閲人 巻第一えつじん
全書は「人は信じられない」から始まる。前半は人の常態を言う——取り繕い、自分を第一とし、成功は自分のものにし、失敗は人に押しつける。後半は四つの史実を引いて、禍の出どころが二つしかないことを示す——「察しないこと」と「忍びないこと」だ。まずこの書の出自をはっきりさせておく。書名そのものは実在する。『旧唐書・酷吏伝』に「俊臣、其の党朱南山の輩と『告密羅織経』一巻を造る。皆な条貫支節ありて、事状の由緒を布置す」とあり、『資治通鑑』巻二〇三、天授二年の条にも「俊臣、司刑評事洛陽の万国俊と共に『羅織経』数千言を撰し、其の徒に教えて無辜を網羅し、反状を織成し、構造布置すること皆な支節あり」とある。しかしその一巻はとうに亡佚し、歴代の書目に著録がなく、古い版本も一切伝わらない。今日流通するこの十二巻本は、二〇〇三年に吉林撮影出版社から「唐・来俊臣著」として出たものが最も早い。訳注者は、日本人の友人から万国俊の手写本一巻を得たと自ら言うが、その写本には影印もなく、著録もなく、第三者が実見した記録もない。史書に記されたその一巻は「数千言」の実務マニュアルで、罪状をどう組み立てるか、刑具をどう使うかを説いたものだった。今本十二巻は二千十一字(句読点を除く)、全編が議論であって、具体的な手立ては一つも書かれていない。本ページはこれを仮託の作として読む。題署は今本に従って「唐 旧題 来俊臣 撰」とし、反証を最初に置く。
人の情には飾りが多く、世の習いには偽りが多い。どうして信じられようか。孔子は言った——「巧言・令色・足恭は、左丘明これを恥ず、丘もまたこれを恥ず」。怨みを胸に隠したまま人と友になることを恥じたのである。
人は欲が多く、その性は私(わたくし)を尊ぶ。事が成れば功を自分のものにし、事が敗れれば過ちを人に押しつける。聖人でさえこれを越えられない。人のもともとの姿だからである。
欲が多ければ貪り、私を尊べば曲がる。そこから罪が生まれる。民が懲罰を畏れ、役人が禍を懼れて、行いを慎むことはある。しかし機(おり)があって心変わりすれば、誰に予測できようか。
害はたいてい察しないことから生じ、禍は忍びないことに帰する。斉の桓公は臣に溺れ、身は死んで家は哀しんだ。呉王夫差は越を存続させ、ついに呉を失った。親しさに父子を越えるものはないが、それでも劉広のように背く者は絶えない。恩に君臣を越えるものはないが、それでも王莽のような奸は絶えない。だから人の心には詐りが多く、その表を見て判じてはならない。世事には情が薄く、善い者は最後まで報われない。人を信じるより自分を信じるほうがよく、人に備えるのに万一の僥倖を当てにしてはならない。この道を修めずして、どうして智者といえようか。
事上 巻第二じじょう
部下としての振る舞いを説く。総則は一つ——上と下の心がひとたび離れれば必ず禍が起きる。だから上に仕える技術のすべては、上の疑いを消すことに費やされる。手立ては順(したが)うことと忠であること。媚びを避けないほど順い、へつらいを厭わないほど忠である。後半は裏返る——強い臣になってはならず、分不相応な念を抱いてはならない。功は上に帰し、罪は自分に帰する。「智勇」でさえしまい込んで見せてはならない。
上に立つ者は疑い、下にある者は懼れる。上下の心が離れれば、禍は必ず起こる。
上が驕っているなら、順うことでその心を安んじる。上が憂えているなら、忠をもってその患いを取り除く。順うのに媚びを避けず、忠であるのにへつらいを厭わない。人に謗られようとも、これを欠いてはならない。上が与えたものだけが自分の取れるものであり、生死は人の手にある。逆らえるはずがない。だから智者は上の意をよく窺い、愚者は頑なに自説を持つ。福と禍の分かれ目は、すべてここにある。
君主は強い臣を喜ばない。臣下は分不相応な念を抱くことを戒めよ。臣が強ければ死に、念が妄りであれば亡ぶ。周公ですら畏れたのだ、まして他人においてをや。
上に智がないということはなく、臣に至って賢いということもない。功は上に帰し、罪は自分に帰する。警戒を捨てず、智も勇も表に出さない。肉親であっても忍んで切り捨て、悪事であっても譲らない。まことにそうできれば、ただ上に寵愛されるだけでなく、その寵愛が衰えることもない。
治下 巻第三ちか
第二巻を裏返して、上司としての振る舞いを説く。前提は、進んで人の下にいたい者などいないということだ。だから下を御する手を一つ誤れば、犯されるか、簒われるかのどちらかになる。威の立て方はこうだ。威は礼から生まれ、刑がそれを支える。手を緩めれば崩れる。私的な党を結ばせず、一人だけを寵愛しない。心中は隠し、交際は疎(うと)くしておく。後半は具体的な手口である——好むもので誘い、恐れるもので迫り、賞を与えてその志を挫き、罰を当てて心を戒めさせる。
進んで人の下にいたがる者は少ない。御し方を誤れば、犯されるか、さもなくば簒われる。
上に威がなければ、下に乱が生じる。威は礼によって成り、刑によって支えられ、緩めれば失われる。私事を人と共にせず、謀るときは必ず人払いをする。寵愛は一人に絞らない。専らにさせれば必ず害になる。心の働きはよく隠し、人との交わりは密にしすぎない。そうしてこそ下の者は威を知って畏れる。
下は上に付いて志を遂げ、上は下を恃んで名を成す。下に求めるものがあれば、その心は必ず前へ出る。引き立てはゆるやかにするのがよい。速ければ満ち足りてしまう。上に欲するものがあれば、その態度は親しげになる。下に礼を尽くされたら辞退するな。拒む者には助けがない。
人には好むものがある。好むもので誘えば、取れないものはない。人には恐れるものがある。恐れるもので迫れば、受け入れないものはない。使える才なら、大害でない限り忍んで見過ごす。制しきれない者なら、たとえ大才であっても誅する。賞は惜しむな——その志を落とすためである。罰は時を選べ——その心を戒めさせるためである。恩と威を同時に施し、才と徳を比べ合わせる。それでも功が立たないなら、それは天のせいというほかあるまい。
控権 巻第四こうけん
権力を説く。冒頭の一句が全巻の前提だ——権力は人が離れられないものであり、取るのは難しく、守るのはもっと難しく、しかも生死に関わる。次いで権力に名分をどう与えるかを説く。「天を仮りて事を用う」——自分の事を天の事として語り、相手を天に見放された者として語る。後半は取り方と守り方だ。乱世には能ある者を、盛世には忠なる者を用いる。名は譲ってよいが、実は必ず取る。利禄を手綱にし、虚名で人心を収める。
権力は、人が離れられないものである。取るのは容易でなく、守るのはさらに難しい。智が足りなければ得られず、謀りを一つ誤れば禍になる。生死に関わる事である。
天を仮りて事を行えば、名分は順(すなお)に通る。「天に見放された」と言えば、それが敵の罪になる。民には民の愚かさがあり、権力には権力の智がある。徳が明らかでなければ、人は付いてこない。
乱世には能ある者を用い、平らかになればその患いを除く。盛世にはただ忠なる者を用いる。凡庸であればおのずと従うからだ。名は譲ってよいが、実は必ず取る。名と実が食い違えば、権力は失われる。権力を命より好む者は、しないことがない。権力は譲らないものだから、求めるとなれば必ず極まで行く。機(おり)が要である。機がなければおのずと自滅する。事は断ち切れるものであり、断ち切れば人倫も滅びる。利禄を手綱とし、その実害を取り除く。虚名を賞として与え、その本心を収める。このようにすれば、権力は得られないことがなく、失うこともない。
制敵 巻第五せいてき
まず「敵」を定義する。利害がぶつかり、生死を共にできない相手だけが敵である。見きわめなければ味方も判別できず、制しなければ事業も成らない。続いて「敵」を利害の側から解体する——君子と小人の区別は名ではなく利にある。さらに敵の判定を上の者に委ねる。衆人の敵が自分の敵とは限らず、上の敵はたとえ自分の友であっても敵である。最後の四句が手立てだ——惑わす、制する、構(かま)える、害する。
人には誰しも敵がある。敵とは、利害がぶつかり、生死を共にできない相手をいう。見きわめなければ味方を判別できず、制しなければ事業を成せない。これは大きな害であるから、必ず断たねばならない。
君子が小人を敵とすれば、その君子もまた小人である。小人が君子と友になれば、その小人もまた君子である。名は虚しいもので、智者は毀誉を勘定に入れない。利が第一であって、愚者だけがひたすら善良であろうとする。
衆人の敵を、自分の敵と決めてはならない。上の敵は、たとえ自分の友であっても敵である。親しいからといって、自分の身内だと言い立ててはならない。刑が及ぶとなれば、自分の身内であっても捨てる。相手が気づかぬうちに惑わせる——時を待つのである。相手が動かないうちに制する——機先を制するのである。相手が乱を起こしたところで構える——赦さないのである。淫らな手段で相手を害する——恥じないのである。敵の最大のものは、敵と知らないことだ。禍の最も烈しいものは、友が敵になることだ。人を見るのに賊を見るようにし、身内を疎(うと)い者のように扱い、友を仇よりも遠く接し、人の悪意が自分に向かうのに任せながら、その害だけは避ける。それで何の損があろうか。(「余」は一人称で、「餘」の略字ではない。)
固栄 巻第六これい
すでに栄達と寵愛を得た者が、それをどう守るかを説く。前提は、栄寵には始めがあって終わりがなく、吉凶には定まった数がないということだ。守り方は六条ある。君命に背かない。後継ぎを絶やさない。官職に定まった主はないのだから、百様に変わって君を喜ばせる。君に寵臣があれば、理由がなくとも結び付く。人を罪に問うときは、まずその一族を調べる。人を用いるときは、自分より優れた者を求めない。末段は怨みを減らす法だ。上には満ち足りていると示し、下には恵みを示し、喜怒を顔に出さない。
栄寵には始めがあるが、終わりまで全うする者は少ない。吉凶に常はなく、智者は禍が少ない。栄寵は天命ではなく、謀ってこそ善く保たれる。吉凶は人を選ぶのだから、慎んでこそ咎が消える。(「消愆」——底本は「衍」に作るが、ここでは意味をなさない。通校本に従う。)
君命に背かないことが、栄達の根本である。智者は身を捨ててでもこれを守り続ける。後継ぎに人を欠かさないことが、栄達を長く保つ道である。賢者は自ら苦しんででも子孫に恵みを残す。官職に定まった主はないのだから、百様に変わって君を喜ばせる。君に寵臣があれば、理由がなくとも結び付いておく。誰にでも身内はいる。人を罪に問うときは、慎んでその一族を調べよ。人には賢愚がある。人を用いるとき、自分を超える者を求めてはならない。
栄達は衆人の羨むところであり、同時に衆人の怨みを引き寄せる。上には満ち足りていると示し、下には恵みを示せば、怨みはおのずと減る。大きな仇は必ず除き、小人を軽んじてはならない。禍は伏せておけるものではない。喜怒の跡を残さず、慎重に考えて遠くまで見通す。そうすれば人には手が出せない。
保身 巻第七ほしん
対句二つで始まる。世の道理は、人は自分を害さないが他人が害する。人の道理は、人は自分を許さないのではなく、自分だけを許す——一句は外を、一句は内を言う。中段は名と身の話だ。名も徳も目立たなければ、謗りは身に届かない。仁義に名がなければ、奸邪もこちらを相手にしない。後半は三対の手立てである。弱ければ命を保ち、強ければ翼を畳む。自分を責めるのは厳しく、人を責めるのは激しくしない。善悪に定まった評価はないのだから、わざわざ目立つ役を引き受けることはない。
世の道理では、人は自分で自分を害さず、他人が害する。人の道理では、人は自分を許さないのではなく、自分だけを許すのである。
君子は名を惜しみ、小人は身を愛する。名を好めば行いが縛られ、利を重んじれば損をしない。名も徳も目立たなければ、謗りはその身を損なわない。仁義に名がなければ、奸邪もこちらを患いとは思わない。表では人を褒めながら、相手が耐えがたい立場に置かれるようにして、しかもそれと気づかせない。裏では私事を運びながら、相手が触れられたくないところを攻めて、自分の身を保つ。
庶人は官と争うな。貴人は人の怨みを結ぶな。弱いときは命を保て、強がるな。強いときは翼を畳め、完璧を求めるな。自分を責めるのは厳しくてよい——人が憐れんでくれれば大害には至らない。人を責めるのは激しくするな——小さな恵みが大きな得になることがある。
悪には定まった議論がない。悪を悪として言い立てる者が目立つだけだ。善には定まった評価がない。善を善として掲げる者が安泰であるとは限らない。自分を憐れめば人も憐れみ、自分を捨てれば人も捨てる。心に滞りがなければ、害は入ってこない。
察奸 巻第八さっかん
全書で最も露骨な一巻。まず、奸も忠も自分からは名乗らないと言い、次に、奸には必ず智があり、必ず善がないと言う。そして判定権を丸ごと上の者に渡してしまう——上が用いる者は奸であっても忠であり、上が捨てた者は忠であっても奸である。さらに時と勢の話になる。勢が変わり時が移れば、奸の名目も入れ替わる。名は当てにならず、当てになるのは上だけだ。末尾の一句が全巻の締めくくりである。ただ上だけを、ただ自分だけを見て、表を取り去って実を求めれば、奸はおのずと現れる。
奸は自分から名乗らず、忠は自分から弁解しない。奸は国に禍をもたらし、忠は自分の身に禍をもたらす。(「不自招」——底本は「不自昭」に作るが、通校二本はいずれも「招」に作る。二本に従う。)
智がなければ奸を成せない。その智は陰にある。善があれば奸にはなれない。その知が残っているからだ。
智が奸に及ばなければ、討っても勝てない。知が大きなところまで至らなければ、奸を拒むことも難しい。忠と奸は、たやすく入れ替わる。上が用いる者は、奸であっても忠とされる。上が捨てた者は、忠であっても奸とされる。
勢が変われば人の評価も変わり、時が移れば奸の中身も変わる。その名は当てにならず、ただ上だけが当てになる。好悪から奸は生まれる。人の敵なら、奸でなくとも奸とされる。人の友なら、奸であっても忠とされる。
道を同じくしてはじめてその利を得、道が異なればただ害を受けるだけである。奸に利があるのなら、誰もが奸になれる。忠が禍を招くのなら、人には忠であることが難しい。奸が多く忠が少ないのが、世の実情である。忠を口にし奸を憎むのが、世の表向きである。
ただ上を見、ただ自分を見て、表を取り去って実を求めれば、奸はおのずと現れる。
謀劃 巻第九ぼうかく
官界を、互いに謀り合う一枚の網として描く。上が臣を謀らなければ下は治まらず、下が上を謀らなければ昇進できず、臣が同僚を謀らなければ敵は除けない。途中に法の話が一句挟まる。君を欺くのは大罪で、どんな罪名を着せても逃れられない。法を枉げるのは許されないが、禍を起こすまで待ってから処断する。末段は三段の階梯だ——上は勢を用い、勢が足りなければ術を用いる。下は術を用い、術が尽きれば力を用いる。同僚には智を用い、智が及ばなければ害を用いる。締めの四句は密と速、そして人の功を罪に、人の言葉を誤りに変える方法である。
上が臣を謀らなければ、下は治まらないことがある。下が上を謀らなければ、その身は昇進しにくい。臣が同僚を謀らなければ、敵は除けない。官職に恒(つね)の友はなく、禍はほんの一瞬のところに潜んでいる。勢いがそうさせるのだから、智者はこれを怠らない。敵を遠くに見据えるなら、謀りは今から始めねばならない。賊を除くなら根絶やしにせよ。その謀りに遠慮はいらない。(「禍存斯須」——通行本は「斯虚」に作る。)
君を欺くのは大罪であり、どんな罪名を加えられても逃れられない。法を枉げるのは許されないが、その者が禍を起こすのを待ってから懲らす。
上が臣を謀るには勢を用い、勢で足りなければ術を用いる。下が上を謀るには術を用い、術が尽きれば力を用いる。臣が謀るには智を用い、智が及ばなければ害を用いる。事は密であることが第一で、密でなければ自分が禍を受ける。行いは速いことが第一で、遅ければ人に先を越される。その功をかえって罪とすれば、根まで消し去れる。その言葉を誤りに仕立てれば、人の嫌悪はいっそう増す。これを休まず行えば、敵なしといえるのではないか。
問罪 巻第十もんざい
全書で最も取り調べの手引きらしい一巻だが、それでも具体的な技術は一つも書かれていない。まず法理の一句から始まる——刑の根本は罪を罰することではなく、「罪を明らかにする」こと、つまり先に罪を確定させることにある。続いて手順が並ぶ。挙げる、待つ、逮える、審(しら)べる、供述させる。「人は皆な罪すべし」の四字が前提であり、「善くこれを修めて其の真に違うなかれ」の六字が結びである。供述書は欠けなく整え、しかも本物らしく整えなければならない。末の二段は心を攻める話だ。弱いところを選んで打ち、最も恐れる刑を当てる。憐れみを持ってはならず、友を助けようとする者は重く罰する。
法の善し悪しは条文にあるのではなく、その運用にある。刑の根本は罪を罰することではなく、罪を明らかにすることにある。
人は誰でも罪に問える。人を罪に問うには、まずその人を定めねばならない。罪は自分から名乗り出ないが、ひそかに挙げれば現れる。上は罪を許さない。命令がなければ待ち、命令があれば逮える。人が弁解するのは当たり前だ。審べるのに憐れむな。刑は軽くしてはならない。そうすれば白状しない者はいない。拒んで死ぬ者もあるが、それは罪を畏れて逃れただけのことだ。人に党のない者はいないのだから、一人を罪に問えばその一党を挙げられる。供述は必ず欠けのないように、よく整えて、しかも真実らしさを損なわないようにせよ。ここまで来れば、罪は成る。(「刑之非輕」——底本は「勿輕」に作るが、通校二本はいずれも「非輕」に作る。二本に従う。)
人が違えば心も違う。弱い者を選んで攻めれば、その精神は必ず崩れる。
身体が同じなら恐れるものも同じである。その最も畏れるところに刑を当てれば、その人は必ず屈する。憐れみを持ってはならない。人を憐れむ者は、自分の忠を証せない。友は重く懲らすのがよい。友を助ける者は、ただ害をもたらすだけである。
人を罪に落とすこともあれば、人の罪を免じることもある。難しくとも、やらねばならない。
刑罰 巻第十一けいばつ
前の巻の続き。冒頭の一句が、この書の書名の意味を明かす——人を死に至らせるのに、謀反を構えて着せることより速い手はない。次いで「刑」と「罰」を分ける。刑は身体に、罰は境遇に向かう。智者は禍を畏れ、愚者は刑を畏れる。だから智者には言葉で誅し、頑なな者には情勢で圧する。中段は三つの取り方だ——刑を加えるときは相手が堪えられないところを取り、罰するときは相手が納得しかねるところを衝き、証拠が取れなければ本物らしく作る。末段はこれを人と非人の話に翻す——刑を受ける者は人として扱われず、刑を加えることは罰とは呼ばれない。
人を死に至らせるのに、謀反を構えて着せることに勝る手はない。人を誘って服させるのに、刑によらずして得られるものはない。刑には術があり、罰は変化を尊ぶ。施さないところがなければ、人はみな首を差し出す。
智者は禍を畏れ、愚者は刑を懼れる。言葉で人を誅するのが、刑の極みである。明らかな者は時を識り、頑なな者は理を弁じる。情勢をもって人を待つのが、罰の始まりである。
死は受け入れられても、痛みは堪えがたい。人に刑するときは、その堪えられないところを取る。士は辱めに耐えられず、人は一族に累が及ぶことを憂える。人を罰するときは、その納得しかねるところを衝く。人が罪を認めなければ、その罪をさらに重く着せる。証拠が取れなければ、本物らしく作る。刑の及ばぬところがあっても、陥れて至らぬところはない。罪に名目がないことを憂えるな、憂えるべきは上が疑わないことだ。
刑を受ける者は人ではなく、人を罰する者のそれは罰ではない。人でなければ賤しく、罰でなければ貴い。賤しければ魚肉のように扱われ、貴ければ生殺を握る。人が何を取り何を捨てるかは、結局ここに帰するのではないか。
瓜蔓 巻第十二かまん
巻名は比喩である。瓜の蔓をたどって引き出していくように、一件が一族を引き、一族が一郷を引く。後世このような連座を「瓜蔓抄」と呼んだ。明の成祖が方孝孺・景清らを誅した諸案がこれで知られる。全巻の理屈は二句しかない——事件が多数に及ばなければ手柄は目立たない。そこで生じる冤罪は、もともと避けられないものだ。後半は敵も味方も一時のものとして解体する。官の友は民の敵であり、栄えているときの友は落ちぶれたときの敵である。敵味方に常がない以上、権は手放せず、情は濫らず、人とは密にならず、心は託さない。末句「これを餌して逮う」が全書の結びである。
事が大きくならなければ、人を驚かせられない。案件が多数に及ばなければ、功は目立たない。上は安んじようとし、下は寵を求める。そこに冤罪があるのは当然で、避けられるものではない。
栄えることで人を栄えさせる者は栄え、禍によって人を禍に落とす者は禍を受ける。自分のものでない栄えは恃むな、他人のものである禍は放っておくな。実のある罪がなければ、他の罪で代えられる。明らかな悪がなければ、人の悪をくっつければよい。心にかかる相手は、敵の一党に置く。情において怨む相手は、奸邪の名で陥れる。
官の友は民の敵であり、身内の友は仇の敵である。敵に常はない。栄えているときの友は、落ちぶれたときの敵である。賤しいときの友は、貴くなったときの敵である。友には時がある。だから権は手放してはならない、手放せば根本を失う。情は濫らしてはならない、濫らせば人に忌まれる。人とは密になってはならない、密になれば疑いが生じる。心は託してはならない、託せば禍が伏せられる。智者は自分に害を招かず、能ある者は隙を探して功を求める。餌を撒いて捕らえれば、事に狂いはない。
底本と校訂例
この書には古い版本が存在しない。書名そのものは正史に見える——『旧唐書・酷吏伝上・来俊臣』に「俊臣、其の党朱南山の輩と『告密羅織経』一巻を造る。皆な条貫支節ありて、事状の由緒を布置す」、『資治通鑑』巻二〇三、天授二年に「俊臣、司刑評事洛陽の万国俊と共に『羅織経』数千言を撰し、其の徒に教えて無辜を網羅し、反状を織成し、構造布置すること皆な支節あり」とある。しかしその一巻はとうに亡佚し、『隋書』以下の歴代書目に著録はなく、写本も刻本も伝わっていない。本ページの表紙に用いたのは、明嘉靖十七年(一五三八)聞人詮呉郡刊本『旧唐書』巻百八十六上『酷吏上』の巻頭葉である(台湾国家図書館蔵、善本書号 201.242 01537、十四行行二十六字、左右双欄、版匡二一・二×一四・七センチ)——この書の表紙ではなく、この書名を書き留めたその一巻の首葉である。「『告密羅織経』一巻を造る」の一句は同じ巻の中、巻頭から数葉のところにあり、原スキャン上で一字ずつ照合した。
本文の底本はウィキソース所収の『羅織経』十二巻の翻刻を用いた(同サイトは Textquality 100% と自ら表示している)。全十二巻、本文二千十一字(本ページで加えた句読点は数に入れない)。これは現代人の仮託の作で、二〇〇三年に吉林撮影出版社から「唐・来俊臣著」として出たものが最も早い。訳注者の馬樹全は、日本人の友人から万国俊の手写本一巻を得たと自ら述べるが、その写本には影印も著録もなく、第三者が実見した記録もない。
通校には古文之家の翻刻を用い、一字ずつ機械照合して、全書で十九箇所の異文を得た。いずれもその段の注に校記を出してある。巻十についてはさらに晨星版『羅織経』(来俊臣原著・馬樹全訳注)の試し読みに収められた原文で三重に確認した。同巻の二箇所の異文は通校二本が一致して底本と異なるので、二本に従った。
凡例——一、底本は旧字形(爲・絶・眞・呉・僞の類)を用いるが、本ページでは一律に通行の繁体字に改め、一つずつの校記は出さない。二、底本だけが異なっていても文意が通る場合は底本に従い、校記を出す。底本では通らず通校本で通る場合は通校本に従い、校記を出す。全書でこのように字を改めたのは三箇所(巻六「消愆」、巻十「不自招」「非軽」)である。三、巻・段の区切りと句読点は本ページで加えたものである。底本に句読はない。四、巻五「縦人之悪余」の「余」は一人称であって「餘」の略字ではないので、改めない。
この日本語訳について——本文はすべて上記の漢文底本から直接訳したもので、既存のいかなる日本語訳にも拠っていない。巻名は漢字のまま残し、見出しの脇に読みを添えた。丸括弧内は訳者の注である。
篇旨と丸括弧内の注は AI が書いたものです。中国語のページでは同じ注をボタンで開閉できますが、このページでは本文中にそのまま示しています。