない。君子は心を語り、小人は心を攻める。道が違うのだから、効き目が違うのは当たり前である。
解厄 巻三かいやく
禍から身を抜く方法を説く。前提は「憂いなければ患い烈し」——あらかじめ心配しておかなければ、禍が来たときに重い。手立ては上下の二方向に分かれる。上に対してはその心を失わず、下に対しては怨みを結ばない。実際に事が起きたら、上の前では弁解せず自分から罪を認め、下の前では先手を打って人を巻き込む。末段は全書で最も冷たい一段だ——君子は党を組まないから事が起きても助けがなく、小人は利で交わるから事が起きても助けがある。「道義これを失うも懲(こら)しめなし」の六字は、この書が小人のために書いた弁護文である。
憂いがなければ患いは激しくなる。国を憂える者は身を失い、己を憂える者は命を安んじる。禍は人に拒まれるが、人に招き入れられもする。禍は人に怨まれるが、人に出会われもする。君子は悪くないのに患いが絶えず、小人は賢くないのに余慶が絶えない。(「余慶」——底本は「佘」に作るが字として成り立たない。通校本に従って改めた。)
上下の心が離れるのは、小人にとって難しいことではない。下と怨みを結ばないのは、君子には論じるまでもない。禍が上から来たときは、弁解せず自分から罪を認める者が身を全うする。禍が下から来たときは、争って人に罪を着せる者が免れる。(「上下離心」——通校本は「上不離心」に作り、次句の「下不結怨」と正しく対になる。今は底本のままとし、異同を併記しておく。)
君子は党を組まないので、禍に遭っても援(たす)けがない。小人は利で交わるので、その利が人の助けを呼ぶ。道義は失っても罰せられないが、禍は解けるところがなければ必ず行き詰まる。君子にはこれを改められないが、小人のほうは許されることもある。
交結 巻四こうけつ
人との交わりを説く。第一句でいきなり賢者と悪人を並べて「どちらも使える」とし、第二句で敵と味方はいつでも入れ替わると言う。中段は「人に愚を示す」——愚かだと思わせておけば、大きな謀が組める。『老子』の「大智は愚のごとし」と形は似ているが、心はまるで違う。一方は誇らないこと、もう一方は罠を張ることだ。末段はこの書で最もよく引かれる一句である。君子は仁で交わるので、仁が行き届かないことばかりを憂える。小人は暗いところで徒党を組むので、明るいところを抑えきれないことばかりを心配する。君子が小人に勝てないのは、ここで負けているからだ。
智ある者は賢者を拒まず、明らかな者は悪人を遠ざけない。善も悪もどちらも使うのである。順(したが)えば友となり、逆らえば敵となる。敵と友はいつでも入れ替わる。
人を見抜くことで貴くなる者は貴く、奸を養うことで賤しくなる者は賤しい。貴い者が自分を貴いとせず、賤しい者が自分を賤しいとしなければ、貴賤は入れ替わる。貴い者が人を賤しまず、賤しい者が人を貴ばなければ、貴賤は長く続く。
人は他人が愚かで自分は賢いことを望む。だから人に愚かさを見せておけば、その謀は大きくできる。人は他人が賢くて自分が愚かであることを忌む。だから智を隠さずにいれば、その害は止まらない。賢い者は愚か者と付き合わない——愚か者の前で自分の賢さを伸ばすな。智ある者は怨みを結ばない——仇はその智を恐れなくなるからだ。
君子は仁によって交わり、ただ仁が行き届かないことだけを憂える。小人は暗いところで結び、ただ明るいところを抑えきれないことだけを心配する。君子が小人に勝てないのは、おそらくここに原因がある。(「惟患陽不制の」——末字の「的」は文言に用いる字ではなく、両本ともこの字である。改める根拠がないのでそのままとし、ここに記す。全書で文末の助辞は也・矣・焉・哉・耳の五つだけで、この一箇所だけが例外である。また通校本は「陽」を「陰」に作るが、それでは陰陽の対が崩れる。今は底本に従う。)
節儀 巻五せつぎ
気節を説く。標題は底本では「節儀」だが、通行の印本の多くは「節義」に作り、しかもこの巻の末句「此れ節義の道に非ず」では「義」の字を用いている。全巻は二つに割れる。前半は、本物の君子は小人の外見の下に隠れていると言い、後半は、気節は金に敵わず、道義は命に敵わないと言う。末句はこの書には珍しい率直な自白だ——「此れ節義の道に非ず、然れども生の道なり」。私が説いているのは節義ではない、生き延びる道だ、というのである。
外は君子で内が小人であるのが、本物の小人である。外は小人で内が君子であるのが、本物の君子である。徳の高い者は誇らず、義の重い者は害を軽んじる。
人は君子を慕うが、いざ行うとなれば小人になる。君子でいるのは難しいからだ。人は小人を怨むが、実のところは義を忘れている。小人には縛りがないからだ。難しければ得るものは少なく、縛りがなければ利は豊かだ。だから人はみな小人になる。
地位が高ければ節は低くなり、人が賤しまれれば義は薄くなる。君子はその志を辱められることに堪えられず、小人はその身を損なわれることに堪えられない。だから君子は乱を避けて身を退き、小人は朝堂で栄達する。
節は金には敵わない。人は困窮すれば君子でいることが難しい。義は命には敵わない。情勢が危うければ小人を拒むことが難しい。人の言うことを恐れず、ただ利害だけを計る——これは節義の道ではない。しかし、生き延びる道ではある。
明鑒 巻六めいかん
人と事の見方を説く。開口一番「福も察しなければ福ではなく、禍も予期しなければ必ず禍になる」と言い、続いて具体的な手立てを並べる。小さな信で大きな詐りを遂げ、小さなところを覗いて大きな謀を定める。言い尽くさず、やり尽くさず、肉親にさえ用心する。恐れるふりをし、恭しいふりをして、内心では忍び、忌む。後半はさらに露骨だ。人を用いるのは使えるかどうかだけで決め、頼れるのは金だけ、奸を治めるには奸を使い、悪を抑えるのに善を用いてはならない。末句「計は金ならざる者は施すなかれ」が、すべてを金の一点に締め上げる。
福も察しなければ福ではなく、禍も予期しなければ必ず禍になる。福と禍を先に知っていれば、事はすべて片がつく。
小さな信を施しておけば大きな詐りが通り、小さなところを覗いておけば大きな謀が定まる。事はやり尽くしてはならず、言葉は言い尽くしてはならない。肉親に対してさえ用心する。恐れるふりをして内心は忍び、外は恭しく内では忌む。そうすれば奸人でさえ惑う。用心を知れば福に近づき、人を惑わせれば禍から遠ざかる。変化を待てば、生き残れる。
身内の者はただ使えるかどうかで用いる。そうしてこそ利は遠くまで及ぶ。天の恵みは測り難く、頼れるのは財だけである。奸をもって奸を治めれば、奸が滅びておのずと安らかになる。悪を抑えるのに善を用いなければ、患いは生じない。
金の絡まない計は施すな。智者でない相手とは謀るな。愚かな者こそ、これを戒めとすべきである。
謗言 巻七ぼうげん
全書でただ一巻、通篇が手口である——人をどう潰すか。四句が四段階になっている。窮地に追い込んで自分から汚れさせる、その人の仇を厚遇する、昔の事を掘り返す、言葉を作ってやる。続いて、謗られた側はどうするかを説く。弁解しなければおのずと明らかになり、強いて弁解すればかえって濁る。末段は他人の力の借り方だ。上の名義を借りて人を抑え、衆人の口を借りて信を取る。同じ一冊の中に二つの顔が並んでいるのが、この巻である。
身分の低い者とは争わず、才の凡庸な者は推薦しない。人が忌むところを攻めれば、人はその相手を容れられなくなる。窮地に陥れれば人は自分から汚れる——謗るのに、これほど易しいやり方はない。その人の仇を厚遇すれば、人には何が起きているか分からない——謗るのに、これほど巧妙なやり方はない。細かな末の事まで掘り返せば、人は気づかない——謗るのに、これほど確かなやり方はない。悪しき言葉を仕立ててやれば、人は弁解できない——これで謗りは成る。
謗られて弁解しなければ、事はおのずと明らかになり、人の悪感情は少し減る。謗られて強いて弁解すれば、事はかえって濁り、人の怨みはいっそう増す。
上の信を失った者は、下が必ずこれを毀(そし)る。下の信を失った者は、上が必ずこれを疑う。天を借りて人を責めれば私(わたくし)は覆い隠され、民の言葉を借りて事を言えば信を得る。人はみなこれに惑わされる。
示偽 巻八じぎ
真と偽を説く。第一句「偽なければ真もなし」で両者を一本に縛り、続いて、真は偽を忌む必要はなく、偽は真に取って代わることもできない、恐ろしいのはただ見分けがつかないことだけだ、と言う。中段では真偽の基準を中身から方向へすり替える——上に順(したが)うなら偽でも過ちではなく、上に逆らうなら真でも罪である。後段は忠と仁を説く。君子の仁は旧(ふる)きを捨てないこと、小人の行いは恩を心にとどめないこと。そしてそれができるかどうかは困窮や栄達とは関係がなく、その人自身に関わる。この一句は巻五の「是を以て人は皆な小人なり」とちょうど背中合わせになっている。
偽がなければ真もない。真は偽を忌まず、偽は真に代われない。忌むべきは、ただ見分けがつかないことだけである。
偽は、それだけでは自分に禍をもたらさない。真であっても、人の悪意を避けられるわけではない。上に順う者なら、偽でも過ちにはならない。上に逆らう者なら、真でも罪になる。求めるときはまっすぐを忌む——曲げてこそ得られる。拒むときは明らかを忌む——婉曲にしてこそ失わない。
忠は仁を主とし、君子の仁は旧きを捨てない。仁は行いを主とし、小人の行いは恩を心にとどめない。君子は困窮しても人を惑わさず、小人は栄達すれば主に背く。それは偽であるかどうかの問題であって、困窮か栄達かの問題ではない。
世俗の礼にとらわれないのは偽ではない。悪事であるのに約束を守るのは信ではない。物が変われば、その情もまた変わるのである。
降心 巻九こうしん
人をどう心服させるかを説く。冒頭の一句でいきなり「智をもって人を治める」ことを否定する——智はいつか尽き、尽きれば人は背く。人を服させるには、その心を懾(おそ)れさせなければならない。中段は手口だ。表に出ない術こそ功を成し、暗に用いる謀こそ勝ちを取る。君子には肉親を人質に取り、小人には一度ごとに酷くしていく。末段は加減の話である。仁義は濫用してはならず、恩威は片寄らせてはならない。この書が説く「戒め」は、たいてい術を施す側に向けて言われている。
智をもって人を治めれば、智が尽きたときに人は背く。人を伏させるには、その心を懾れさせる。そうすればその志は変わらない。
上に寵愛されている者を、あからさまに貴んではならない。上に怨まれている者と、ひそかに結んではならない。術は表に出なければ功を成し、謀は暗に用いれば勝ちを取る。君子は肉親によって制せられる——肉親が人質になれば、おのずと従う。小人は激しさによって畏れる——奸を常に施していれば、おのずと敗れる。
理はそのまま言わず、諫めは巧みな弁論によらない。疑われなくなってはじめて、言葉は届く。情はあらわに示さず、事は明らかにしない。変化に順(したが)ってこそ、事は成る。
仁は君子を誅(ころ)すには足りるが、義は小人を滅ぼせない。だから仁義は濫用を戒める。恩は賢者を漏らしてはならず、威もまた奸悪に及ばなければならない。だから恩威は片寄りを戒める。(「堪」は足りる、できるの意。上句は仁義の無力を、下句は恩威の使い方を言う。この書が本当に信じているのは後の一対のほうである。)
揣知 巻十しち
締めくくりの一巻、揣摩(しま)を説く。よく察すれば人が分かり、よく思えば心が分かる。分かってしまえば恐れることもなく、防ぐこともできる。中段は裏返しだ。知ったことは人に見せない、見せればそれが禍になる。末段の四句は全書の締めくくりであり、同時に四つの実務である——疑いを設けて真偽を験(ため)し、貴人に付いて災いを避け、左右の者と交わって情報を探り、人を険難に置いてその念を断つ。「破れざるはなし」の三字の後、この書はもう何も言わない。
よく察する者は人が分かり、よく思う者は心が分かる。人が分かれば恐れず、心が分かれば防げる。
知っていることは人に見せない。見せればそれが禍になる。ひそかに測っていれば、人が忌むところは解けていく。君子は細かなことには惑うが、大きなことには惑わない。小人は近いことは慮(おもんぱか)るが、遠いことは慮らない。(末の二句は、この書が君子に向けて言ったほとんど唯一の褒め言葉に近い一句であり、しかもそれが智を隠せと教える一段のすぐ後ろに置かれている。)
わざと疑いを設けて惑わせれば、真偽は照らし出せる。貴い者に付いて縁を結べば、災いは避けられる。その左右の者と交わって様子を見れば、知れないことはない。険難の中に置いてその念を断てば、破れないものはない。(「鑒」は照らす・見分けるの意で、この書のもう一つの名『栄枯鑒』と同じ字である。「縁」は縁故を結ぶこと。全書はこの四句で終わる——前の巻までは理屈を語っていたが、ここに至って残るのは手立てだけである。)
底本と校訂例
この書には古い版本が存在しない。今本は「五代 馮道 撰」あるいは「長楽老 撰」と題する。馮道(八八二—九五四)は実在の人物である。欧陽脩は彼を「四姓十君に事(つか)う」(後唐・後晋・後漢・後周、その間に契丹にも仕えた)と評し、宰相の位に二十年余りあった。乾祐年間に自ら『長楽老自叙』を書き、その文は『旧五代史』巻百二十六の本伝に残る。欧陽脩『五代史記』巻五十四『雑伝第四十二』は、冒頭にまず管子の「礼義廉恥、国の四維」を引き、続けてこう言う——「予、馮道の『長楽老叙』を読み、其の自ら述べて以て栄と為すを見る。其れ廉恥なき者と謂うべし」。ところが『栄枯鑒』というこの書名は、史志に著録がない。『宋史・芸文志』八巻(『宋史』巻二〇二〜二〇九)は本ページで一条ずつ検めたが、全志を通じて「栄枯」の二字は現れず、馮道の名の下には『馮道集』六巻・『河間集』五巻・『詩集』十巻の三種があるのみである。この書を論じる現代の研究者も、宋元以来の公私の書目でこれを著録したものは一つもないと言う。写本も刻本も伝わっていない。今日流通する十巻本は、ここ数十年の通俗的な印本にしか見えず、そのどれもが同じ一句の題辞——「曾国藩曰く、一部の『栄枯鑒』、小人の秘技、人生の栄枯を道い尽くす」——を印しながら、出典を一つも注記していない。この書架にある『氷鑑』も、同じく曾国藩の名に託された一種である。本ページはこの書を仮託の作として読む。題署は今本に従って「五代 旧題 馮道 撰」とし、反証は巻一の篇旨の冒頭に置いた。
表紙はこの書の表紙ではない——この書に表紙はない。用いたのは南宋初刊宋修本『五代史記』巻第五十四の巻頭葉である(台湾国家図書館蔵、善本書号 201.243 01561、七十四巻十八冊、十二行行二十一〜二十三字、小字双行行二十四〜二十七字、左右双欄、白口単魚尾、版匡一六・七×一一・六センチ、「宋本」「東宮文庫」「楊印守敬」「星吾海外訪得秘笈」などの印を鈐す)。葉面には右から左へ「五代史記巻第五十四/雑伝第四十二 欧陽脩撰/馮道 徐無党注/李琪 鄭珏/李愚 盧導 司空頎」とあり、続いて「伝に曰く、礼義廉恥、国の四維……予、馮道の『長楽老叙』を読み、其の自ら述べて以て栄と為すを見る」と始まる。名を託されたその人が、正史の中で立伝された第一葉が、まさにこの葉である。裁ち方——3000px 幅の見開きレンダリングについて、列ごとの輝度から版心を x≈1490 と測り、左半葉 x 48..1340、y 0..2345 を取って幅 560 に縮小した。
本文の底本はウィキソース所収の『栄枯鑒』十巻(「長楽老」撰と題する)の翻刻を用いた。全十巻三十六段、本文一千二百七十九字(本ページで加えた句読点は数に入れない)。
通校には軒宇閲読網所収の『荣枯鉴』原文(博古文の刊本と同系統、すなわち今日伝わる口語訳注本の一路)を用い、一字ずつ機械照合した。両本は字数が同じで、ともに一千二百七十九字。全書で異文は三箇所しか出ず、いずれもその段の注に校記を出してある——巻三「余慶弗絶」(底本は「佘」に作るが字として成り立たず、通校本に従う)、巻三「上下離心」(通校本は「上不離心」に作り、次句「下不結怨」と正しく対になるが、今は底本のままとし異同を併記)、巻四「惟患陽不制」(通校本は「陰」に作るが、それでは陰陽の対が失われる。今は底本に従う)。
凡例——一、底本は簡体字の翻刻から繁体字に変換されたもので、過剰変換が四箇所ある(巻三の「佘」は「餘」、巻四の「鹹」は「咸」、巻五と巻九の「誌」は「志」とすべきもの)。本ページではすべて改め、その段の注に校記を出した。二、巻・段の区切りと句読点は本ページで加えたものである。底本に句読はない。三、巻五の標題は底本では「節儀」に作り、通行の印本の多くは「節義」に作る。しかも同巻の末句は「此れ節義の道に非ず」と「義」に作っている。今は底本に従って「儀」とし、ここに記しておく。四、巻四の末字「的」は文言の字ではなく、両本ともこの字である。改める根拠がないのでそのままとし、校記を出した。全書を通じて文末の助辞は也・矣・焉・哉・耳の五つだけで、この一箇所だけが例外である。
この日本語訳について——本文はすべて上記の漢文底本から直接訳したもので、既存のいかなる日本語訳にも拠っていない。巻名は漢字のまま残し、見出しの脇に読みを添えた。丸括弧内は訳者の注である。
篇旨と丸括弧内の注は AI が書いたものです。中国語のページでは同じ注をボタンで開閉できますが、このページでは本文中にそのまま示しています。