目 次
巻一 第一 天官(てんかん)天官 第二 兵談(へいだん)兵談 第三 制談(せいだん)制談 第四 戦威(せんい)戰威 第五 攻権(こうけん)攻權 巻二 第六 守権(しゅけん)守權 第七 十二陵(じゅうにりょう)十二陵 第八 武議(ぶぎ)武議 第九 将理(しょうり)將理 第十 原官(げんかん)原官 巻三 第十一 治本(ちほん)治本 第十二 戦権(せんけん)戰權 第十三 重刑令(じゅうけいれい)重刑令 第十四 伍制令(ごせいれい)伍制令 第十五 分塞令(ぶんそくれい)分塞令 巻四 第十六 束伍令(そくごれい)束伍令 第十七 経卒令(けいそつれい)經卒令 第十八 勒卒令(ろくそつれい)勒卒令 第十九 将令(しょうれい)將令 第二十 踵軍令(しょうぐんれい)踵軍令 巻五 第二十一 兵教上(へいきょうじょう)兵教上 第二十二 兵教下(へいきょうげ)兵教下 第二十三 兵令上(へいれいじょう)兵令上 第二十四 兵令下(へいれいげ)兵令下 底本と校例巻一卷一
五篇。冒頭は兵の話ではなく、一つの迷信を解体するところから始まる。黄帝の「刑徳」は日の善し悪しを選ぶことではない。城が落ちないのは城が高く濠が深く兵糧が多く豪士の心が一つだからであって、時刻が悪いからではない。「人事のみ」——この四字が全書の鍵であり、以下二十三篇はこの鍵の歯を刻む作業である。『兵談』は国力と将材、『制談』は編制と号令、『戦威』は士気と士を励ます道、『攻権』は攻める側の権衡を論じる。この巻を支えるのは二句。『制談』の「凡そ兵は制必ず先に定まる」——制度が先にあって軍隊があとにある。『戦威』の「刑未だ加えず、兵未だ接せずして、敵を奪う所以の者五あり」——勝負は接戦の前につく。『漢書・芸文志』は尉繚を兵形勢家に列し、この一派を「雷のごとく動き風のごとく挙がり、後れて発して先に至り、軽疾をもって敵を制す」と説く。『兵談』末段の比喩の連なりはまさにその口ぶりである。同じ芸文志は兵陰陽家を「刑徳を推し、斗撃に随い、五勝に因り、鬼神を仮りて助けと為す」と説く——『天官』が壊しにかかっているのは、この一派である。
第一 天官(てんかん)天官第一
「天官」は兵陰陽家の術語で、日時・星辰・方位の吉凶をいう。梁の恵王が、黄帝の刑徳で百戦百勝できたというのは本当かと問う。尉繚子の答えは遠慮がない——黄帝のいう刑徳とは「刑をもって伐ち、徳をもって守る」ことで、天を見ることとは関係がない。以下、証拠が三つ。四方どこからも落ちない城は時刻のせいで落ちないのではない。武王は背水・向阪という占いの大禁を二つとも犯して殷を滅ぼした。楚将公子心は彗星を無視して斉を大破した。証明するのは一句だけ、「人事のみ」。兵書における最も早く最も直截な占い否定であり、『孫子』の「祥を禁じ疑いを去る」よりも徹底している——一条ずつ潰してゆくからである。
梁の恵王が尉繚子に問うた。「黄帝には刑徳があり、それで百たび勝ったという。そういうことがあるのか。」
尉繚子が答えた。「刑は伐つためのもの、徳は守るためのものです。世にいう天官・時日・陰陽・向背のことではありません。黄帝とは、人事のみのことです。
なぜそう申すか。ここに城があるとします。東から西から攻めても取れず、南から北から攻めても取れない。この四度とも順の時に乗じなかったなどということがありましょうか。取れないのは、城が高く濠が深く、武器が備わり、財と穀が積まれ、豪士の謀が一つだからです。城が低く濠が浅く守りが弱ければ、取れます。これを見れば、天官や時日は人事に及ばないのです。
『天官』にいう、水を背にして陣するのは絶地、坂に向かって陣するのは廃軍だと。しかし武王が紂を伐ったとき、済水を背にし山坂に向かって陣し、二万二千五百人で紂の億万を撃って商を滅ぼしました。紂が天官の陣を得ていなかったとでもいうのでしょうか。
楚の将公子心が斉人と戦おうとしたとき、彗星が出て、その柄は斉に向いていました。柄の指す方が勝つ、撃ってはならぬ、と。公子心は言いました——「彗星に何が分かるか。箒で戦う者はもともと逆さに持ってこそ勝つのだ。」翌日斉と戦って、これを大破しました。
黄帝は言いました、「神に先んじ鬼に先んじ、まず我が智を稽えよ」と。これを天官というのです——人事のみ、ということです。」
第二 兵談(へいだん)兵談第二
題は兵談だが、内容の多くは国のことである。前半は土地・城・人口・穀物が互いに釣り合わねばならぬという議論。中ほどで将は天・地・人の三つに制せられないという。末段は用兵の形と勢を十四の比喩で畳みかける。眼目は「兵は朝廷に勝つ」の五字——勝敗は都での計量で決まり、戦場の勇怯で決まるのではない。
土地の肥瘠を量って邑を立て、地に称って城を建て、城に称って人を置き、人に称って粟を蓄える。三つが釣り合えば、内は固く守れ、外は戦って勝てる。外に勝ち、備えは内を主とする。勝と備とが応じ合うさまは符節を合わせるようで、別のものではないからである。
兵を治める者は、地のごとく秘し、天のごとく邃く、無より生じて、しかる後にこれを開く。大にして窕からず、小にして恢からず。禁舍開塞に明るく、流れた民は親しませ、用いられぬ土地は用いる。土地が広くて用いられれば国は富み、民が多くて制があれば国は治まる。富み治まれば、民は轅を発せず甲を出して曝すこともなく、威は天下を制する。ゆえに「兵は朝廷に勝つ」という。甲を曝さずして勝つのは主の勝ち、陣して勝つのは将の勝ちである。
兵を起こすのに憤りをもってしてはならぬ。勝ちが見えれば興し、見えなければ止める。患いが百里の内にあるなら一日の師を起こさず、千里の内にあるなら一月の師を起こさず、四海の内にあるなら一歳の師を起こさない。
将たる者は、上は天に制せられず、下は地に制せられず、中は人に制せられない。寛にして激されて怒らず、清にして財をもって事とされない。心が狂い、耳が聾し、目が盲いる——この三悖をもって人を率いるのは、難しい。
兵の及ぶところ、羊腸の道でも勝ち、鋸歯の地でも勝ち、山を緣っても勝ち、谷に入っても勝ち、方でも勝ち、円でも勝つ。重きことは山のごとく林のごとく江のごとく河のごとく、軽きことは炮のごとく燔のごとく、垣のように圧しかかり、雲のように覆う。敵は聚まって散ることができず、散って聚まることができず、左にいて右へ行けず、右にいて左へ行けない。兵は束ねた木のごとく、弩は羊角の旋風のごとく、人はみな騰り陵ぎ胆を張り、疑慮を断ち切って、堂々と決して進む。
第三 制談(せいだん)制談第三
全書で最も長く、最も主張の濃い篇。「制」は編制と法度。まず「世将の禁ずる能わざる」四事を挙げ、ついで制度さえ定まれば三万で天下を横行できるという。中ほどの比喩は先秦兵書中の白眉——一人が剣を提げて市で斬りかかれば万人が避ける。勇のせいでも万人が無能なせいでもなく、「必死と必生とは固より侔しからず」だからである。後半は経済と吏治に移り、「農に非ざれば食を得る所無く、戦に非ざれば爵を得る所無し」——『商君書』の農戦とほぼ同文で、尉繚子が法家の一路と見られてきた最大の根拠である。
およそ兵は、制が必ず先に定まっていなければならぬ。制が先に定まれば士は乱れず、士が乱れなければ刑がはじめて明らかになる。鉦鼓の指すところ百人ことごとく闘い、行を陥れ陣を乱せば千人ことごとく闘い、軍を覆し将を殺せば万人の刃が斉しく下る——天下にその戦いに当たりうるものはない。
古は、士に什伍があり、車に偏列があった。鼓が鳴り旗が麾かれるとき、先に登る者はいつも国の多力の士であり、先に死ぬ者もまたいつも国の多力の士であった。
敵の一人を損じて我の百人を損じるのは、敵を資けて我を甚だしく傷つけることだが、世の将はこれを禁じえない。徴発の途中で隊を離れて逃げ帰り、あるいは戦いに臨んで背を向ける。逃亡による損害は甚だしいが、世の将はこれを禁じえない。百歩の外で人を殺すのは弓矢、五十歩の内で人を殺すのは矛戟である。ところが将が鼓を打ったのに士卒は互いに囂しく、矢を折り矛を折り戟を抱えこんで、後から出るほうが得だとする。こういうことがあれば内から敗れるのだが、世の将はこれを禁じえない。歩兵は什伍を失い車は偏列を失い、奇兵は将を捨てて走り、大衆もまた走る。世の将はこれを禁じえない。
この四つを禁じうる将であれば、高い山も越え、深い水も渡り、堅い陣も破れる。この四つを禁じえなければ、舟も楫もなしに江河を渡ろうとするようなもので、できるものではない。
民は死を楽しみ生を悪むのではない。号令が明らかで法制が審らかだから、前へ進ませることができるのである。賞を前に明らかにし、罰を後に決行する。だから発すれば利に中り、動けば功がある。
百人に一卒長、千人に一司馬、万人に一将を置けば、少をもって衆を誅し、弱をもって強を誅すことができる。試みに臣の言を聴かれよ。その術は三軍の衆のうち一人を誅して刑を失うことがないようにする。父は子を庇えず、子は父を庇えぬ。まして他国人においてをや。
一人の男が剣を提げて市で斬りかかれば、万人みな避ける。臣が思うに、その一人だけが勇なのではなく、万人がみな不肖なのでもない。なぜか。必死と必生とは、もともと同じ量ではないからである。臣の術を聴かれれば、三軍の衆を一人の死に物狂いの賊に変えられる。誰もその前に当たろうとせず、誰もその後に随おうとせず、独り出て独り入ることができる。独り出て独り入る兵、これが王者・覇者の兵である。
十万を提げて天下に当たる者なき者は誰か。桓公である。七万を提げて天下に当たる者なき者は誰か。呉起である。三万を提げて天下に当たる者なき者は誰か。武子(孫武)である。いま天下の諸国で、士の率いるところ二十万に及ばぬものはないのに、功名を成しえないのは、禁舍開塞に明るくないからである。その制を明らかにすれば、一人がこれに勝てば十人もまた勝ち、十人が勝てば百人千人万人もまた勝つ。ゆえにいう、「吾が器用を便にし、吾が武勇を養い、これを発すること鳥の撃つがごとく、千仞の谿に赴くがごとくせよ」と。
いま患いを被った国は、重い幣を出して聘し、愛子を出して質とし、地境を出して割き、天下の助卒を得る。名は十万といっても実は数万に過ぎない。しかもその兵が来るとき、本国はどの将にもこう言い含めている——「人の下になるな。先に戦うな。」実際には戦わせることなどできないのである。
吾が境内の民を量るに、伍がなければ正すことはできぬ。十万の衆を経制すれば、王は必ずこれに吾が衣を着せ吾が食を食わせられる。それで戦って勝たず守って固からぬのは、吾が民の罪ではなく、内から招いたのである。天下の諸国が我を助けて戦うのは、良驥騄駬が駆けるそばで駑馬が鬐を立てて競うようなもの。どうして吾が気を継げようか。
吾は天下の用を用いて吾が用とし、天下の制を制して吾が制とする。吾が号令を修め、吾が刑賞を明らかにし、天下に農でなければ食を得るところなく、戦でなければ爵を得るところなくさせる。民は腕をまくって争って農と戦とに出る。そうなれば天下に敵はない。ゆえにいう、「号を発し令を出せば、信は国内に行われる」と。
民のうちに敵に勝てると言う者があっても、その空言を許してはならぬ。必ず戦えるかどうかを試すのである。人の地を見てこれを有ち、人の民を分けてこれを畜うには、まず内にその賢者を有していなければならぬ。内に賢者を有たずして天下を有とうとすれば、必ず軍を覆し将を殺す。そうなれば戦に勝っても国はいよいよ弱り、地を得ても国はいよいよ貧しくなる。国中の制が弊れているからである。
第四 戦威(せんい)戰威第四
「気」を論じる。道勝・威勝・力勝の三つに分け、道勝を上とする。「刑未だ加えず、兵未だ接せずして、敵を奪う所以の者五あり」は全書屈指の一段で、敵の気を奪う機会は五つとも接戦の前にある。後半は士を励ます道——死んでもらうにはまず生かさねばならぬ、爵位の等級と喪の手当を目に見えるようにし、田禄と飲食を実のあるものにせよ。末段は将が士卒と苦楽を共にすること。「軍井成りて後に飲み、軍食熟して後に飯し、軍塁成りて後に舎る」の三句は後世の兵書に繰り返し引かれた。
およそ兵には、道をもって勝つものがあり、威をもって勝つものがあり、力をもって勝つものがある。武を講じ敵を料って、敵の気を失わせ師を散らし、刑が全くても用をなさぬようにする——これが道の勝ちである。法制を審らかにし賞罰を明らかにし器用を便にして、民に必ず戦う心をもたせる——これが威の勝ちである。軍を破り将を殺し、闉に乗り機を発し、衆を潰し地を奪い、功を成して還る——これが力の勝ちである。王侯がこれを知れば、三つの勝ちはこれで尽きる。
そもそも将が戦う元手は民であり、民が戦う元手は気である。気が実すれば闘い、気を奪われれば走る。刑がまだ加えられず兵がまだ接しないうちに、敵を奪う道が五つある。一に廟勝の論、二に受命の論、三に踰垠の論、四に深溝高塁の論、五に挙陣加刑の論。この五つはいずれも先に敵を料ってから動くもので、だから虚を撃ってこれを奪うのである。
善く兵を用いる者は、人を奪って人に奪われない。奪うとは、心の機のことである。令とは、衆の心を一つにするものである。衆が定まらなければ令はしばしば変わり、しばしば変われば令が出ても衆は信じない。だから令を出す法は、小さな過ちで改めず、小さな疑いで中断しないこと。上に疑わしい令がなければ衆は二つに聴かず、動きに疑わしい事がなければ衆は二つに志さない。その心を信じさせずしてその力を得た者はいまだかつてなく、その力を得ずしてその死戦を致した者もいまだかつてない。
ゆえに国には必ず礼信親愛の義がなければならず、そうであってはじめて飢えを飽に易えさせられる。国には必ず孝慈廉恥の俗がなければならず、そうであってはじめて死を生に易えさせられる。古の民を率いる者は、必ず礼信を先にして爵禄を後にし、廉恥を先にして刑罰を後にし、親愛を先にしてその身を律するのを後にした。
ゆえに戦う者は必ず身を率いることを本として衆士を励ます。心が四肢を使うようにである。志が励まなければ士は節に死なず、士が節に死ななければ衆は戦わない。士を励ます道はこうである。民の生計は厚くせねばならぬ。爵列の等級、喪葬の手当、民が営むところは目立たせねばならぬ。民の生きる筋道に沿って制を立て、民の営むところに沿って顕彰する。田禄は実があり、飲食は世話をする者があり、郷里は互いに勧め、喪には互いに救い、兵役には互いに従う——これが民を励ますものである。什伍を親戚のようにし、卒伯を朋友のようにすれば、止まれば堵牆のごとく、動けば風雨のごとく、車は轍を結ばず士は踵を旋らさない。これが戦の本の道である。
地は民を養うもの、城は地を守るもの、戦は城を守るものである。ゆえに耕に務めれば民は飢えず、守に務めれば地は危うからず、戦に務めれば城は囲まれない。この三つは先王の本務であり、本務のうちでは兵が最も急である。
ゆえに先王が兵に専らにしたことに五つある。委積が多くなければ士は行かず、賞禄が厚くなければ民は勧まず、武士を選ばなければ衆は強からず、器用が備わらなければ力は壮んならず、刑罰が中らなければ衆は畏れない。この五つに務めれば、静かにしては固いところを守り、動いては欲するところを成せる。
居をもって出を攻めるには、居は重きを欲し、陣は堅きを欲し、発は畢きを欲し、闘は斉しきを欲する。王国は民を富ませ、覇国は士を富ませ、僅かに存する国は大夫を富ませ、亡ぶ国は倉府を富ませる。これを上満ちて下漏ると謂い、患いは救うすべがない。
ゆえにいう。賢を挙げ能を任ずれば、日を選ばずとも事は利あり。法を明らかにし令を審らかにすれば、卜筮せずとも吉を獲る。功を貴び労を養えば、禱祠せずとも福を得る。またいう。天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず。聖人の貴ぶところは、人事のみである。
そもそも勤労の師では、将が必ず自ら先んじる。暑くとも蓋を張らず、寒くとも衣を重ねず、険しいところでは必ず下りて歩く。軍の井が成ってから飲み、軍の食が熟してから飯し、軍の塁が成ってから舎る。労も佚も必ず身をもって共にする。こうであれば、師は久しくとも老いず弊れない。
第五 攻権(こうけん)攻權第五
攻める側の権衡。「兵は静をもって勝ち、国は専をもって勝つ」の八字が骨で、以下はすべてその裏返し——力が分かれる、心が疑う、口々に虚言を吐く、攻を発して必ず衂る。中ほどで「畏侮の権」を立てる。兵は味方を畏れるか敵を畏れるか。この問いは『兵令上』でもう一度出てきて、全書を貫く判断基準になる。末段は攻城の機会を列挙する——津梁いまだ発せず、要塞いまだ修めず、渠答いまだ張らず、遠堡いまだ入らず、六畜いまだ聚まらず。
兵は静をもって勝ち、国は専をもって勝つ。力が分かれれば弱く、心が疑えば背く。力が弱いから進退に思い切りがなく、敵を縦しても擒えられない。将吏も士卒も、動くも静まるも一つの身でなければならぬ。心がすでに疑い背けば、計が決しても動かず、動きが決しても止められず、口々に虚言を吐き、将には修まった容がなく、卒には常の調練がなく、攻を発すれば必ず衂る。これを疾陵の兵という。共に闘うに足りない。
将帥は心であり、群下は支節である。その心が誠をもって動けば支節は必ず力み、その心が疑いをもって動けば支節は必ず背く。将が心で制せず、卒が節で動かなければ、勝ってもそれは幸いの勝ちであって、攻権ではない。
そもそも民は二つを畏れることはできない。我を畏れれば敵を侮り、敵を畏れれば我を侮る。侮られる側は敗れ、威を立てる側は勝つ。およそ将がその道を能くすれば吏はその将を畏れ、吏がその将を畏れれば民はその吏を畏れ、民がその吏を畏れれば敵はその民を畏れる。ゆえに勝敗の道を知る者は、必ずまず畏侮の権を知る。
その心を愛し悦ばせなければ、我に用いられない。その心を威し厳しくしなければ、我に挙げられない。愛は下の順うところに見え、威は上に立てられる。愛するゆえに二心なく、威あるゆえに犯さない。ゆえに善く将たる者は、愛と威のみ。
戦って必ず勝つのでなければ戦を言ってはならぬ。攻めて必ず抜くのでなければ攻を言ってはならぬ。さもなければ刑賞は信ずるに足りない。信は期の前にあり、事は兆しの前にある。ゆえに衆はすでに聚まれば虚しく散らさず、兵はすでに出れば徒らに帰らない。敵を求めるのは亡くした子を求めるように、敵を撃つのは溺れる人を救うようにする。
険を分かつ者には戦う心がなく、挑む者には全き気がなく、闘わされる者には勝つ兵がない。およそ義を挟んで戦うのは、我から起こすのが貴い。私を争い怨みを結んだのは、已むを得ずして応じる。怨みが結ばれて起こっても、待つのが貴い。ゆえに争うなら必ず待ち、息むなら必ず備える。
兵には朝廷に勝つものがあり、原野に勝つものがあり、市井に勝つものがある。闘えば得られ、服せば失う。幸いにして敗れなかったというのは、こちらが不意で、あちらが驚き懼れて曲がりなりに勝ったというだけのこと。曲勝とは全からずということである。全き勝ちでなければ権の名は立たない。ゆえに明主が戦攻の日には、鼓と角とを合わせ、兵刃をもって節し、勝ちを求めずして勝つ。
備えを去り威を撤して勝つ兵があるのは、法があるからである。器用が早くに定まっており、敵への応じ方が周く、統率が極まっている。ゆえに五人で伍、十人で什、百人で卒、千人で率、万人で将——すでに周く、すでに極まっている。朝に死ねば朝に代わり、暮に死ねば暮に代わる。敵を権り将を審らかにしてから兵を挙げるのである。
およそ兵を集めるには、千里なら十日、百里なら一日、必ず敵境に集める。卒が聚まり将が至れば、その地に深く入り、その道を錯り絶ち、その大城大邑に棲みつき、敵を城に登らせて危うきに逼らせ、男女が幾重にもなるようにし、それぞれ地形に逼って要塞を攻める。一城邑を拠って数道を絶ち、従ってこれを攻めれば、敵の将帥は信じられず、吏卒は和せず、刑に従わぬ者が出る——そのとき我はこれを敗る。
敵の救いがまだ至らぬうちに、一城はすでに降る。津梁がまだ発かれず、要塞がまだ修められず、城の険がまだ設けられず、渠答(矢よけの竹垣)がまだ張られなければ、城があっても守りはない。遠くの堡がまだ入らず、戍卒がまだ帰らなければ、人がいても人はいない。六畜がまだ聚まらず、五穀がまだ収められず、財用がまだ斂められなければ、資があっても資はない。城邑が空虚で資が尽きたところを、我はその虚に因って攻める。法にいう、「独り出で独り入り、敵人と刃を接せずしてこれを致す」と。これをいうのである。
巻二卷二
五篇、全書でいちばん兵書らしくない巻である。『守権』は籠城を論じ、本書唯一の純技術的な文章。『十二陵』は二十四条の箴言で、上十二条が事を成す道、下十二条が事を毀つ道。一句一条、接続詞が一つもない。『武議』は最も長く、最も気性が出ている——「凡そ兵は過なきの城を攻めず、罪なきの人を殺さず」に始まり、呉起が材士を斬る話で終わり、その間に太公望七十歳の飯売り、武王が刃に血ぬらずして商を克ったこと、市場こそ軍需の根本であるという議論が挟まる。『将理』はなんと獄政の話で、将はまず裁判官であるといい、しかも十万の良民が訴訟に巻き込まれるのは十万の大軍が外にいて日に千金を費やすのと同じだ、と勘定してみせる。『原官』は二十数条の官制の綱要。守城・箴言・議論・獄政・官制を一巻に収めたということ自体が、この書がもともと「兵法」ではなく国を治め兵を用いる全体構想であったことを示している——『漢書・芸文志』が雑家と兵形勢家の二か所に「尉繚」を著録するのは偶然ではない。
第六 守権(しゅけん)守權第六
籠城を専論する唯一の篇で、先秦の守城論のうち『墨子』城守諸篇と最も読み合わせやすい一段。主張は一つ——守るとは城に縮こまって死を待つことではない。豪傑も精兵も全部城内に収めて城外の蓄えを焼き払えば、攻める側の気を十倍百倍にし、自分の気は半分にも届かない。本当の守法は「その険を失わざる」ことで、守兵は城を出て要塞を拠え、救援と内外相応じなければならない。末段は一種の心理戦——救援が本気でないように見せかけ、老弱を前に、精鋭を後ろに置いて、敵が緩むのを待つ。
およそ守る者が、進んでは外郭を守らず、退いては亭障を守らず、野戦で禦ごうとするのは、善いやり方ではない。豪傑も英俊も、堅甲利兵も、勁弩強矢も、ことごとく郭中に入れ、窖廩を収め家屋を毀して保に入る——そうすれば客(攻め手)の気は十倍百倍になり、主(守り手)の気は半分にも届かない。敵の攻めによる傷は甚だしいのに、世の将はこれを知ることができない。
そもそも守るとは、その険を失わないことである。守法はこうだ。城一丈につき十人で守る。工と炊事は数に入れない。出る者は守らず、守る者は出ない。一で十に当たり、十で百に当たり、百で千に当たり、千で万に当たる。ゆえに城郭を造るのは、ただ民を費やして土を積むためではなく、まことに守るためである。千丈の城なら一万人の守りである。濠は深く広く、城は堅く厚く、士民は備わり、薪と食は給し、弩は堅く矢は強く、矛戟がそれに称う——これが守法である。
攻める側は十余万を下らない。必ず救う軍があってこそ必ず守る城がある。必ず救う軍がなければ、必ず守る城はない。かの城が堅く救いが誠であれば、愚夫愚婦までが城を蔽い、資を尽くして城に血を塗るようにする。一年もちこたえる城とは、守りの余力が攻めに勝り、救いの余力が守りに勝る城である。かの城が堅くとも救いが誠でなければ、愚夫愚婦は陴に拠って泣くばかり。これが人の常情である。そこで窖廩を発いて救い撫でても、もう止めることはできない。
必ず豪傑英俊、堅甲利兵、勁弩強矢を鼓舞して前に並べ、小さく弱く痩せた者を後ろに並べる。十万の衆が城下に頓している。救いは必ずこれを開き、守りは必ず出る。出ては要塞を拠え、ただその後ろを撃つだけで、その糧道を絶たない。内外が相応じるのである。
これは救いながら誠でないように見せることである。誠でないように見せれば、敵を逆さにして待つことになる。壮者を後に、老者を前に置けば、敵は前に相手がないと思い、守りは止められなくなる。これを守権というのである。
第七 十二陵(じゅうにりょう)十二陵第七
二十四条、一条が四字から七字、句型はすべて同じ「某は某に在り」。前の十二条は到達しうる十二の境地、後の十二条は落ちうる十二の穴。「陵」は大きな土山で、高くて登れるものだから十二陵という。先秦兵書中もっとも形の整った篇であり、もっとも箴言集として抜き書きされやすい篇でもある。注意すべきは後の十二条に戦術の話が一つもないこと——すべて人主と将の欠点である。疑わしい者を任じること、屠戮、偏私、自分の過ちを聞くのを嫌うこと、民財を使い果たすこと、離間に乗ること、軽挙、賢者を遠ざけること、利を好むこと、小人を近づけること。
威は変えないことに在る。恵は時に因ることに在る。機は事に応じることに在る。戦は気を治めることに在る。攻は意表に出ることに在る。守は外を飾ることに在る。過なきは度数(計れる基準)に在る。困なきは豫め備えることに在る。慎は小を畏れることに在る。智は大を治めることに在る。害を除くは敢えて断ずることに在る。衆を得るは人に下ることに在る。
悔いは疑わしきを任ずることに在る。孽は屠戮に在る。偏りは私の多きに在る。不祥は己の過を聞くを悪むことに在る。不度は民財を竭くすことに在る。不明は間を受けることに在る。不実は軽々しく発することに在る。固陋は賢を離すことに在る。禍は利を好むことに在る。害は小人を親しむことに在る。亡は守るところなきに在る。危は号令なきに在る。
第八 武議(ぶぎ)武議第八
全書最長の篇、主張も最も濃い。冒頭の十二字を『四庫全書総目』はわざわざ取り上げて「みな戦国の兵を談ずる者の言わざるところ」と評した。つづく市場論が本書で最も特異な一節である——軍は市場に養われる。「衝車なくして攻め、渠答なくして守るは、これを善なきの軍という」。では器械はどこから来るか。市からである。ゆえに「天下の節制を提げて百貨の官なきは、よく戦うと謂うなし」。先秦兵書で商業を戦力の基礎に据えたのはこの篇だけである。後半は呉起を二度描く。一度は隴畝に士卒と共に宿り、一度は自分から突出して首二つを取った勇士を斬る。二つを並べて読んではじめて本書の寸法が分かる——苦楽を共にするのは死んでもらうため、材士を斬るのは令のとおりにだけ死んでもらうためである。
およそ兵は、過なきの城を攻めず、罪なきの人を殺さない。人の父兄を殺し、人の財貨を利とし、人の子女を臣妾とする——これはみな盗である。ゆえに兵とは、暴乱を誅し不義を禁ずるためのものである。兵の加わるところ、農はその田業を離れず、賈はその肆宅を離れず、士大夫はその官府を離れない。その武議が一人に向けられているからである。ゆえに刃に血ぬらずして天下は親しむ。
万乗の国は農戦し、千乗の国は救守し、百乗の国は事養する。農戦は外に権を索めず、救守は外に助けを索めず、事養は外に資を索めない。出ては戦うに足らず、入っては守るに足らぬ者は、市をもってこれを治める。市とは、戦守に給するものである。万乗にして千乗の助けがなければ、必ず百乗の市がなければならぬ。
およそ誅とは、武を明らかにするためのものである。一人を殺して三軍が震えるなら、殺せ。一人を殺して万人が喜ぶなら、殺せ。殺すは大を貴び、賞するは小を貴ぶ。殺すべき者は貴重であっても必ず殺す——これが刑の上に究まるということ。賞が牛飼いの童や馬飼いにまで及ぶ——これが賞の下に流れるということ。刑を上に究め賞を下に流しうるのが将の武であり、だから人主は将を重んじるのである。
そもそも将が鼓を提げ枹を揮い、難に臨んで戦を決し、兵を接し刃を角する。鼓が当たれば功を賞せられ名を立て、鼓が当たらなければ身は死に国は亡ぶ。興亡安危が枹の先に応ずるのである。どうして将を重んじないでいられようか。
鼓を提げ枹を揮い、兵を接し刃を角して、君が武事で功を成す——これは臣の見るところ難しいことではない。古人はいった、「衝車なくして攻め、渠答なくして守るは、これを善なきの軍という」と。見ても見えず、聴いても聞こえないのは、国に市がないからである。
そもそも市とは、百貨の官である。賤く買い貴く売って、士人を限る。人は粟一斗を食い、馬は菽三斗を食う。それでいて人には飢えの色があり馬には痩せの形がある。なぜか。市に産するものはあるのに官に主る者がないからである。そもそも天下の節制を提げて百貨の官がないのでは、よく戦えるとはいえない。
兵を起こして甲冑に蟣蝨が湧くほど(甲を解かぬほど)にさせれば、必ず我のために効用となる。鷙鳥が雀を逐うと、人の懐に飛び込み人の室に入る雀がある。命を惜しまぬのではない。後ろにもっと怖いものがあるからである。
太公望は年七十、朝歌で牛を屠り、盟津で飯を売った。七十を過ぎても主が聴かず、人はみな狂夫と呼んだ。文王に遇うや、三万の衆を提げて一戦で天下を定めた。武議でなければどうしてこのような遇合がありえよう。ゆえにいう、良馬に策あれば遠道も致すべく、賢士に合あれば大道も明らかにすべし、と。
武王が紂を伐ち、師は盟津を渡った。右に旄、左に鉞、死士三百、戦士三万。紂の臣は億万、飛廉・悪来が戟と斧を先にし、陣は百里に開いた。武王は士民を疲れさせず、刃に血ぬらずして商に克ち紂を誅した。祥異があったのではない。人事を修めたか修めなかったか、それだけのことである。
いま世の将は孤虚を考え、咸池を占い、亀の兆を合わせ、吉凶を視、星辰風雲の変を観て、それで勝を成し功を立てようとする。臣はこれを難しと思う。
そもそも将たる者は、上は天に制せられず、下は地に制せられず、中は人に制せられない。ゆえに兵は凶器であり、争いは逆徳であり、将は死の官である。ゆえに已むを得ずしてこれを用いる。上に天なく、下に地なく、後ろに主なく、前に敵なし。一人の兵は狼のごとく虎のごとく、風のごとく雨のごとく、雷のごとく電のごとく、震震冥冥として、天下みな驚く。
勝つ兵は水に似る。水は至って柔弱なものだが、触れる丘陵は必ず崩れる。ほかでもない、性が専一で触れ方が誠だからである。いま莫邪の利、犀兕の堅、三軍の衆をもって、奇正のあるところを得れば、天下にその戦いに当たるものはない。ゆえにいう。賢を挙げ能を用うれば日を選ばずとも事は利あり。法を明らかにし令を審らかにすれば卜筮せずとも吉を獲る。功を貴び労を養えば禱祠せずとも福を得る。またいう。天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず。古の聖人は人事を謹んだのみである。
呉起が秦と戦ったとき、宿営しても隴畝を平らにせず、樸樕(小さな灌木)を蓋にして霜露を凌いだ。なぜか。自分を人の上に置かなかったからである。人に死を乞うなら尊ばれることを求めず、人の力を竭くさせるなら礼を責めない。ゆえに古は甲冑の士は拝さなかった。人を煩わせないという意を示したのである。人を煩わせておいてその死を乞い力を竭くさせようなど、古から今まで聞いたためしがない。
将は命を受けた日に家を忘れ、軍を張って野に宿る日に親を忘れ、枹を援って鼓を打つときに身を忘れる。呉起が戦に臨んだとき、左右が剣を差し出した。呉起はいった——「将はもっぱら旗鼓を主るのみ。難に臨んで疑いを決し、兵を揮って刃を指す、これが将の事である。一剣の任は将の事ではない。」
三軍が行を成し、一舎(三十里)進んで三舎の勢いとなる。三舎を越えれば、決した川の源のようである。前に敵を望んだら、その長ずるところに因ってこれを用いる。敵が白をしるしにすれば白土を塗り、赤にすれば赭土を塗る。
呉起が秦と戦って、まだ合わぬうちに、一人の男が己の勇に勝てず、前に出て首二つを取って還った。呉起はその場で斬った。軍吏が諫めていった、「これは材士です」。呉起はいった、「材士ではある。だが吾が令ではない」。そして斬った。
第九 将理(しょうり)將理第九
「理官」とは裁判官のこと。全篇が獄政の話で、戦法ではない。主張は二つ。一つ、取り調べに拷問は要らない。拷問は嘘の自白しか生まない——「国士といえどもその酷に勝えずして自ら誣うるあり」。二つ、一件の獄が数十百人を巻き込み、巻き込まれるのは親戚・姻戚・旧知ばかりで、結果として農は田を離れ、商は店を離れ、士大夫は官府を離れる。末段は『孫子・用間』の「日に千金を費やす」という勘定を獄に移して計算する。司法の費用を軍費に換算した文章は先秦にほかにない。
およそ将は理官(裁判官)であり、万物の主であって、一人に私しない。一人に私しないからこそ、万物が至ればこれを制し、万物が至ればこれに命ずることができる。
君子は五歩の外に囚を救わず、鉤矢でこれを射られても追わない。ゆえに囚の情をよく審らかにする者は、箠楚(むち)を待たずとも囚の情を尽くしうる。人の背を笞ち、人の脇を灼き、人の指を束ねて囚の情を訊けば、国士といえどもその酷に勝えず自ら誣う者が出る。
いま世の諺にいう、「千金あれば死なず、百金あれば刑せられず」。試みに臣の言を聴き臣の術を行われよ。堯舜の智があっても一言を差し挟めず、万金があっても一銖も使えない。
いま獄を決するに、小さな圄でも十数を下らず、中くらいの圄で百を下らず、大きな圄で千を下らない。十人が百人の事に連なり、百人が千人の事に連なり、千人が万人の事に連なる。連なるのは親戚兄弟、その次が姻戚、その次が知己旧友である。こうして農は田業を離れぬ者なく、賈は肆宅を離れぬ者なく、士大夫は官府を離れぬ者がない。このように良民を関わり連ねれば、みな囚の身の上である。
兵法にいう、「十万の師が出れば日に千金を費やす」と。いま良民十万が囹圄に連なっているのに、上はこれを省みることができない。臣はこれを危ういと思う。
第十 原官(げんかん)原官第十
二十数条の官制綱要、句型はすべて「某は某の某なり」。官・制・爵禄・賞罰・井地・賦斂・工器・関塞から、「官を文武に分かつは、これ王の二術なり」「遊説間諜の自ら入るなきは、正議の術なり」まで並ぶ。末段は全書で最も標語らしい四句——官府に滞る事なく、上に余分の慶賞なく、民に獄訟なく、国に商賈なし。「何ぞ王の至れるや」。ここで「国に商賈なし」というのは『武議』の市場論と矛盾しない。『武議』が求めるのは官設の百貨の官であり、ここで斥けるのは利を追う仲買人である。
官とは事の主るところ、治の本である。制とは四民の職分を分かつこと、治の分である。貴爵と富禄が必ず称うのは、尊卑の体である。善を好み悪を罰し、比法を正すのは、民を会計する道具である。井地を均し賦斂を節するのは、取与の度である。工人を程り器用を備えるのは、匠工の功である。地を分かち要を塞ぐのは、怪を殄し淫を禁ずる事である。法を守り断を稽えるのは、臣下の節である。法を明らかにし験を稽えるのは、主上の操である。明主が等を守るのは、臣主の軽重の権である。賞賚を明らかにし誅責を厳にするのは、奸を止める術である。開塞を審らかにし一道を守るのは、政を為すの要である。下は達し上は通ずるのは、至聰の聴である。
国の有無の数を知るのは、その仂(十分の一の賦)を用いるためである。彼の弱きを知るのは、強の体である。彼の動くを知るのは、静の決である。官を文武に分かつのは、王の二術である。俎豆の制を同じくするのは、天子の会である。遊説と間諜が自ら入るすべがないのは、正議の術である。
諸侯に天子の礼を謹む者があり、君民が世を継ぐのは、王の命を承けるからである。好みを更え常を易え、王の明徳に違う——ゆえに礼として伐つことができる。
官に滞る事なく、上に慶賞なく、民に獄訟なく、国に商賈なし——なんと王道の至りであることか。明らかなことが上に達するのは、王が耳を垂れて聴くかどうかに在る。
巻三卷三
五篇千二百五十八字、全書で最も短く、そして転回点になる巻である。前二篇はまだ議論——『治本』は経済と風俗を論じ、軍隊に一度も触れない唯一の篇。『戦権』は戦場の主導権を論じる。ところが第十三篇『重刑令』から文体が一変する。もはや理を説かず、条文だけを出す。重刑令・伍制令・分塞令、これに巻四の束伍・経卒・勒卒・将令・踵軍の五令を加えた八篇の「令」は、先秦の伝世文献としては唯一まとまって残った軍法条文である。『商君書』には法家の議論はあるが法条はなく、『墨子』城守諸篇には守具はあるが刑名はなく、睡虎地秦簡の軍爵律は一九七五年に土中から出たものである。それ以前、戦国の軍法がどんな姿をしていたかを見るには、この八篇しかなかった。この巻は文体の落差に注意して読まれたい。『治本』は「民をして私なからしむれば天下は一家となる」といい、『重刑令』は「身を戮し家を残し、その籍を去り、その墳墓を発き、その骨を市に暴す」という。同じ書物で、二篇しか隔たっていない。
第十一 治本(ちほん)治本第十一
軍隊に一度も触れない唯一の篇で、生産・器物・風俗を論じる。綱領は素朴そのもの——人は腹を満たす五穀と身を覆う絲麻があれば足りる。だから夫は田に、妻は機に、「民に二事なければ則ち儲蓄あり」。ついで当世を責める。金も木も寒がりはしないのに繍飾を着せ、馬牛は草を食い水を飲む性なのに菽粟を与える。そのくせ人は短褐すら身に着けられず糟糠すら腹に入らない。鍵は「古者、土に肥磽なく、人に勤惰なし」の一句——土地も人も変わっていない。変わったのは治め方である。末段に「天子なる者は四つ」を挙げ、「欲は無度に生じ、邪は無禁に生ず」といい、「禁は必ず武をもって成り、賞は必ず文をもって成る」でようやく話を兵に戻す。
およそ人を治めるとは何か。いわく、五穀がなければ腹を満たすすべがなく、絲麻がなければ身を覆うすべがない。ゆえに腹を満たすには粒があり、身を覆うには縷がある。夫は芸耨(草取り)に、妻は機杼に。民に二つの仕事がなければ儲蓄がある。夫に雕文刻鏤の事なく、女に繍飾纂組の作なし。
木の器は液がしみ、金の器は腥い。聖人は土に飲み土に食った。ゆえに埴を埏ねて器とし、天下に費えがなかった。いまは金木の性は寒くもないのに繍飾を着せ、馬牛の性は草を食い水を飲むのに菽粟を給する。これは治がその本を失っているので、制度を別に設けねばならぬのである。
春夏は夫が南畝に出、秋冬は女が布帛を練れば、民は困らない。いま裋褐(粗い短衣)は身を蔽わず、糟糠は腹を満たさない。その治を失っているのである。古は土に肥磽なく、人に勤惰なかった。古人は何を得て、今人は何を失ったのか。耕して畝を終えず、織って日に機を断つ——それで飢寒しないわけがない。古の治は行われ、今の治は止まっているからである。
いわゆる治とは、民をして私なからしめることである。民に私がなければ天下は一家となり、私の耕も私の織もなく、その寒さを共にし、その飢えを共にする。ゆえに子が十人あっても飯を一杯増やさず、子が一人でも飯を一杯減らさない。どうして喧しく呼ばわり酒に耽って善類を敗るようなことがあろうか。民に軽佻があれば欲心が起こり、争奪の患いが生じる。一夫から横に生じれば、民は私の飯に儲食をもち私の用に儲財をもつ。民が一たび禁を犯せば刑をもって治める——それでどこが人の上たる者であろうか。
善き政はその制を執って民をして私なからしめる。下たる者が敢えて私せざれば、非を為す者はいなくなる。本に反り理に縁り、一道より出れば、欲心は去り、争奪は止み、囹圄は空になり、野は満ち粟は多く、民は安んじ遠きは懐き、外に天下の難なく内に暴乱の事なし。治の至りである。
蒼蒼たる天、その極まりを知る者はない。帝王の君、誰がこれを法とりえよう。往く世は及ぶべからず、来る世は待つべからず。己に求めるほかない。いわゆる天子には四つある。一に神明、二に垂光、三に洪叙、四に無敵。これが天子の事である。
野の物は犧牲にならず、雑な学は通儒にならない。いま説く者がいう、「百里の海も一夫に飲ませることはできぬが、三尺の泉は三軍の渇きを止めるに足る」と。臣は思う、欲は無度に生じ、邪は無禁に生ずる、と。最上は神のごとく化し、その次は物に因り、その下は民の時を奪わず民の財を損なわぬことに在る。そもそも禁は必ず武をもって成り、賞は必ず文をもって成る。
第十二 戦権(せんけん)戰權第十二
「戦権」は戦場の主導権。冒頭に「兵法に曰く」と引く——本書は三か所で「兵法」を引くが、いずれも現存のどの兵書にもなく、佚書の断片である。主張は一字、「先」。「権を先に人に加うる者は敵力めて交わらず、武を先に人に加うる者は敵威もて接することなし」。ゆえに「兵は先を貴ぶ」。ただしこの「先」は軽進ではない。篇中はわざわざ「道を知る者は必ずまず止まるを知らざるの敗を図る」という——退き際を知らぬとどう敗れるかを先に考えよ、というのである。軽々しく戦を求めて、かえって敵のほうが止まれば、主導権は相手に贈られる。
兵法にいう、「千人にして権を成し、万人にして武を成す。権を先に人に加うる者は敵力めて交わらず、武を先に人に加うる者は敵威もて接することなし」と。ゆえに兵は先を貴ぶ。ここに勝てばかしこに勝ち、ここに勝たねばかしこにも勝たない。
およそ我が往けば彼が来、彼が来れば我が往く。互いに勝敗をなす。これが戦の理というものである。そもそも精誠は神明に在り、戦権は道の極まるところに在る。有るものを無しとし、無いものを有りとする。どこに信ずべきものがあろうか。
先王の伝え聞くところはこうである——正に任じ詐を去り、その慈順を存し、決して刑を留めない。ゆえに道を知る者は必ずまず「止まるを知らざるの敗」を図る。どうして必ず往ってこそ功があるといえようか。軽々しく進んで戦を求め、敵がかえって止まれば、我が往って敵が勝を制することになる。ゆえに兵法にいう、「求めれば従い、見えれば加え、主人が敢えて当たらずしてこれを陵げば、必ずその権を喪う」と。
およそ奪われた者には気がなく、恐れる者は守れず、敗れた者には人がない。兵に道がないからである。意が往って疑わなければこれに従い、敵を奪って前に遮るものがなければこれに加え、明らかに視て高く居ればこれを威す。兵の道はこれに極まる。その言に謹みがなければ偸く、陵犯の勢いを失い節がなければ破れる。水が潰え雷が撃てば、三軍は乱れる。必ずその危うきを安んじ、その患いを去り、智をもって決する。廊廟の論をもってこれを高くし、受命の論をもってこれを重くし、踰垠の論をもってこれを鋭くすれば、敵国は戦わずして服せしめうる。
第十三 重刑令(じゅうけいれい)重刑令第十三
八篇の軍令の第一、そして最も重い一篇。刑は二等。千人以上の将が戦って背き、守って降り、地を離れて衆を逃がせば「国賊」といい、本人は処刑、家は潰され、名籍を削られ、祖墳を暴かれ、骨を市に晒され、子女は官奴となる。百人以上なら「軍賊」で一等軽い。末の二句が用途を明かす——「民をして内に重刑を畏れしむれば、すなわち外に敵を軽んず」。刑罰の重さは、兵が敵を畏れる量と法を畏れる量との比を調節する装置なのである。『攻権』の「畏侮の権」、『兵令上』の「卒が将を畏るること敵より甚だしければ勝つ」と同じ算術である。
将で千人以上を率いる者が、戦って背き、守って降り、地を離れて衆を逃がせば、これを国賊と名づける。身は戮せられ家は残され、その籍を去り、その墳墓を発き、その骨を市に暴し、男女は官に公(没収)される。百人以上の者が、戦って背き、守って降り、地を離れて衆を逃がせば、これを軍賊と名づける。身は死し家は残され、男女は官に公される。
民をして内に重刑を畏れしむれば、外に敵を軽んじる。ゆえに先王は制度を前に明らかにし、威刑を後に重くした。刑が重ければ内に畏れ、内に畏れれば外に堅い。
第十四 伍制令(ごせいれい)伍制令第十四
連座法。五人を伍、十人を什、五十人を属、百人を閭とし、層ごとに相保つ。同じ文が編制名だけ替えて四度繰り返される——この機械的な反復は法条の体裁であって、文章の失敗ではない。肝腎なのは末尾で将校も組み込んでいることで、「吏は什長以上左右将に至るまで、上下みな相保つなり」。連座は兵だけでなく将校も縛る。
軍中の制。五人を伍とし、伍は相保つ。十人を什とし、什は相保つ。五十人を属とし、属は相保つ。百人を閭とし、閭は相保つ。
伍に令を干し禁を犯す者があれば、これを揭げる者は罪を免れ、知って揭げなければ伍全体が誅せられる。什に令を干し禁を犯す者があれば、これを揭げる者は罪を免れ、知って揭げなければ什全体が誅せられる。属に令を干し禁を犯す者があれば、これを揭げる者は罪を免れ、知って揭げなければ属全体が誅せられる。閭に令を干し禁を犯す者があれば、これを揭げる者は罪を免れ、知って揭げなければ閭全体が誅せられる。吏は什長以上左右将に至るまで、上下みな相保つ。令を干し禁を犯す者があれば、これを揭げる者は罪を免れ、知って揭げない者はみな同罪である。
そもそも什伍が相結び、上下が相聯なれば、得られぬ奸はなく、揭げられぬ罪はない。父は子に私することができず、兄は弟に私することができない。まして国人が舎を同じくし食を同じくするだけの間柄で、どうして令を干して相私することができようか。
第十五 分塞令(ぶんそくれい)分塞令第十五
軍営の区画と通行の制度。中軍と左右前後の軍はそれぞれ分地を持ち、行垣(仮設の塀)で隔てて往来を許さない。将・帥・伯もそれぞれ分地を持ち、各自溝を掘って界を明らかにする。営中の縦横の道には百二十歩ごとに府柱を立て、柱と柱が見通せるようにし、通行を禁じ道を清め、符節がなければ通れない。薪を採り家畜を放つ者まで行伍を組ませる。末句が眼目——「内に干令犯禁なければ、外に獲られざるの奸なし」。営内を締めれば営外の間者は一人も漏れない、というのである。
中軍と左右前後の軍は、みな分地を持ち、行垣で方り、往来を通じさせない。将に分地があり、帥に分地があり、伯に分地がある。みなその溝洫を営み、その塞令を明らかにし、自分の百人でなければ通れないようにする。その百人でない者が入れば伯がこれを誅する。伯が誅さなければ、これと同罪である。
軍中の縦横の道は、百二十歩ごとに一本の府柱を立てる。人と地とを量り、柱と道とが見通せるようにする。通行を禁じ道を清め、将吏の符節がなければ通行できない。薪を採り家畜を放つ者もみな行伍を成す。行伍を成さぬ者は通行できない。吏属で節なき者、士で伍なき者は、横門(門の吏)がこれを誅する。分地を踰えた者は誅する。
ゆえに内に令を干し禁を犯すことがなければ、外に獲られざる奸はない。
巻四卷四
五篇千十九字、すべて条文で、議論は一句もない。束伍令は伍の存亡と賞罰、各級の誅殺権限を定める。経卒令は旗の色と章識——左軍は蒼、右軍は白、中軍は黄、前後五行の兵がそれぞれ首・項・胸・腹・腰に徽章を佩びる。先秦文献で軍隊の識別標識をこれほど詳しく記したものはない。勒卒令は金・鼓・鈴・旗の四つの指揮信号と、百人から三軍まで積み上げる合同訓練。将令は鉞を授ける出師の儀節と「軍に二令なし」。踵軍令は前後三軍の接続と里程・熟食の日数。五篇を合わせれば、戦国の軍隊が編組・識別・指揮・受命・行軍まで一通りの規程をもっていたことが分かる。注意すべきは、ここの数字がどれも突き合わせて検算できることである——百二十歩ごとに一柱、大軍を去ること百里で三日の熟食、興軍はその倍の道のりで六日の熟食。これは修辞ではなく、そのとおりに実行できる条令である。
第十六 束伍令(そくごれい)束伍令第十六
二節。前節は伍の存亡の計算である。五人で一伍、符を一つ共有し、将吏のもとに預ける。自分の伍を失っても敵の伍を得れば相殺、得て失わなければ賞、失って得なければ本人は死・家は残される。長(什長以上)と将についても同じ算法が段ごとに重くなる。後節は誅殺権限の階梯である——什長は十人を、伯長は十長を、千人の将は百人の長を、万人の将は千人の将を、左右将軍は万人の将を誅しうる。大将軍は誅しえぬところがない。
束伍の令にいう。五人を伍とし、符を一つ共にし、将吏のところに収める。伍を亡っても伍を得た者は相殺。伍を得て亡わなければ賞。伍を亡って伍を得なければ、身は死し家は残される。長を亡って長を得れば相殺。長を得て亡わなければ賞。長を亡って長を得なければ、身は死し家は残される。ただし再び戦って首長を得れば除かれる。将を亡って将を得れば相殺。将を得て亡わなければ賞。将を亡って将を得なければ、地を離れ遁逃する法に坐す。
戦誅の法にいう。什長は十人を誅しうる。伯長は十長を誅しうる。千人の将は百人の長を誅しうる。万人の将は千人の将を誅しうる。左右将軍は万人の将を誅しうる。大将軍は誅しえぬところがない。
第十七 経卒令(けいそつれい)經卒令第十七
軍隊の識別制度で、先秦文献中もっとも詳しい。三軍は方位により三色に分かれる——左軍は蒼(青)、右軍は白、中軍は黄。旗も兵の冠に挿す羽もその色である。各軍の中をさらに五行に分け、蒼・赤・黄・白・黒の五色の章を佩びる。しかも前の五行は頭に、次の五行は項に、以下胸・腹・腰と位置が下がってゆく。章の色と位置を見ただけで、どの軍の第何行かが分かる。末段は進退の賞罰。五行を越えて前に出れば賞、五行を越えて後ろに退けば誅。「経あるを言うなり」の五字で篇を結ぶ。
卒を経するとは、経令をもってこれを三分することである。左軍は蒼の旗、卒は蒼の羽を戴く。右軍は白の旗、卒は白の羽を戴く。中軍は黄の旗、卒は黄の羽を戴く。
卒に五つの章がある。前の一行は蒼の章、次の二行は赤の章、次の三行は黄の章、次の四行は白の章、次の五行は黒の章。この次第で卒を経し、章を亡った者は誅する。前の五行は章を首に置き、次の五行は項に置き、次の五行は胸に置き、次の五行は腹に置き、次の五行は腰に置く。
こうすれば、卒にその吏でない者はなく、吏にその卒でない者はない。非を見て詰らず、乱を見て禁じなければ、その罪も同じである。
鼓して行き交わって闘えば、前の行が進むのを犯難といい、後の行が退くのを辱衆という。五行を踰えて前に出る者は賞、五行を踰えて後ろに退く者は誅。進退・先後と吏卒の功とを知るためである。ゆえにいう、「鼓すれば前は雷霆のごとく、動けば風雨のごとく、敢えてその前に当たる者なく、敢えてその後を躡む者なし」と。経あるを言うのである。
第十八 勒卒令(ろくそつれい)勒卒令第十八
指揮信号と段階的合同訓練。四つの器具にそれぞれ法がある——鼓は進、重鼓は撃、金は止、重金は退、鈴は令を伝え、旗は指し示す。鼓はさらに歩鼓・趨鼓・騖鼓の三段の速度と、将鼓(商)・帥鼓(角)・伯鼓(小鼓)の三級に分かれる。訓練は百人から始め、百人成れば千人に、千人成れば万人に、万人成れば三軍に会する。末段はこの巻唯一の議論の尾——「それ蚤く決し先に定む」。「正兵は先を貴び、奇兵は後を貴ぶ」の八字が、本書で奇正に触れる唯一の箇所である。
金・鼓・鈴・旗の四つにそれぞれ法がある。鼓すれば進み、鼓を重ねれば撃つ。金すれば止まり、金を重ねれば退く。鈴は令を伝えるもの。旗は左に麾けば左、右に麾けば右。奇兵はこれと反対にする。
一鼓一撃して左し、一鼓一撃して右する。一歩に一鼓は歩鼓、十歩に一鼓は趨鼓、音が絶えないのは騖鼓である。商は将の鼓、角は帥の鼓、小鼓は伯の鼓。三つの鼓が同じであれば、将・帥・伯の心は一つである。奇兵はこれと反対にする。
鼓の次を失う者は誅、諠譁する者は誅、金鼓鈴旗を聴かずに動く者は誅する。
百人で戦を教え、教え成れば千人に合わせる。千人が教え成れば万人に合わせ、万人が教え成れば三軍に会する。三軍の衆は分あり合あり、大戦の法をなす。教え成れば閲(検閲)をもってこれを試す。方でも勝ち、円でも勝ち、錯斜でも勝ち、険に臨んでも勝つ。敵が山に在れば緣ってこれに従い、敵が淵に在れば没してこれに従う。敵を求めること亡くした子を求めるように、従って疑わない。ゆえに敵を敗ってその命を制しうる。
そもそも蚤く決し先に定めるのである。もし計が先に定まらず、慮が蚤く決しなければ、進退が定まらず、疑いが生じて必ず敗れる。ゆえに正兵は先を貴び、奇兵は後を貴ぶ。或いは先に或いは後に、それで敵を制するのである。法を知らぬ世の将は、専断で行い、先に撃って勇とし、敗れぬ者はない。その挙に疑うべきがあって疑わず、その往くに信ずべきがあって信ぜず、その致すに遅速あるべくして遅速しない——この三つが戦の累である。
第十九 将令(しょうれい)將令第十九
受命出師の儀節と、軍中における号令の絶対性。君はまず廟に謀り廷に令を行い、自ら斧鉞を将に授けていう——各軍に分職あり、分を踰えて上請する者は死。軍に二令なし、二令を出す者は誅、令を留める者は誅、令を失う者は誅。ついで将軍が告げる——国門を出たら日中に営表を設け轅門を置け、時を過ぎれば法に坐す。営に入れば門を閉じ道を清め、敢えて行く者は誅、敢えて高言する者は誅、敢えて令に従わぬ者は誅。百七字のうちに「誅」の字が六度出る。
将軍が命を受けるとき、君は必ずまず廟に謀り、廷に令を行い、君みずから斧鉞を将に授けていう——「左右中軍にみな分職がある。分を踰えて上請する者は死。軍に二令なし。二令を出す者は誅、令を留める者は誅、令を失う者は誅。」
将軍が告げていう——「国門の外に出たら、日中に営表を設け、轅門を置け。それが期である。時を過ぎれば法に坐す。」将軍が営に入れば門を閉じ道を清める。敢えて行く者は誅、敢えて高言する者は誅、敢えて令に従わぬ者は誅。
第二十 踵軍令(しょうぐんれい)踵軍令第二十
三つの部隊の接続。踵軍は大軍の百里前、興軍はさらにその百里前(大軍からは倍の道のり)。踵軍は三日分、興軍は六日分の熟食を携える——道のりと兵糧の比が合っている。「合表」は取り決めた会合の合図で、三軍ともこれを起止とする。末段は「分塞」——興軍・踵軍が動き出せば四境の民は通行できず、符節を持つ「順職の吏」だけが、しかも合表が起こってから動く。互いに突き合わせて検証するためである。結びの「ゆえに戦わんと欲せば先ず内を安んずるなり」は、『分塞令』の末句と同じことを言っている。
いわゆる踵軍とは、大軍を去ること百里、会地を期し、三日の熟食を作り、前軍より先に行き、戦を合わせる表(合図)となるものである。表を合わせて起こり、踵軍は士を饗し、これに戦勢を作らせる。これを趨戦という。
興軍とは、踵軍より前に行き、表を合わせて起こる。大軍を去ることその道を倍にし、踵軍を去ること百里、会地を期し、六日の熟食を作り、戦備をなさしめ、卒を分けて要害を拠える。戦が利あれば北を追い、兵を按じてこれに趨る。踵軍が還る者に遇えばこれを誅する。いわゆる諸将の兵が四奇の内に在れば勝つ、というのがこれである。
兵には什伍があり、分あり合あり、豫めその職を定め、要塞・関・梁を守って分かれ居る。戦の合表が起これば、すなわちみな会する。大軍は日を計った食をもって起こり、戦具に及ばぬものはない。令が行われて起こり、令のとおりでない者は誅する。
およそ分塞というのは四境の内のことである。興軍・踵軍がすでに行けば、四境の民に行くことを得る者はない。王の命を奉じ符節を授け持つ者を順職の吏という。順職の吏でなくて行く者はこれを誅する。戦の合表が起こってから順職の吏は行き、もって相参する。ゆえに戦わんと欲せば先ず内を安んずるのである。
巻五卷五
四篇二千三十五字、全書でいちばん重い巻である。『兵教上』は訓練の階梯と連座——教えた者が犯した者と同罪になる。『兵教下』はまず「必勝の道十二」を列し、のちに伐国の法と敗軍の相を論じる。『兵令上』は文武の二柄と陣法を論じ、全書の理論の締めくくりとなる。『兵令下』は全篇が逃亡と失将の刑条で、『四庫全書総目』にいう「兵令一篇、誅逃の法においてとりわけ詳し」はこれを指す。この巻については先に二つ言っておきたい。一つ。貞観五年(六三一)の『群書治要』が抄する「兵令」には、今本にない一段がまるごと残っている——「将の卒におけるや、父母の惻、血膚の属、六親の私あるに非ず。しかも敵を見て之に走ること帰するがごとく、前に千刃の谿・不測の淵ありといえども、湯火に入るを見ること蹈むがごとくなるは、前に全明の賞を見、後に必死の刑を見ればなり。」「何が人を死地に駆り立てるのか」に対する本書のもっとも率直な答えであり、今本からは失われている。二つ。『兵令下』末段の「士卒の半を殺す」三段の算法は、伝世兵書のうちでもっとも落ち着かない一句である——軍法による自軍の損耗を戦力の目盛りとして計量している。ここを読んでから『武議』の「過なきの城を攻めず、罪なきの人を殺さず」に戻ってはじめて、この書の二つの顔が見えたことになる。
第二十一 兵教上(へいきょうじょう)兵教上第二十一
訓練の制度。核心は一つの連座——教えた者が犯した者と同罪になる。「およそ伍が陣に臨み、もし一人でも敵に死を尽くさぬ者があれば、教えた者は犯法者と同じ罪」。中ほどは章識(経卒令と互見)と器具。伍長は四人を教えるのに、板を鼓とし瓦を金とし竿を旗とする——先秦文献で「代用品で操練する」ことを記したのはここだけである。教え成れば上へ上へと合わせ、ついに大将に至る。末段は大閲——野に陣し、三百歩ごとに大表を立て、百歩「決」・百歩「趨」・百歩「騖」と三段に分けて節奏を練る。
兵の教令。営を分かち陣に居り、令なくして進退する者があれば、教を犯した罪と同じに扱う。前行の者は前行がこれを教え、後行の者は後行がこれを教え、左行の者は左行がこれを教え、右行の者は右行がこれを教える。五人を教え挙げればその甲首に賞があり、教えなければ教を犯した罪と同じ。羅地(はぐれ)の者は自らその伍を揭げ、伍内で互いに揭げれば、その罪を免れる。
およそ伍が陣に臨み、もし一人でも敵に死を尽くさぬ者があれば、教えた者は犯法者と同じ罪である。およそ什が什を保ち、もし一人を亡って九人が敵に死を尽くさなければ、教えた者は犯法者と同じ罪である。什以上裨将に至るまで、法のとおりでない者があれば、教えた者は犯法者と同じ罪である。およそ刑罰を明らかにし勧賞を正すのは、必ず兵教の法に在る。
将はその旗を異にし、卒はその章を異にする。左軍は章を左肩に、右軍は章を右肩に、中軍は章を胸前に。その章に「某甲某士」と書く。前後の章はそれぞれ五行、尊い章は首の上に置き、その次は順に下げてゆく。
伍長はその四人を教える。板を鼓とし、瓦を金とし、竿を旗とする。鼓を撃てば進み、旗を低くすれば趨り、金を撃てば退き、麾いて左にし、麾いて右にし、金鼓を倶に撃てば坐る。伍長が教え成れば什長に合わせ、什長が教え成れば卒長に合わせ、卒長が教え成れば伯長に合わせ、伯長が教え成れば兵尉に合わせ、兵尉が教え成れば裨将に合わせ、裨将が教え成れば大将に合わせる。
大将が教え成れば、中野に陣し、大表を三百歩ごとに一つ置く。すでに陣すれば、表を去ること百歩で決し、百歩で趨り、百歩で騖せ、戦を習ってその節を成し、これに賞罰を行う。尉吏より下、ことごとく旗を持つ。戦い勝って旗を得た者は、それぞれ得た爵に照らして、賞して勧める心を明らかにする。
戦い勝つのは威を立てることに在り、威を立てるのは力を戮せることに在り、力を戮せるのは罰を正すことに在る。罰を正すのは賞を明らかにするゆえんである。民をして国門の限を背にし、死生の分を決せしめ、教えて死して疑わざらしめるのには、理由があるのである。
守る者は必ず固く、戦う者は必ず闘い、奸謀は作らず、姦民は語らず、令は行われて変わらず、兵は行って猜まず、軽き者は霆のごとく、敵に奮うこと驚のごとし。功を挙げ徳を別かつこと白黒のごとく明らかで、民が上の令に従うこと四肢が心に応ずるがごとし。前軍が行を絶ち陣を乱し、堅きを破ること潰えるがごとくなるのには、理由があるのである。これを兵教という。封疆を開き、社稷を守り、患害を除き、武徳を成すゆえんである。
第二十二 兵教下(へいきょうげ)兵教下第二十二
二つに分かれる。前半は「必勝の道十二」——連刑・地禁・全軍・開塞・分限・号別・五章・全曲・金鼓・陳車・死士・力卒。各条に自ら註を附けており、本書で唯一の自註つきの一覧であると同時に、各篇の制度の総目次にもなっている(連刑は伍制令、地禁は分塞令、五章は経卒令、金鼓は勒卒令)。後半は伐国の法に移る。まず内外の権を審らかにし、ついで地が大きく城が小さいか、城が大きく地が狭いかで地を先に収めるか城を先に攻めるかを決める。末の二段は敗軍の相——将が軽く塁が低く衆が動けば攻むべく、将が重く塁が高く衆が懼れれば囲むべし。夜に撃つのは驚いたのであり、事を避けるのは心が離れたのである。「気を傷つくれば軍を敗り、謀を曲ぐれば国を敗る」の八字で結ぶ。
臣が聞くに、人君には必勝の道がある。ゆえに併せ兼ね広大にしてその制度を一にすれば、威は天下に加わる。それに十二ある。一に連刑、罪を同じくして伍を保つことをいう。二に地禁、道を行くのを禁止して外の奸を網することをいう。三に全軍、甲首が相附き三五が相同じくして其の聯りを結ぶことをいう。四に開塞、地を分かって限りとし、各々その職に死んで堅守することをいう。五に分限、左右が相禁じ前後が相待ち、垣車を固めとして逆え止めることをいう。六に号別、前列は進むことに務めて後の者と別ち、先登を争って次を乱さぬことをいう。七に五章、行列を彰明にして始めから終わりまで乱れぬことをいう。八に全曲、曲折が相従いみな分部あることをいう。九に金鼓、功ある者を興し徳ある者を致すことをいう。十に陳車、前の矛を接ね連ね馬の目を冒うことをいう。十一に死士、衆軍の中で材智ある者が戦車に乗り、前後縦横して奇を出し敵を制することをいう。十二に力卒、その全曲を経して麾かれなければ動かぬことをいう。この十二が教え成れば、令を犯すことを見逃さない。
兵が弱ければ強くでき、主が卑ければ尊くでき、令が弊れれば起こすことができ、民が流れれば親しませることができ、人が衆ければ治めることができ、地が大きければ守ることができる。国の車は閫(門の敷居)を出ず、組甲は橐を出ずして、威は天下を服する。
兵に五致あり。将たれば家を忘れ、垠を踰えれば親を忘れ、敵を指せば身を忘れ、必死なれば則ち生き、勝ちを急ぐは下となす。百人が刃を被れば行を陥れ陣を乱し、千人が刃を被れば敵を擒え将を殺し、万人が刃を被れば天下を横行する。
武王が太公望に問うていった、「吾は少しく間を得て人を用いる要を極めたい」。望が答えていった——「賞は山のごとく、罰は谿のごとく。太上は過つなきこと、その次は過ちを補うこと。人をして私かに語るを得ざらしめよ。およそ罰すべきを請うて罰せざらんとする者は死、およそ賞すべからざるを請うて賞せんとする者は死。」
国を伐つには必ずその変に因る。財を示してその窮を観、弊を示してその病を観る。上は乖き下は離れる——この類が伐つ因である。
およそ師を興すには必ず内外の権を審らかにし、その去るところを計る。兵には備えと欠けとがあり、糧食には余りと不足とがある。出入りの路を校べ、しかる後に師を興して乱を伐てば、必ず入ることができる。地が大きく城が小さければ必ずまずその地を収め、城が大きく地が狭ければ必ずまずその城を攻め、地が広く人が寡なければその阨を絶ち、地が狭く人が衆ければ大堙を築いてこれに臨む。その利を喪わせず、その時を奪わず、その政を寛くし、その業を夷らかにし、その弊を救えば、天下に施すに足る。
いま戦国は相攻め、大いに徳ある者を伐つ。伍より両に、両より師に至るまで、その令を一にしない。率いる者は民心を定めず、ただ驕侈を尚び、患いを謀り訟を弁じ、吏がその事を究めて、累となり且つ敗れる。日は暮れ路は遠く、還るに剉けた気がある。師は老い将は貪り、掠を争って敗れやすい。
およそ将が軽く塁が卑く衆が動けば、攻むべきである。将が重く塁が高く衆が懼れれば、囲むべきである。およそ囲むには必ず小さな利を開いておき、次第に夷らぎ弱らせる。そうすれば節し吝しんでも食えぬ者が出る。衆が夜に撃つのは驚いたのである。衆が事を避けるのは離れたのである。人の救いを待ち、戦を期して蹙むのは、みな心を失い気を傷つけたのである。気を傷つくれば軍を敗り、謀を曲ぐれば国を敗る。
第二十三 兵令上(へいれいじょう)兵令上第二十三
全書の理論の締めくくりであり、『群書治要』ともっとも隔たる篇でもある——治要が「兵令」として抄する三百四十九字のうち、今本と逐字一致するのは三割六分にすぎない。主張は二つ。一、文武の二柄——「武をもって植と為し、文をもって種と為す。武は表、文は裏」。文は利害を視、安危を弁ずるためのもの、武は強敵を犯し攻守に力めるためのもの。二、本書でもっとも有名な一句——「卒が将を畏るること敵より甚だしければ勝ち、卒が敵を畏るること将より甚だしければ敗る」。『攻権』の「畏侮の権」がここで定理になった。後半は陣——内向・外向・立陣・坐陣の四つ。坐る者は剣と斧、立つ者は戟と弩、将は中央にいる。末段は音の虚実を読む——交戦前に先に騒ぐのは虚、後に騒ぐのは実、騒がぬのは「秘」である。
兵は凶器であり、争いは逆徳である。事には必ず本がある。ゆえに王者が暴乱を伐つのは仁義を本とする。戦国は威を立て敵に抗し相図るために、兵を廃することができないのである。
兵は武をもって植と為し、文をもって種と為す。武は表、文は裏である。この二つを審らかにしうれば、勝敗を知る。文は利害を視、安危を弁ずるためのもの。武は強敵を犯し、攻守に力めるためのものである。
専一なれば勝ち、離散すれば敗れる。陣は密なれば固く、鋒は疏なれば達する。卒が将を畏るること敵より甚だしければ勝ち、卒が敵を畏るること将より甚だしければ敗れる。勝敗を知るゆえんは、将を敵に称ることである。敵と将とは権衡(秤)のようなものである。安静なれば治まり、暴疾なれば乱れる。
卒を出し兵を陣するには常令があり、行伍の疏数には常法があり、先後の次には宜しきがある。常令とは、北を追い邑を襲うときに用いるものではない。前後が次を失えば失であり、先後を乱す者はこれを斬る。
常陣はみな敵に向かう。内に向かうものあり、外に向かうものあり、立つ陣あり、坐る陣あり。内に向かうのは中を顧みるため、外に向かうのは外に備えるため、立つ陣は行くため、坐る陣は止まるためである。立と坐の陣は相参わり進止し、将はその中にいる。坐る者の兵は剣と斧、立つ者の兵は戟と弩。将もまた中に居る。
善く敵を御する者は、正兵をもってまず合わせ、しかる後にこれを扼する。これが必勝の術である。斧鉞を陳ね、旗章を飾り、功あれば必ず賞し、令を犯せば必ず死。存亡死生は枹の端に在る。天下に善く兵する者があっても、これを禦ぐことはできない。
矢がまだ交わらず、長刃がまだ接しないうちに、前に騒ぐのを虚といい、後に騒ぐのを実といい、騒がぬのを秘という。虚と実と秘、これが兵の体である。
第二十四 兵令下(へいれいげ)兵令下第二十四
全篇が刑条で、逃亡・失将・連座・戍辺を扱う。先秦の伝世文献としてもっとも完備した軍中の刑名である。重いのは二つ。連座が父母妻子に及ぶこと——辺を一年戍って交代を待たずに逃げれば亡軍に比し、父母妻子は知っていれば同罪、知らなければ赦される。そして大将が戦死したとき、従う吏で五百人以上を率いる者が敵に死なねば斬、大将の左右の近卒で陣中にいた者はみな斬。刑条の間に「名実」の一節が挟まる——名は官籍にあり身は家にある、空名だけの軍では外は敵を禦げず内は国を守れない。末段は本書でもっとも冷たい一段である。
およそ大軍を去って前禦の備えをなす者は、辺県と列侯(斥候)が互いに三五里ずつ離れる。大軍が前禦の備えをなしたと聞けば、戦えばみな通行を禁ずる。内を安んずるためである。
内の卒が出て戍るときは、将吏に旗・鼓・戈・甲を授けさせる。発する日に将吏に後れた者、および県の封界を出た者は、後戍の法に坐す。兵が辺を戍ること一年、ついに亡げて交代を待たぬ者は、法は亡軍に比す。父母妻子がこれを知っていれば同罪、知らなければ赦す。卒が将吏に後れて大将の所に至ること一日なら、父母妻子はことごとく同罪。卒が逃げ帰って家に至ること一日、父母妻子が捕え執らえず、また言わなければ、これも同罪である。
およそ戦ってその将吏を亡った者、および将吏が卒を棄てて独り北げた者は、ことごとく斬る。前の吏がその卒を棄てて北げ、後の吏がこれを斬ってその卒を奪いえた者は賞する。軍で功なき者は三年戍る。
三軍が大いに戦い、もし大将が死んで、従う吏で五百人以上を率いる者が敵に死しえなければ斬る。大将の左右の近卒で陣中に在った者はみな斬る。残りの士卒で軍功ある者は一級を奪い、軍功なき者は三年戍る。伍の人が戦って亡び、また伍の人が戦死してその屍を得られなければ、同伍はことごとくその功を奪う。その屍を得れば、罪はみな赦す。
軍の利害は国の名実に在る。いま名は官に在って実は家に在る。官はその実を得ず、家はその名を得ない。卒を聚めて軍と為しても、空名があって実がなければ、外は敵を禦ぐに足らず、内は国を守るに足らない。これが軍の給らざるゆえん、将の威を奪わるるゆえんである。臣が思うに、卒で逃げ帰った者は、同舎の伍人と吏とに糧を入れさせて饒とし、名づけて軍実とすべきである。さもなければ一軍の名があって二軍分の実の出費があることになり、国内は空虚となり、民の一年の実りを使い果たす。どうして奔北の禍を免れえようか。
いま法をもって逃げ帰るのを止め亡軍を禁ずる、これが兵の一の勝ちである。什伍が相連なり、戦闘に及べば卒と吏とが相救う、これが兵の二の勝ちである。将がよく威を立て、卒がよく節制され、号令が明信で、攻守ともに得る、これが兵の三の勝ちである。
臣が聞くに、古の善く兵を用いた者は、士卒の半を殺しえた。その次は十の三を殺し、その次は十の一を殺した。その半を殺しえた者は威が海内に加わり、十の三を殺した者は力が諸侯に加わり、十の一を殺した者は令が士卒に行われた。ゆえにいう、百万の衆が命を用いなければ万人の闘いに如かず、万人の闘いは百人の奮いに如かず、と。賞は明月のごとく、信は四時のごとく、令は斧鉞のごとく、制は干将(名剣)のごとくであれば、士卒が命を用いぬということは、いまだ聞いたことがない。
底本と校例
底本は『四庫全書』文淵閣本『尉繚子』五巻二十四篇、本文九千二百十六字、句読なし。本頁の句読と分段は本頁で施したものであり、底本のものではない。武経七書の残る六部は、いずれも使える標点本がネット上にある。この一部だけはない——中国語版ウィキソースの標点本『尉繚子』は〈伍制令〉〈分塞令〉〈束伍令〉〈経卒令〉の四篇がまるごと空で、〈戦威〉は二百七十七字(篇全体の四割に満たない)、〈兵令下〉は五十五字しかなく、全部合わせても今本の半分に届かない。しかも〈天官〉一篇だけは『群書治要』の文章から起こされていて、他の篇と系統が違う。これを底本にはできないので、四庫本を取って自分で句読を施した。機械が毎回の再構築で検べるのは一事だけ——本頁の句読と段の界を取り除けば、本文は四庫本と一字たがわず同一でなければならない。一字でも違えば止まる。
二種の録文 四庫本の録文は互いに独立な二種を取った。Kanripo KR3b0006 の WYG 枝と、中国語版ウィキソース『尉繚子(四庫全書本)』である。二つの録文が食い違えば、それは本子の異ではなく録文の誤である(#487『司馬法』の回で立てた分際)。今回は九千二百十六字を一字ずつ突き合わせて、相違は零であった。零というだけでは独立の証明にならない(一方を他方から写しても零になる)。ただし外字として印を付けた字が二つの録文で違う——ウィキソースは「揚」「亀」にも {{SKchar}} を附け、Kanripo はそのまま書く。「忘」「樕」は両方が印を附ける。この取捨の違いは、一方が他方を写したのではないことを示している。
書影による目験 要処は四庫の系統に属さず註解もない本子で一字ずつ確かめた。上海図書館蔵『尉繚子』白文刊本(Wikimedia Commons、PD-scan。半葉八行・行二十字、四周単辺、巻端に朱文印二方、下の一方は「上海圖書館藏」。同じ冊の尉繚子の後には『黄石公三略』が続く)。本頁の表紙もこの本の巻一巻端葉である。ただし善本ではない——〈制談〉の「一夫仗劒擊于市」を「一武伏劒擊於市」に作り、一句のうちに形近の誤りが二つある。だからその異読を一概に従うことはせず、第三者の傍証としてのみ用いた。
最古の証人——『群書治要』 貞観五年(六三一)魏徴らが勅を奉じて編んだもの。その巻第三十七が尉繚子の〈天官〉〈兵談〉〈戦威〉〈兵令〉四篇を抄し、計千四百三十一字。中国では早く亡び、日本の金沢文庫本によって伝わり、尾張藩が天明年間に刊行し、『四部叢刊』がその上海涵芬楼蔵本を影印した。現存するどの尉繚子の本子よりも四百年以上古い。今本と一字ずつ対校した結果は、共通の割合が〈天官〉五割九分、〈兵談〉四割二分、〈戦威〉六割六分、〈兵令〉三割六分、二字以上の相違が百十五箇所。ここまで隔たれば、それは「異文」ではなく別系統である。ゆえに治要の読みを本文に入れることはしなかった——一句ずつ拾って今本に嵌め込むのは校勘ではなく改作だからである。治要の異同はすべて該当段の註釈に書いた。
治要が保存し今本が失った四箇所 一、〈天官〉「万二千人をもって紂の億有八万人を撃ち、紂の頭を断ちて之を白旗に懸く」——今本は「而滅商」の三字。そして「紂の頭を斬りて大白の旗に縣く」は『史記・周本紀』の原文である。二、〈戦威〉の今本「故に之を令するの法、小過は更めず、小疑は中せず」の下に、治要は対をなす一節をもつ——「……事を申さざるは、衆力を待つ所以なり。動く所を審らかにせざれば則ち数変じ、数変ずれば則ち事起こると雖も衆安からず。事を動かすの法、小過ありと雖も更めず、小難あるも戚まず。」原文は「令」と「事」の二節が対になっており、両節の書き出しと結びが同文なので、書写する者の目が飛んで後の一節が落ちた。脱文の痕跡が今も読み取れる。三、同じく〈戦威〉、治要は「必ず気を本として志を厲まし、志を厲まして四枝を使い、四枝もて五兵を使う」に作る。気→志→四肢→五兵と四段が相生じるが、今本ではこの連鎖が壊れている。四、〈兵令〉に今本にない一段がまるごとある——将は卒に対して父母の情も血肉の縁も六親の私もないのに、卒は敵を見て帰するように走る。「前に全明の賞を見、後に必死の刑を見ればなり」。「何が人を死地に駆り立てるのか」への本書のもっとも率直な答えが、今本からは消えている。
改字は二箇所 例は三条を同時に満たすことを要する。一、上海図書館本が底本と異なる。二、底本の文が通らない。三、『群書治要』がその読みを支持する。合致するのは二箇所だけである。(一)〈天官〉「黄帝の形德もて百勝すべし」→「刑德」。刊本は「刑」に作る(表紙の第三行に見える)。治要も「吾聞く黄帝に刑徳あり」。答えが「刑をもって伐ち、徳をもって守る」と刑と徳を分けて説く以上、問いも「刑徳」でなければ通らない。『漢書・芸文志』が兵陰陽家を「刑徳を推し斗撃に随う」と説くのも同じ二字である。(二)〈戦威〉「故に戦う者は心身を率いるを本とす」→「必ず……本とす」。刊本は「必」に作る(同じ葉の隣の行の「民必ず礼信を先にす」と同じ字形)。治要も「必ず気を本として」。「戦者心本乎率身」は語をなさず、しかもすぐ後に「心の四肢を使うがごとし」と「心」が重出する。
底本が通るので改めなかったもの 本子が相違しても底本の文が通るところは一切改めず、該当段に出校した。主なもの——〈制談〉「発すれば能く利に中る」(明以来「節に中る」に改める者が多いが、四庫本も刊本も「利」に作る)、「何ぞ吾が気を紹ぐを能くせんや」(諸本あるいは「吾が後」に作る)、〈束伍令〉「伯長は十長を誅するを得」(諸家は多く「什長」と読む)、〈武議〉「紂の臣億万」——これは「陳」の形訛ではない。『尚書・泰誓』に「受に臣億万あり、ただ億万の心」とあるのがそれである。刊本にはほかに「此の謂い矣」(底本「也」)、「財用未だ斂めず」(底本「無斂」)、「加犯教之罪」(底本「如」)などがあるが、いずれも出校にとどめた。
分巻——四庫本の五巻は旧来の五巻ではない 『四庫全書総目』はいう、「その書、坊行本に巻数なし。いま隋志の目に依りて分かちて五巻と為し、略その旧を存す」と。「坊行本に巻数なし」というこの言い分が事実に合わない。上海図書館蔵のこの坊刻白文本は、巻端にはっきり「尉繚子卷一」と刻し、中ほどにも「尉繚子卷二」「尉繚子卷第三」「尉繚子卷四」「尉繚子卷五」がある。各巻とも新しい葉から始まり、前の葉の裏は白紙にしてある。四箇所の巻端葉はすべて書影で確かめた。しかもその五巻は四庫の五巻と分け方が違う——刊本の巻二は〈攻権第五〉から、巻三は〈原官第十〉から始まる。四庫の巻二は〈守権第六〉から、巻三は〈治本第十一〉から。いずれも一篇ずつずれている。巻四(〈束伍令第十六〉から)と巻五(〈兵教上第二十一〉から)の二箇所は一致する。本頁の巻立ては四庫本に従う。本文が四庫本だからである。刊本の分け方はここに記す。(同じことは前回もあった。『唐李問対』の提要は「世に行わるる本は巻数を分かたず」というが、上海図書館蔵の白文刊本ははっきり分けていた。)
提要の数字の誤り一箇所 『四庫全書総目』は「漢志の雑家に尉繚三十九篇あり」という。今本『漢書・芸文志』の雑家は「尉繚子二十九篇」に作り、兵形勢家に別に「尉繚三十一篇」がある。「三十九」は「二十九」の誤りであろう。提要が続けて胡応麟の「兵家の尉繚こそ今伝わるもので、雑家の尉繚はこの書ではない」を引き、「今の書は二十四篇に止まり、三十一篇というのと数が合わない。のちに亡佚したものがあるのだ」と推すくだりは、この数字の誤りに左右されない。
偽書論と竹簡 宋以来この書を偽作と疑う者は多いが、挙げる根拠は「その詞が浅近である」「梁の恵王が問うのに尉繚子と称している」といった類を出ない。一九七二年、山東省臨沂の銀雀山一号漢墓から竹簡が出土し、そのなかに今本の〈兵談〉〈攻権〉〈守権〉〈将理〉〈原官〉〈兵令〉に対応する残篇があった。墓の年代は前漢の文帝・景帝から武帝初年のあいだ。簡文は今本とかなり出入りがあるが、篇題も文句もおおむね相承けている。この書は前漢初めにすでに今本に近い姿で流通しており、唐宋人の偽造ではない。ただし本頁は竹簡の原物も図版も覆核していない。この一条は公刊された研究の転述であり、上の逐字校勘とは性質が違うので、ここに区別して記す。
分段 原書の目は五巻二十四篇だけで、篇の下に章も節も小標題もない。本頁もこれを立てない(#483 の回で十部の読本から撰擬の小標題七十七条を削り、この線を定めた)。段は読みやすさと逐段の註のために本頁が切ったもので、全部で百四十段。この点をここに明記しておく。左側の目次と携帯版の目次に出るのは五巻・二十四篇と本節だけで、すべて原書自身の階層である。
この読本について 百四十段すべてを訳した。要約も省略もしていない。篇題は訓みを添えて示し、漢字の原題も並べてある。同じ本文の繁体字・簡体字・英語の読本は頁の上部から行ける。中国語の頁には段ごとの註釈があり、ボタンで開閉できる。
表紙 上海図書館蔵『尉繚子』白文刊本の巻一巻端葉(同上、PD-scan)。葉には右から「尉繚子卷一」「天官第一」と、全書の第一句「梁惠王問尉繚子曰:黃帝刑德可以百勝,有之乎」があり、題の下に朱文印が二方。本頁が改めた第一の字はこの葉の上にある——刊本は「刑」、四庫本は「形」。