鬼谷子きこくし

戦国 縦横家の言 · 三巻二十一篇 · 現代語訳 · 全文無料で読めます

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目 次 鬼谷子序 鬼谷子 巻上 捭闔 第一 反応 第二 内揵 第三 抵巇 第四 鬼谷子 巻中 飛箝 第五 忤合 第六 揣篇 第七 摩篇 第八 権篇 第九 謀篇 第十 決篇 第十一 符言 第十二 鬼谷子 巻下 本経陰符七術 持枢 中経 鬼谷子篇目考 鬼谷子附録 鬼谷子跋 周広業 跋 盧文弨 跋 阮元 跋

鬼谷子序じょ

秦恩復がこの刻本のために書いた自序で、三つのことを述べる。一、『鬼谷子』は蘇秦の仮託ではなく、旧説の多くは付会である。二、全書の篇目と伝来の由来。三、今回の重刻は銭曾の鈔本を底本とし、『道蔵』本を併せ校し、旧注の佚文と関連記載を輯めて巻末に附した。この書の版本の来歴を読み解くには、この序が入口になる。

『鬼谷子』は『漢書芸文志』に見えず、隋・唐に至ってはじめて著録された。『新唐書』『旧唐書』はいずれも蘇秦の撰とするが、『漢書』の縦横家には別に『蘇子』三十二篇があり、その文は『鬼谷』と類を異にする。もし蘇秦が鬼谷に名を仮託したのなら、班固はなぜそれを省いて注さなかったのか。陸亀蒙は鬼谷を王詡とし、王嘉『拾遺記』は鬼谷を「帰谷」とする。おそらく「帰」と「鬼」は音が転じたものだろう。『爾雅』に「鬼とは帰なり」という。蘇秦の仮託だという説は、張儀と蘇秦が鬼谷に師事したこと、そして『史記・蘇秦伝』に「簡練揣摩」の語があり、『鬼谷書』にちょうど『揣』『摩』の二篇があることから付会されたもので、実は何の根拠もない。

あるいは、周の頃の豪士で鬼谷に隠れた者だというが、これが実情に近い。書は全三巻、『捭闔』から『符言』まで十二篇。『転丸』『胠篋』の二篇は古くに亡び、ほかに『本経陰符七術』および『持枢』『中経』があって、合わせて二十一篇である。柳宗元はかつてその険しく偏り峭(けわ)しく薄いことを譏(そし)り、妄言が世を乱すとした。いま その書を見れば、幽(かす)かに隠れたところを抉(えぐ)り出し、反覆して変幻きわまりない。蘇秦はその余りを得ただけで、舌を動かして合従の長となった。まことに縦横家の祖である。『説苑』『史記』の注、『文選』の注、『意林』『太平御覧』などの諸書に引かれたものを調べると、今の本に見えないものもあり、文が今の本と食い違うものもある。

思うに五代の散乱の後、書写が重なるうちにしだいに本来の姿を失い、「陶」と「陰」、「帝」と「虎」のような誤りや脱落が続いて、『転丸』『胠篋』だけの話ではなくなった。『鬼谷』に注した者としては、古くは楽壱・皇甫謐・尹知章の三家がある。楽の注は『文選』の注中に一度見える。『太平御覧』の数条もまた注者の名を記さない。『中興書目』にはじめて陶弘景注が挙げられ、晁氏・陳氏の二家がこれに続いた。陶貞白は蕭梁の世に生まれたのに、書は後になって出たのだから、読む者が疑わないわけにはいかない。同年の海寧の周耕厓孝廉は、注の中に唐の諱を避けた例が多いことから、これは尹であって陶ではないと断じた。論はかなり博く弁じているが、やはり憑(よ)るところのない臆説であって、傍証がまったくない。

ただ馬端臨『文献通考』は陶注の下に「『唐志』は尹知章の注とする。いずれが是か分からない」と言う。とすれば宋の時にはすでに両説が併存していたわけだ。幸いにも華陽真逸という名のおかげで『道蔵』に収められ、陶であれ尹であれ、宋以後の書でないことだけは決せられる。この書は乾隆己酉の年に刻され、ただ孫淵如観察が華陰の嶽廟で写した本に拠って校訂し刊行しただけであった。盧抱経先生が重ねて勘定を加えること、再度三度に及んだ。最後に述古堂の旧鈔本を郵便で示され、そこではじめて『道蔵』に残るものにも誤脱が少なくないと分かった。

書を読むのはもとより難しいが、書を校するのもまた易しくない。そこで改めて版木にかけ、一貫して銭本を主とした。銭本になくて蔵本にあるものは、その異同を審らかにして互いに考証した。また唐宋の書注に引かれた旧注を拾い取り、掇(ひろ)って残し、本文の下に附した。今の本で亡佚して他書にのみ見えるもの、および鬼谷の事跡を伝えて参考に足るものは、巻末に附録して閲覧に備えた。

嘉慶十年乙丑、八月十五日、江都の秦恩復 序す。

鬼谷子 巻上かんじょう

巻上の四篇は「基本の型」である。『捭闔』が総綱(開閉の道)を立て、『反応』は実情をどう聴き出すかを教え、『内揵』は上位者とどう関係を結び固めるかを説き、『抵巇』は裂け目が生じ始めたときの処し方を説く。四篇は言語の術から、しだいに政治的判断へと進んでいく。

捭闔 第一はいこう

「捭」は押し開いて相手に口を開かせること、「闔」は閉じて口をつぐませることである。本篇は全書の総綱であって、あらゆる遊説・人物鑑識・謀事は、「語らせるべきときに語らせ、黙らせるべきときに黙らせる」というこの開閉の間に帰する。開閉はさらに陰陽に配される。正面の、積極的で利のあることを語るのが「陽」、負の、危うく害のあることを語るのが「陰」。高位の者には大きなところを語り、低位の者には細かなところを語る。開閉の呼吸と加減を握れば、言葉の主導権を握ったことになる。

いにしえを考えてみれば、聖人が天地の間にあるとき、衆生の先に立ち、陰陽の開閉を観て物に名を与え、存亡の門戸を知り、万類の終始を籌(はか)り、人心の理に達し、変化の兆しを見て、その門戸を守り司った。だから聖人が天下にあるのは、古から今に至るまでその道は一つである。変化は窮まりないが、それぞれ帰するところがある。あるいは陰、あるいは陽、あるいは柔、あるいは剛、あるいは開、あるいは閉、あるいは弛(ゆる)め、あるいは張る。だから聖人はひたすらその門戸を守り司り、何を先にし何を後にするかを審らかに察し、権を度(はか)り能を量り、その技(わざ)の巧拙・長短を校(くら)べる。そもそも賢と不肖、智と愚、勇と怯、仁と義には差がある。だから捭(ひら)くこともでき、闔(とじ)ることもでき、進めることもでき、退けることもでき、賤しめることもでき、貴ぶこともできる。為すことなくしてこれを牧(やしな)うのである。

有るか無いか、その実か虚かを審らかに定め、その嗜欲に随って、その志意を見る。その言うところをそっと押しのけ、捭(ひら)いて反対からこれを問い、その実を求める。要はその指すところを得ることだ。闔(とじ)ておいてから捭くのは、その利を求めるためである。あるいは開いて示し、あるいは闔じて閉ざす。開いて示すのは、その情を同じくするためである。闔じて閉ざすのは、その誠(まこと)を異にするためである。可か不可かは、その計謀を審らかに明らかにして、同異の本(もと)を原(たず)ねる。離れるにも合うにも守るところがあり、まずその志に従う。捭こうとするなら周(あまね)きを貴び、闔じようとするなら密なるを貴ぶ。周密の貴ぶところは微(かす)かであることで、それは道と相い追う。捭くのはその情を料(はか)るためであり、闔じるのはその誠を結ぶためである。

みなその権衡の軽重を見て、そこで度数を為し、聖人はそれに因って慮る。その権衡度数に中(あた)らなければ、聖人はそれに因って自ら慮る。だから捭くには、捭いて出すこともあり、捭いて納れることもある。闔じるには、闔じて取ることもあり、闔じて去ることもある。捭闔とは天地の道である。捭闔によって陰陽を変動させ、四時を開閉して万物を化し、縦横・反出・反覆・反忤も、必ずここから出る。捭闔は道の大いなる化であり、説(ぜい)の変化である。必ずあらかじめその変化を審らかにせよ。吉凶と大命がそこに繋がっている。口は心の門戸であり、心は神の主である。

志意・喜欲・思慮・智謀は、みなこの門戸から出入りする。だから捭闔でこれを関(せき)とし、出入でこれを制する。捭くとは、開くこと、語ること、陽である。闔じるとは、閉じること、黙ること、陰である。陰陽がよく和し、終始がその義にかなう。だから長生・安楽・富貴・尊栄・顕名・愛好・財利・得意・喜欲を語るのは陽であって、これを「始」という。死亡・憂患・貧賤・苦辱・棄損・亡利・失意・有害・刑戮・誅罰を語るのは陰であって、これを「終」という。およそ陽の類に法(のっと)って語るものはみな「始」といい、善を語ってその事を始める。

およそ陰の類に法って語るものはみな「終」といい、悪を語ってその謀を終える。捭闔の道は、陰陽をもってこれを試す。だから陽の相手に語るときは崇高なところに依り、陰の相手に語るときは卑小なところに依る。低いところから小を求め、高いところから大を求める。こうして言えば、出ないところなく、入らないところなく、できないことがない。人を説くこともでき、家を説くこともでき、国を説くこともでき、天下を説くこともできる。小を為せば内(うち)がなく、大を為せば外がない。益と損、去と就、倍(そむ)くと反(かえ)るも、みな陰陽でその事を御する。陽は動いて行き、陰は止まって蔵れる。陽は動いて出、陰は隠れて入る。陽は還って陰に終わり、陰は極まって陽に反る。

陽をもって動く者は、徳が相い生じる。陰をもって静まる者は、形が相い成る。陽をもって陰を求めるのは、徳をもって包むのである。陰をもって陽を結ぶのは、力をもって施すのである。陰と陽が相い求めるのは、捭闔によるのである。これが天地陰陽の道であり、人を説く法である。万事の先(さき)となるもの、これを円と方の門戸という。

反応 第二はんおう

「反」は逆に推し、逆に聴くこと。「覆」はもう一度検証すること。本篇が説くのは聴く術である。自分は黙り、相手に語らせる。「象」(たとえ)と「比」(類比)で言葉を引き出し、網を張って魚を釣るように実情を釣り上げる。合わないところを聞いたら逆に問い返せば、相手は必ず応じる。核心の一句は「これを知るは己に始まる。自ら知りて而る後に人を知る」——まず自分を知れてこそ、人を知ることができる。

いにしえの大いなる化を行った者は、形なきものと共に生きた。反(かえ)って往(かこ)を観、覆(かえ)して来(みらい)を験(ため)す。反って古を知り、覆して今を知る。反って彼を知り、覆して此を知る。動静・虚実の理が今に合わなければ、古に反ってこれを求める。事に、反って覆を得るものがあるのは聖人の意であって、察しないわけにはいかない。人が語るのは動であり、自分が黙るのは静である。その言葉に因ってその辞を聴き、言に合わないところがあれば、反ってこれを求める。その応えは必ず出る。言には象があり、事には比がある。その象と比によって、その次を観る。象とはその事にかたどること、比とはその辞になぞらえることである。

形なきものによって声あるものを求める。その釣りの言葉が事に合えば、人の実情が得られる。それはちょうど罝(あみ)を張って獣を取るようなもので、獣の集まるところに多く網を張って窺う。道がその事に合えば、相手は自分から出てくる。これが人を釣る網である。常にその網を持ってこれを駆り、相手が語らず比べようもなければ、そこで変える。象をもって動かし、その心に報(こた)えさせる。その情を見たら、それに随って牧(やしな)う。自分が反って往けば、相手は覆って来る。言に象と比があれば、それに因って基(もと)を定める。重ね、襲(かさ)ね、反し、覆せば、万事その辞を失わない。聖人が愚者も智者も誘い出して、事にみな疑いを残さないのはこれによる。だからよく反って聴く者は、鬼神のように変じて、その情を得る。

その変じ方が当を得ていれば、牧い方も審らかである。牧い方が審らかでなければ、情を得ても明らかでない。情を得て明らかでなければ、基を定めるのも審らかでない。象と比を変えれば、必ず反(かえ)ってくる辞があり、それを戻して聴く。その声を聞きたければかえって黙り、張りたければかえって斂(おさ)め、高くしたければかえって下げ、取りたければかえって与える。情を開かせたければ、象をもって比べ、その辞を牧う。同じ声は呼び合い、実の理は同じところへ帰する。あるいはこれに因り、あるいはあれに因り、あるいは上に仕えるのに用い、あるいは下を牧うのに用いる。これが真偽を聴き分け、同異を知り、その情と詐りを得る術である。動作も言葉も沈黙も、これと共に出入りし、喜怒もこれによってその型が見える。みなあらかじめ定めておくことを法則とし、反によって覆を求め、その託するところを観る。だからこれを用いるのである。

自分は平静でありたい。そうしてその辞を聴き、その事を察し、万物を論じ、雄と雌を分ける。たとえその事そのものでなくとも、微かなところを見て類を知る。人の内側に探り入って住んでいるかのように、その能を量り、その意を射当て、符節を合わせるように外れない。螣蛇の指すところのように、羿(げい)が矢を引くように。だから、これを知るのは己に始まる。自ら知って後に人を知るのである。互いに知り合うさまは比目の魚のようであり、形を見るさまは光と影のようである。言葉を察して外さないさまは、磁石が針を取るよう、舌が焼いた骨を取るようである。人と関わるのは微かに、情を見るのは疾(はや)い。陰と陽のように、円と方のように。まだ形が見えないうちは円でこれを導き、すでに形が見えたら方でこれに当たる。

進退も左右も、これによって司る。自分が先に定まっていなければ、人を牧うのも正しくなく、事の用い方も巧みでない。これを情を忘れ道を失うという。自分が審らかに先に定まって人を牧い、策(はか)りながら形も容(すがた)も見せず、誰もその門を見ることができない。これを天神という。

内揵 第三ないけん

「内」は進言して内に入れてもらうこと、「揵」は関係を鎖(とざ)して固めること。本篇は君臣・上下の親疎遠近を論じる。なぜ遠く離れているのに親しく、目の前にいるのにかえって疎まれる者がいるのか。鍵は「素(もと)より本始を結ぶ」——平素から根を結んでおくこと、そして進言のときはまず可否を揣(はか)り、その志に順(したが)うことにある。末尾には退路も残されている。合えば入り、合わなければ「環のごとく転じ化に因る、退くを大儀と為す」——身を全うして退くことこそ大筋なのだ。

君臣上下の事には、遠くにいて親しい者があり、近くにいて疎まれる者がある。近づいても用いられない者があり、去ってからかえって求められる者がある。日々目の前に進み出ても取り合われない者があり、遥かに声を聞くだけで思い慕われる者がある。事にはみな内揵があり、平素から本始を結んでおくのである。あるいは道徳で結び、あるいは仲間として結び、あるいは財貨で結び、あるいは色香で結ぶ。その意を用いれば、入りたければ入り、出たければ出る。親しみたければ親しみ、疎みたければ疎む。就きたければ就き、去りたければ去る。求めたければ求め、思いたければ思う。蜘蛛の母がその子を従えるように、出るのに隙間がなく、入るのに跡がなく、独り往き独り来て、誰もこれを止められない。「内」とは説辞を進めることである。

「揵」とは謀るところを鎖すことである。説こうとする者はひそかに度(はか)ることに努め、事を計る者は順(すなお)に循(したが)うことに努める。ひそかに可否を慮り、明らかに得失を言って、その志を御する。来たるべきに方(あた)って時に応じ、その謀に合わせる。詳らかに思って揵を持ち込めば、往いて応じるのが時宜に当たる。そもそも内に合わないところがあれば、施し行ってはならない。そこで時宜を揣(はか)り切って、便宜に従って為し、その変化を求める。変化によって内に入ろうとするのは、鍵穴に鍵を取るようなものだ。過去のことを語るときは、まず順(すなお)な辞で。これから来ることを説くときは、変化の言葉で。よく変ずる者は地勢を審らかに知り、そこで天に通じ、四時を化し、鬼神を使い、陰陽に合って、人民を牧う。その謀る事を見て、その志意を知る。

事に合わないところがあるのは、まだ知らないことがあるからだ。合っていても結ばれないのは、表で親しく裏で疎いからだ。事に合わないところがあれば、聖人はそのために謀らない。だから遠くにいて親しいのは、陰の徳があるからだ。近くにいて疎まれるのは、志が合わないからだ。近づいても用いられないのは、策が当を得ないからだ。去ってからかえって求められるのは、事が的中して後から分かったからだ。日々目の前に進み出ても取り合われないのは、施すところが合わないからだ。遥かに声を聞くだけで思い慕われるのは、謀に合っていて事の決を待っているからだ。だから言う——その類を見ずして為す者は逆らわれ、その情を得ずして説く者は非とされる、と。その情を得てこそ、その術を制することができる。この用い方なら、出ることも入ることもでき、鎖すことも開くこともできる。

だから聖人が事を立てるとき、これによってあらかじめ知り、万物を鎖す。道徳・仁義・礼楽・計謀に由り、まず『詩』『書』を取り、混ぜ合わせて損益を説き、去就を議論する。合わせようとするなら内を用い、去ろうとするなら外を用いる。外と内については、必ず道と数を明らかにせよ。来たるべき事を揣り策し、疑わしいところを見たら決する。策に失計がなければ、功を立て徳を建てる。名を治め産業に入る、これを「揵にして内に合う」という。上が暗くて治まらず、下が乱れて悟らないなら、鎖してこれに反する。内で自ら得ながら外に留まらず、説いて飛び立たせる。もし命が自ずから来るなら、迎えてこれを御する。もし去ろうとするなら、危うきに因ってこれに与える。環のように転じ化に因って、誰にも何をしているか分からせない。退くことを大いなる儀(すじみち)とするのである。

抵巇 第四ていき

「巇」は壁の裂け目、「抵」は塞ぐこと、また撃つことである。本篇は政治と人事を、ひび割れうる器として見る。裂け目が生じ始めたときには極めて細かな兆ししかない。このとき塞げるなら塞ぐ(「抵して之を塞ぐ」)。もはや救いようがなければ、勢いに乗じて撃ち破り取って代わる(「抵して之を得る」)。五帝の治は前者、三王の革命は後者である。最後の一句は身を守る言葉だ——天下に抵(ふさ)ぐべき裂け目がなければ、深く隠れて時を待て。

物には自然があり、事には合離がある。近くにいて見えないものがあり、遠くにいて知れるものがある。近くにいて見えないのは、その辞を察しないからだ。遠くにいて知れるのは、過去に反って未来を験すからだ。「巇」とは罅(ひび)である。罅とは裂け目である。裂け目は大きな隙(すき)になる。巇が生じ始めたときには兆しがある。抵(ふさ)いで塞ぐこともでき、抵いで却(しりぞ)けることもでき、抵いで息(や)ませることもでき、抵いで匿(かく)すこともでき、抵いで得ることもできる。これを抵巇の理という。事が危ういとき、聖人はこれを知って、独りその身を保つ。変化に因って事を説き、計謀に通達して、細かく微かなところを識る。経(すじ)は秋毫の末(さき)から起こり、それを太山の根もとで揮(ふる)う。

それが外に施されて、兆し・萌え・芽・蘖(ひこばえ)の謀となるのは、みな抵巇による。抵巇の隙は、道術のために用いられる。天下が紛れ乱れ、上に明主なく、公侯に道徳がなければ、小人が讒(そし)り賊(そこな)い、賢人は用いられず、聖人は逃れ隠れ、利を貪り詐り偽る者が出る。君臣は互いに惑い、土は崩れ瓦は解けて互いに伐ち射(う)ち、父子は離散し、乖き乱れて目を反(そむ)ける。これを芽生えた巇罅という。聖人は芽生えた巇罅を見れば、法をもってこれを抵ぐ。世が治められるなら抵いで塞ぎ、治められないなら抵いで得る。あるいはこのように抵ぎ、あるいはあのように抵ぐ。あるいは抵いでこれを反し、あるいは抵いでこれを覆す。

五帝の政は抵いで塞いだ。三王の事は抵いで得た。諸侯が互いに抵ぎ合った例は数えきれない。この時に当たっては、よく抵ぐ者が上位に立った。天地の合離終始このかた、必ず巇隙はある。察しないわけにはいかない。これを察するのは捭闔による。この道を用いられる者が聖人である。聖人とは天地の使いである。世に抵ぐべきものがなければ、深く隠れて時を待つ。時に抵ぐべきものがあれば、そのために謀る。上に合わせることもでき、下を検(ただ)すこともできる。よく因り、よく循(したが)って、天地のために神を守るのである。

鬼谷子 巻上

鬼谷子 巻中かんちゅう

巻中の八篇は「操作の手引き」である。『飛箝』『忤合』は持ち上げ方と離合を説き、『揣』『摩』は全書の技術的核心(まず権を量り情を揣り、次いでひそかに触れて動かす)、『権』は相手によって言葉を変えることを、『謀』は謀りの通則を、『決』は決断の時機を説き、『符言』が君主南面の術九条で締めくくる。もとあった『転丸』『胠篋』の二篇はすでに失われている。

飛箝 第五ひけん

「飛」はまず評判を作って相手を持ち上げること、「箝」はすかさず鉗(はさ)んで抜け出せなくすること。本篇は「人材を引き、人を制する」一連の手順である。まず権能と天の時・地の利を量り、次に鉤箝の辞で誘ってその好むところを吐かせ、そのうえで好みに投じて鉗制する。末尾の「空しく往きて実ちて来たる」の一句に、手口がよく表れている——差し出すのは虚、回収するのは実である。

およそ権を度(はか)り能を量るのは、遠くを徴(め)し近くを来させるためである。勢いを立てて事を制するには、必ずまず同異を察し、是非の言を分かち、内と外の辞を見て、有無の数を知り、安危の計を決し、親疎の事を定める。しかる後にこれを権量する。そこに隠れた括(くく)りがあれば、徴すこともでき、求めることもでき、用いることもできる。鉤箝の辞を引き、飛ばしておいて鉗(はさ)む。鉤箝の語というのはその説辞であって、たちまち同じくし、たちまち異にする。うまくいかない相手には、あるいはまず徴して後に重ねて累(かさ)ね、あるいはまず重ねて累ねて後に毀(そし)り、あるいは重ね累ねることを毀りとし、あるいは毀りを重ね累ねることとする。その用い方は、あるいは財貨・珍奇・珠玉・璧帛・彩色を挙げてこれに仕え、あるいは能を量り勢いを立てて釣り上げ、あるいは窺い伺って裂け目を見て鉗む。その事の運びは抵巇を用いる。

これを天下に用いようとするなら、必ず権を度り能を量り、天の時の盛衰を見、地形の広狭・険阻の難易、人民や貨財の多少を制(はか)る。諸侯の交わりは、どちらが親しくどちらが疎いか。どちらを愛しどちらを憎むか。心意の懐くところを審らかにして、その好悪を知り、そのうえで相手が重んじるところを説き、飛箝の辞でその好むところを釣り、鉗んで求める。人に用いるときは、智能を量り、才力を権(はか)り、気勢を料って、それを枢機とし、迎え、随い、鉗んで和し、意をもって宣べる。これが飛箝の綴じ方である。人に用いれば、空しく往って実ちて来たる。綴じて失わず、その辞を究める。鉗んで従(たて)にもでき、鉗んで横にもでき、引いて東にもでき、西にもでき、南にもでき、北にもでき、引いて反すこともでき、覆すこともできる。覆してもまた復(もど)せて、その度を失わない。

忤合 第六ごごう

「忤」は背くこと、「合」は向かうこと。天下の両方に気に入られることはできない——「計謀は両つながら忠ならず」。こちらに合えば必ずあちらに背く。本篇は去就のあいだの権衡の取り方を教える。伊尹が五たび湯と桀のあいだを往復し、呂尚が三たび殷に入ったのは、反覆して試すうちに最後に帰すべき相手を見定めたのである。その前提は、まず自分を量ることだ——「己れ必ず自ら材能知睿を度り、長短遠近いずれが及ばぬかを量る」。

およそ趨(おもむ)いて合い、倍(そむ)いて反るのにも、計にはそれぞれ適した合わせ方がある。化し転じて環のように連なり、それぞれに形と勢いがある。反覆して相い求め、事に因って制する。だから聖人は天地の間にあって身を立て世を御し、教えを施し声を揚げ名を明らかにするには、必ず事物の出会いに因り、天の時の宜しきを観、それによって多いところ少ないところを知り、これであらかじめ知って、ともに転化する。世に常に貴いものはなく、事に常の師はない。聖人は常に与(くみ)するものもなく、与しないものもない。聴くところで聴かないものはない。事に成って計謀に合うなら、それとともに主となる。あちらに合えばこちらから離れる。計謀は両方に忠であることはできない。必ず反と忤がある。これに反すればあれに忤(そむ)き、これに忤けばあれに反る。それがこの術である。

これを天下に用いるなら、必ず天下を量ってこれに与する。国に用いるなら、必ず国を量ってこれに与する。家に用いるなら、必ず家を量ってこれに与する。身に用いるなら、必ずその身の材能と気勢を量ってこれに与する。大小も進退も、その用い方は一つである。必ずまず謀り慮って計を定め、しかる後に飛箝の術をもってこれを行う。いにしえのよく背き向いた者は、四海を協(ととの)え諸侯を包み、忤合の地にあってこれを化し転じ、そのうえで合うところを求めた。だから伊尹は五たび湯に就き、五たび桀に就いて、明らかにするところを得ず、しかる後に湯に合った。呂尚は三たび文王に就き、三たび殷に入って、明らかにするところを得ず、しかる後に文王に合った。

これは天命の鉗(はさ)むところを知ったのであって、だから帰するのに疑わなかった。至聖にして奥に達した者でなければ世を御せない。心を労し思いを苦しめなければ事を原(たず)ねられない。心を尽くして情を見なければ名を成せない。材質が恵(さと)くなければ兵を用いられない。忠実であっても真がなければ人を知れない。だから忤合の道は、自分で必ずわが材能と智慧を度り、長短遠近のどこが人に及ばないかを量る。そうしてこそ進むこともでき、退くこともでき、縦(たて)にすることもでき、横にすることもできる。

揣篇 第七すいへん

「揣」は掂(はか)ること。二層に分かれる。「量権」は客観的な国力(土地・人口・財貨・地形・君臣・賓客・天時・外交・民心)を量ること、「揣情」は主観的な心中を量ることである。揣情で最も有名な一手は時機の選び方だ——大いに喜んでいるときに行ってその欲を極まらせ、大いに懼れているときに行ってその憎しみを極まらせる。感情が制御を失えば、実情は隠しきれない。「情、内に変ずる者は、形、外に見(あらわ)る」が全篇の原理である。

いにしえのよく天下を用いた者は、必ず天下の権を量り、諸侯の情を揣った。権を量るのが審らかでなければ、強弱軽重の釣り合いが分からない。情を揣るのが審らかでなければ、隠され変化する動静が分からない。権を量るとは何か。曰く——大小を度り、衆寡を謀り、貨財の有無の数を称(はか)り、人民の多少・豊かさと乏しさ・余りと不足がどれほどかを料る。地形の険易を弁じ、どちらが利でどちらが害か。謀り慮ることは、どちらが長くどちらが短いか。君臣の親疎は、どちらが賢くどちらが不肖か。賓客の知恵は、どちらが少なくどちらが多いか。天の時の禍福を観て、どちらが吉でどちらが凶か。諸侯の交わりは、どちらが用い、どちらが用いないか。

百姓の心が去就して変化するとき、どちらが安くどちらが危ういか。何を好み何を憎むか。心の裏返りを誰が弁じ分けるか。これを知れる者、これを権量という。情を揣る者は、必ず相手が大いに喜んでいるときに行って、その欲を極まらせる。欲があれば、その情を隠せない。必ず相手が大いに懼れているときに行って、その憎しみを極まらせる。憎しみがあれば、その情を隠せない。情と欲は必ずその変わり目に出る。心を動かされてもその変化が見えない相手なら、いったんその人を措(お)いて語らず、代わりに親しい者に問うて、その安んじるところを知る。そもそも情が内に変ずる者は、形が外に見れる。だから常に必ず見えるものによって隠れたものを知る。これを「深きを測り情を探る」という。

だから国事を計る者は、権量を審らかにすべきである。人主に説く者は、揣情を審らかにすべきである。謀り慮ることも情や欲も、必ずここから出る。そうしてこそ貴くもでき賤しくもでき、重くもでき軽くもでき、利することも害することもでき、成すことも敗ることもできる。その数(すじみち)は一つである。だから先王の道や聖智の謀があっても、情を揣って隠されたものを探るのでなければ、求めようがない。これが謀りの大本であり、説く法である。常に人に事を働きかけるが、人はその事に先んじて生じさせることができない。これが最も難しい。だから言う——揣情は最も守り司りがたい、語るときは必ずその謀り慮る時を計れ、と。だから、飛ぶ虫や蠕(うごめ)く虫を観ても、利害のないものはない。そこから事を生じさせて美(よ)くすることができる。事を生じさせるとは、機(おり)の勢いである。この揣情によって言葉を飾り、文章を成して後にこれを論じるのである。

摩篇 第八まへん

「摩」はそっと摩(さす)ること、ひそかに触れて動かすこと。『揣』の下手(したて)の工夫である。揣は「知る」、摩は「動かす」。要諦は「隠」の一字にある——「これを摩するは此に在り、符応は彼に在り」。手はこちらで動かし、反応はあちらに出る。事が成っても人はなぜそうなったか分からない。そこで「天下これを神明に比す」。篇末には平・正・喜・怒・名・行・廉・信・利・卑の十の摩し方が並び、相手の性情に応じて選ぶ。

摩は揣の術である。内なる符(しるし)は揣の主である。これを用いるには道があり、その道は必ず隠れている。その欲するところで微かにこれを摩(さす)り、測って探れば、符に因って必ず応じる。応じたなら、必ずそのために為すことがある。そこで微かにこれを去る。これを「窌(あなぐら)を塞ぎ端を匿(かく)す」という。貌を隠し情を逃れて人に知られない。だから事を成しても患いがない。摩するのはこちらにあり、符の応じるのはあちらにある。それに従って応じれば、事にできないことはない。いにしえのよく摩した者は、鉤を操って深淵に臨むようなものだ。餌をつけて投げれば、必ず魚が得られる。だから言う——事を主(つかさど)って日々に成るのに、人はそれを知らない。兵を主って日々に勝つのに、人はそれを畏れない、と。

聖人は陰でこれを謀る、だから「神」という。陽でこれを成す、だから「明」という。いわゆる「事を主って日々に成る」とは、徳を積むことである。民を用いて安んじさせ、なぜ利があるのか分からせない。これが善を積むことである。そして民はこれに従いながら、なぜそうなのか分からない。そこで天下はこれを神明に比する。「兵を主って日々に勝つ」とは、常に争わず費やさないところで戦い、民はなぜ服するのか、なぜ畏れるのか分からない。そこで天下はこれを神明に比する。その摩し方には、平によるものがあり、正によるものがある。喜によるものがあり、怒によるものがある。名によるものがあり、行によるものがある。廉によるものがあり、信によるものがある。利によるものがあり、卑(へりくだり)によるものがある。平とは静かなこと、正とは宜しきことである。

喜とは悦ばせること、怒とは動かすことである。名とは発(た)たせること、行とは成し遂げさせることである。廉とは潔いこと、信とは期(ちぎ)ることである。利とは求めさせること、卑とは諂(へつら)うことである。だから聖人が独り用いるものを、衆人もみな持っているのに、成功しないのは、その用い方が誤っているからだ。だから謀りは周密より難しいものはなく、説くことは残らず聴いてもらうより難しいものはなく、事は必ず成すより難しいものはない。この三つは、聖人にしてはじめて任じられる。だから謀りは必ず周密であろうとし、必ず相手のうち通じ合える者を択(えら)んで説く。だから言う——あるいは結ばれて隙がない、と。そもそも事が成るのは必ず数(すじみち)に合うからである。だから言う——道と数は時と相い偶(つ)れ添うものだ、と。

説く者が必ず聴かれるのは情に合うからである。だから言う——情の合う者が聴かれる、と。だから物は類に帰する。薪を抱えて火に近づければ、乾いたものが先に燃える。平らな地に水を注げば、湿ったところが先に濡れる。これが物の類が勢いに応じるということで、たとえばこのようなものだ。内なる符が応じ、外から摩するのもこのようである。だから言う——その類をもって摩しても応じないことがある。そこでその欲をもって摩しても聴かないことがある。だからこれを「独り行く道」という、と。そもそも機(おり)を掴む者は、遅れて成ることがなく、長く拘(こだわ)らずして化し成る。

権篇 第九けんへん

「権」は言葉の軽重を掂(はか)ること。本篇はもっぱら話し方を説く。まず佞・諛・平・戚・静という五つの病んだ言い回しを突き、次に「口は機関なり」——口は心意を開閉する仕掛けであり、耳目はその助手だと言う。最も実用的なのは末尾の対照表だ。智者と語るには博きに依り、拙き者と語るには弁に依り……愚者と語るには鋭に依る。そして「人は常にこれに反す」——人はとかく逆をやる。

説くとは、説き明かすことである。説き明かすとは、相手に資(たす)けを与えることである。言葉を飾るとは、仮(か)りることである。仮りるとは、益し損なうことである。応対とは、鋭い辞である。鋭い辞とは、軽い論である。義を成すとは、明らかにすることである。明らかにするとは、符(しるし)で験(ため)すことである。言葉には反覆があり、互いに却(しりぞ)け合おうとする。言いにくいのは、却ける論だからである。却ける論とは、機(おり)を釣ることである。佞(ねい)の言は、諂いながら忠を装う。諛(ゆ)の言は、博きを装いながら智を装う。平の言は、決断を装いながら勇を装う。戚(せき)の言は、権(はか)りながら信を装う。静の言は、反しながら勝ちを装う。相手の意に先回りして欲を成すのが諂いである。しきりに称え文(かざ)る辞が博(ひけらかし)である。

縦(ゆる)めたり舎(お)いたりが宜しくないのが決である。策を選んで謀を進めるのが権である。他人の分の足りないところを突いて非を塞ぐのが反である。だから口は機関であって、情意を開閉するためのものである。耳と目は心の佐(たす)けであって、姦邪を窺い覗くためのものである。だから言う——三つが調(ととの)って応じ、利のある道に従って動く、と。だから言葉が多くとも乱れず、翔(か)け回っても迷わず、変え易えても危うくないのは、要を観て理を得ているからである。だから目のない者に五色を示してはならず、耳のない者に五音を告げてはならない。だから往けない相手には、開くところがない。来られない相手には、受けるところがない。物に通じないところがあれば、聖人はそれを事としない。

古人に言葉がある——口は食うことはできるが、語ることはできない。語るには諱(いみ)や忌みがある。衆人の口は金をも鑠(と)かす。言葉には曲(まが)る理由があるからだ。人の情としては、言葉を出せば聴かれたいと思い、事を挙げれば成したいと思う。だから智者は自分の短所を用いず、愚人の長所を用いる。自分の拙(つたな)いところを用いず、愚人の巧みなところを用いる。だから困らない。相手に利のあることを言うのは、その長所に従うためである。害のあることを言うのは、その短所を避けさせるためである。だから甲殻の虫が身を守るのは必ず堅く厚い殻によるし、刺す虫が動くのは必ず毒の針による。だから禽獣ですらその長所を用いることを知っている。談じる者もまた、その用いどころを知って用いるのである。

だから言う——辞言に五つある。病、怨(恐)、憂、怒、喜である。病とは、衰えた気に感じて神(こころ)が働かないこと。恐とは、腸(はらわた)が絶えて主(あるじ)がないこと。憂とは、閉じ塞がって泄(も)れないこと。怒とは、妄りに動いて治まらないこと。喜とは、宣(の)べ散らして要(かなめ)がないこと。この五つは、精(くわ)しくなってから用い、利があってから行う。だから智者と語るには博きに依り、博き者と語るには弁に依り、弁ずる者と語るには要に依り、貴き者と語るには勢に依り、富める者と語るには高きに依り、貧しき者と語るには利に依り、賤しき者と語るには謙に依り、勇者と語るには敢に依り、愚者と語るには鋭に依る。これがその術である。ところが人は常にこれと反対をやる。

だから智者と語るときは、これによって明らかにする。智くない者と語るときは、これによって教える。しかしそれは甚だ難しい。だから言葉には類が多く、事には変化が多い。だから終日語っても、その類を失わなければ事は乱れない。終日変わらずにいて、その主(かなめ)を失わなければよい。だから智は妄りでないことを貴ぶ。聴くことは聡(さと)いことを貴び、智は明らかなことを貴び、辞は奇なることを貴ぶ。

謀篇 第十ぼうへん

本篇は謀りの通則を説く。まず「因(よ)る」——謀りは必ずその拠りどころを得よ。相手がもともと抱えている疑い・見解・言い分・勢い・憎しみ・患いに沿って文(あや)をつける。次に三種の人の用い方(仁人には費えを出させ、勇士には危うきに拠らせ、智者には功を立てさせる)と三種の人の弱点(愚者は蔽いやすく、不肖者は懼れさせやすく、貪る者は誘いやすい)。全篇の核心は二句——「陰の道にして陽にこれを取る」(暗いところで手を下し、明るいところで功を収める)と「事は人を制するを貴び、人に制せらるるを貴ばず」。

およそ謀りには道がある。必ずその因(よ)るところを得て、その情を求める。審らかにその情を得たら、そこで三儀を立てる。三儀とは、上・中・下である。この三つを参(まじ)えて立てることで奇(き)が生じる。奇は塞がれるところを知らず、いにしえの従ってきたところに始まる。だから鄭の人が玉を取りに行くとき、指南車を載せていったのは、迷わないためである。そもそも材を度り能を量り情を揣ることもまた、事の指南車である。だから情を同じくして相い親しむのは、ともに成るからである。欲を同じくして相い疎むのは、一方だけが害されるからである。憎しみを同じくして相い親しむのは、ともに害されるからである。憎しみを同じくして相い疎むのは、一方だけが害されるからである。

だから互いに益すれば親しみ、互いに損なえば疎む。その数(すじみち)が働くのであって、これが同異の分かれ目を察する所以である。だから壁はその隙から壊れ、木はその節から毀れる。それがその分かれ目だからだ。だから変化が事を生み、事が謀を生み、謀が計を生み、計が議を生み、議が説を生み、説が進を生み、進が退を生み、進が制を生む。それに因って事を制する。だから百事は一つの道であり、百度は一つの数である。そもそも仁人は財貨を軽んじるから、利で誘えないが、費えを出させることはできる。勇士は難儀を軽んじるから、患いで懼れさせられないが、危ういところに拠らせることはできる。智者は数に達し理に明るいから、誠のないことで欺けないが、道理を示すことができ、功を立てさせることができる。

これが三才(三種の材)である。だから愚者は蔽いやすく、不肖者は懼れさせやすく、貪る者は誘いやすい。これは事に因って裁(さば)くのである。だから強い者となるのは弱いところに積み、直(まっすぐ)な者となるのは曲がったところに積み、余りある者となるのは足りないところに積む。これがその道術の働き方である。だから外は親しく内は疎い相手には、内(うち)に向けて説く。内は親しく外は疎い相手には、外に向けて説く。だからその疑いに因って変えさせ、その見るところに因ってそうだと思わせる。その言い分に因って要(かなめ)を押さえ、その勢いに因って成し遂げる。その憎しみに因って権(はか)り、その患いに因って斥(しりぞ)ける。摩(さす)って恐れさせ、高く持ち上げて動かす。微かに証(あか)しを立て、符(しるし)を合わせて応じさせる。

擁(かか)えて塞ぎ、乱して惑わせる。これを計謀という。計謀の用い方は、公(おおやけ)は私に如かず、私は結ぶに如かない。結び比(なら)んで隙のないものがよい。正は奇に如かない。奇は流れて止まらないからである。だから人主を説く者は、必ずこれと奇を語る。人臣を説く者は、必ずこれと私を語る。その身は内にありながら言葉が外に向かう者は疎まれる。その身は外にありながら言葉が深く入る者は危うい。人が欲しないことを、人に強いてはならない。人が知らないことを、人に教えてはならない。人に好むところがあれば、それを学んで順(したが)う。人に憎むところがあれば、避けて諱(い)む。だから陰の道で行って、陽でこれを取る。

だから去らせようとするならこれに従い、従っておいてこれに乗じる。貌(かおつき)というものは、美しくもなく悪くもないから、そこに至情が託される。知りうる者は用いることができる。知りえない者は、謀る者が用いないところである。だから言う——事は人を制するを貴び、人に制せられるを貴ばない、と。人を制する者は権を握り、人に制せられる者は命を握られる。だから聖人の道は陰であり、愚人の道は陽である。智者は事が易しく、智くない者は事が難しい。これによって観れば、亡びたものを存(なが)らえさせることはできず、危ういものを安らかにすることはできない。それでも、為すことなくして智を貴ぶのである。智は衆人の知りえないところに用いられ、衆人の見えないところに用いられる。

すでに用いて可否を見、事を択んで為すのは、自分のためにするのである。不可を見て、事を択んで為すのは、人のためにするのである。だから先王の道は陰であった。言い伝えにこうある——天地の化(はたら)きは高さと深さにあり、聖人の道の制し方は隠れと匿(かく)れにある。ただ忠信仁義だけではなく、中正であるというだけのことだ、と。道理がこの義に達したなら、ともに語ることができる。これを得られるなら、ともに遠近を誘う穀(やしな)いを語ることができる。

決篇 第十一けつへん

本篇は決断を説く。決断はいつも「疑い」から起こる。人は福に趨き患いを避けるのだから、疑いを決するにはまず真情を誘い出さねばならない。聖人が事を成す仕方は五つ(陽徳・陰賊・信誠・蔽匿・平素)あり、決すべき事は五類ある——危ういが美名を得られるもの、力を費やさず成るもの、苦しいがやむを得ず為すべきもの、患いを去れるもの、福に従えるもの。末句は率直だ——先王でさえ蓍(めどぎ)と亀甲を用いて自ら決心の助けとした。

およそ物事を決するには、必ず疑う者に託する。その福を用いるのを善しとし、患いのあるのを悪(にく)む。害が誘いに至るのである。最後まで惑いがなくて偏(ひとえ)に利があるなら、その利を去れば受け入れない。奇はそこに託される。もし善に利があるのに、それを悪に隠して託すれば、受け入れられない。疎遠を招くからだ。だから、利を失わせる場合があり、害から離れさせる場合がある。これが事の失敗である。聖人が事を成しうる仕方は五つある。陽の徳によるもの、陰の賊(そこな)いによるもの、信誠によるもの、蔽い匿すによるもの、平素によるものである。陽は一言に励み、陰は二言に励む。平素は枢機であって、これによって他の四つを用い、微かにこれを施す。

そこで過去の事に度(はか)り、来たるべき事で験し、平素に参(まじ)えて、可であれば決する。王公大人の事では、危ういが美名のあるものは、可であれば決する。力を費やさずに成りやすいものは、可であれば決する。力を用い勤苦を犯しても、やむを得ず為すべきものは、可であれば決する。患いを去るものは、可であれば決する。福に従うものは、可であれば決する。だから情を決し疑いを定めることが、万事の基(もとい)である。正(せい)によって乱を治め、成敗を決するのは、為しがたいことだ。だから先王は蓍亀(しき)を用いて、自ら決したのである。

符言 第十二ふげん

「符言」とは符験に合う言葉。本篇は前の十一篇と体裁が異なる。九段がそれぞれ「右は主位」「右は主明」……と標目を立てる、君主南面の術の条目であって、『管子』『韓非子』の系統に近い。要点はこうだ——君主は安らかに徐(しず)かに正しく静かであれ(主位)。天下の人の耳目を借りて見聴きせよ(主明)。賞は信、刑は正であれ(主賞)。周密にして漏らすな(主周)。名に循(したが)って実を責めよ(主名)。

安らかに徐かに正しく静かであり、その節(ふし)を被(こうむ)ることは肉に先んじる。よく与えながら静かでなければ、心を虚しくし意を平らかにして、傾き損なわれるのを待つことになる。右は主位。目は明らかなるを貴び、耳は聡(さと)きを貴び、心は智を貴ぶ。天下の目をもって視れば、見えないものがない。天下の耳をもって聴けば、聞こえないものがない。天下の心をもって思い慮れば、知れないものがない。輻(や)が轂(こしき)に湊(あつ)まるように並び進めば、明は塞げない。右は主明。徳の術に曰く——堅く拒んではならない。許せば防ぎ守ることになり、拒めば閉じ塞がることになる。高い山は仰げばその極みまで見え、深い淵は度れば測れる。神明の徳の術は正しく静かであって、誰もその極みを測れない。右は主徳。

賞を用いるには信を貴び、刑を用いるには正を貴ぶ。賞賜には信を貴び、必ず耳目の見聞きしたところで験す。その見聞きしないところでも、暗々のうちに化さないものはない。誠が天下と神明に暢(とお)るのだから、まして姦(よこしま)な者が君を干(おか)せようか。右は主賞。一に曰く天のこと、二に曰く地のこと、三に曰く人のこと。四方上下、左右前後、熒惑(まどわし)の潜むところはどこにあるか。右は主問。心は九竅の治(おさ)めであり、君は五官の長である。善を為す者には君が賞を与え、非を為す者には君が罰を与える。君がその求めるところに因って与えれば、労せずにすむ。聖人はこれを用いる、だから賞することができる。これに因り理に循(したが)う、だから久しく長くいられる。

右は主因。人主は周密でないわけにはいかない。人主が周密でなければ、群臣に乱が生じる。常なきところに家(よ)るからである。内と外が通じなければ、どこを開けばよいか分かろうか。開閉が善くなければ、源(みなもと)が見えない。右は主周。一に曰く長き目、二に曰く飛ぶ耳、三に曰く明を樹(た)てる。千里の外、隠れて微かなところまで明らかに知る。これを天下に洞(とお)るという。姦は暗々のうちに変わらざるをえない。右は主恭。名に循(したが)って為せば、実は安らかにして完(まった)い。名と実は相い生じ、反(かえ)って互いの情となる。だから言う——名が当たるのは実から生じ、実は理から生じ、理は名と実の徳から生じ、徳は和から生じ、和は当(あた)ることから生じる、と。右は主名。

『転丸』『胠乱(胠篋)』の二篇はいずれも亡んでいる。

鬼谷子 巻中

鬼谷子 巻下かんげ

巻下は筋道が変わる。『本経陰符七術』が説くのは「内功」——神を養い、志を養い、意を実たし、威を分かち、勢を散じ、円を転じ、損兌する。七篇はそれぞれ一種の動物を法象に取り、これまでの権謀の術を精神の修養にまで遡らせる。『持枢』『中経』は二篇の残簡で、前者は四時の生長収蔵を君主の道になぞらえ、後者は「中心に義を守る」ことと七つの具体的な手口を説く。柳宗元が最も不満としたあの「七術」が、まさにこの巻である。

本経陰符七術ほんきょういんぷしちじゅつ

「本経」は根本の経、「陰符」は暗に合うという意を取る。七篇は『鬼谷子』の内なる養いの工夫であって、それぞれ一種の動物を配する。五竜(盛神)、霊亀(養志)、螣蛇(実意)、伏熊(分威)、鷙鳥(散勢)、猛獣(転円)、霊蓍(損兌)。前の三篇は内を守ること——神・志・意を説き、後の四篇は外に用いること——威・勢・計・決を説く。全書の権謀は、ここに至って一人の人間の精気神へと遡られる。

神を養うことを説く。神は五気を統べ、心はその居所であり、徳はその広がりである。五竜に法るのは、潜むこともでき飛ぶこともでき、変化が測りがたいからだ。内に修めて知る者を聖人といい、生まれながら天に受けた者を真人という。

神を盛んにするには五竜に法る。神を盛んにするとは、内に五気があり、神がその長となり、心がその舎(やど)りとなり、徳がその大いなる広がりとなることである。神を養うところは道に帰する。道とは天地の始まりであって、一つがその紀(すじ)である。物が造られるところ、天が生じるところ、形なきものを包み込んで広く、気に化して天地より先に成り、その形は誰も見ず、その名は誰も知らない。これを神霊という。だから道は神明の源であり、一つがその化(はたら)きの端である。だから徳によって五気を養い、心が一を得れば、そこに術がある。術とは心気の道である。その舎るところによって、神がその使いとなる。九竅と十二舎は気の門戸であり、心が総べ摂(おさ)めるところである。

生まれながら天に受けた者を真人という。真人は天と一つである。内に修め練って知る者を聖人という。聖人は類によって知る。だから人は生と一つであって、物の化から出る。類を知るのは竅(あな)にあり、疑い惑うところがあれば心の術に通じる。心にその術がなければ、必ず通じないところがある。それが通じれば、五気は養われる。務めは神を舎らせることにある。これを化という。化に五気があるのは、志であり、思いであり、神であり、徳である。神はその一(いつ)なる長である。静かに和する者は気を養い、気はその和を得る。この四つが衰えなければ、四方の威勢で存し舎らせられないものはない。これを神化といい、身に帰するのを真人という。

真人とは、天と同じくして道に合い、一を執って万類を養い産み、天の心を懐き、徳を施して養い、為すことなくして志・慮・思・意を包み、そのうえで威勢を行う者である。士はこれに通達する。神が盛んであってこそ、志を養うことができる。

志を養うことを説く。志は欲から来るが、欲が多ければ心は散り、志は衰え、思いの筋道が通らなくなる。だから志を養う出発点は「己を安んずる」ことにある。霊亀に法るのは、斂(おさ)め蔵して久しく保てるからだ。

志を養うには霊亀に法る。志を養うとは、心気の思いが達しないときのことである。欲する志があれば、それを存して思う。志とは欲の使いである。欲が多ければ心は散り、心が散れば志は衰え、志が衰えれば思いは達しない。だから心気が一つであれば欲は彷徨(さまよ)わず、欲が彷徨わなければ志意は衰えず、志意が衰えなければ思いの理は達する。理が達すれば和して通じ、和して通じれば乱れた気が胸中に煩わなくなる。だから内には志を養い、外には人を知る。志を養えば心が通じ、人を知れば職分が明らかになる。これを人に用いようとするなら、必ずまずその気と志の養われ方を知り、人の気の盛衰を知って、その気と志を養い、その安んじるところを察して、その能を知る。

志が養われなければ心気は固まらない。心気が固まらなければ思慮は達しない。思慮が達しなければ志意は実たない。志意が実たなければ応対は猛(すばや)くない。応対が猛くなければ志を失って心気が虚しくなる。志を失って心気が虚しくなれば、その神を喪(うしな)う。神を喪えばぼんやりとし、ぼんやりとすれば参(まじ)わり会うものが一つにならない。志を養う初めは、己を安んじることに務める。己が安らげば志意は実たち堅くなり、志意が実たち堅ければ威勢は分かれず、神明が常に固く守って、そこではじめて人の威勢を分かつことができる。

意を実たすことを説く。意が充実するのは、心が安らかに静かで、慮りが深く遠いことによる。篇末の「戸を出でずして天下を知る」以下は『老子』をそのまま踏まえており、全書で最も道家の工夫論に近い一段である。螣蛇に法るのは、霧に乗って遊び、虚でありながら実たりうるからだ。

意を実たすには螣蛇に法る。意を実たすとは、気の慮りである。心は安静であろうとし、慮りは深遠であろうとする。心が安静であれば神の策が生じ、慮りが深遠であれば計謀が成る。神の策が生じれば志は乱されず、計謀が成れば功は間(すき)を入れられない。意と慮りが定まれば心はついに安らぎ、行うところは誤らず、神はおのずと得られ、得られれば凝る。気が寄る所を識れば、姦邪がそこに倚(よ)りかかり、詐りの謀がこれを惑わせて、言葉が心から出なくなる。だから心の術を信じ、真なる一を守って化(うつ)らず、人の意と慮りが交わり会うのを待つ。それが聴くべき候(しお)である。計謀は存亡の枢機であって、慮りが会わなければ聴くところも審らかでない。候を得られなければ計謀は失われ、意は信ずるところがなく、虚しくして実がない。

だから計謀の慮りは、意を実たすことに務める。意を実たすには必ず心の術から始める。為すことなくして五臓を安静にし、六腑を和し通わせ、精神魂魄を固く守って動かさない。そうしてこそ内に視、反(かえ)って聴き、志を定められる。太虚のうちに慮りをめぐらせ、神の往来を待つ。そうして天地の開闢を観、万物の造り化されるところを知り、陰陽の終始を見、人事の政理を原(たず)ね、戸を出ずして天下を知り、窓を覗かずして天の道を見、見ずして名づけ、行かずして至る。これを「道知」といい、それによって神明に通じ、無方に応じて、神がそこに宿る。

威を分かつことを説く。威は神が覆うところから来る。意を静め志を固めれば、神はその居所に戻り、威は盛んになる。威が盛んなら内が実たり、内が実たれば誰も当たれない。そこで人の威勢を分かち取ることができる。伏熊に法るのは、力を蓄えて伏せ、しかる後に発するからだ。

威を分かつには伏熊に法る。威を分かつとは神の覆いである。だから意を静め志を固めれば、神はその舎りに帰り、威の覆いは盛んになる。威の覆いが盛んなら内は実たち堅く、内が実たち堅ければ誰も当たれない。誰も当たれなければ人の威を分かち取ることができ、その勢いを動かすこと天のごとくである。実をもって虚を取り、有をもって無を取るのは、鎰(いつ)をもって銖(しゅ)を量るようなものだ。だから動けば必ず随い、唱えれば必ず和す。その一指を撓(たわ)めて、残りの次第を観る。動きと変化に形が見えれば、間(すき)を入れられる者はいない。唱和を審らかにし、間によって間を見れば、動きと変化が明らかになって威を分かつことができる。動き変じようとするなら、必ずまず志を養い意を伏せて、間を視る。その固く実たるところを知るのは自らを養うことであり、己を譲るのは人を養うことである。だから神が存すれば兵は亡(な)くてすむ。そこで形勢を為すのである。

勢を散じることを説く。「勢」は放ちうる力であって、相手の間隙に循(したが)って動かねばならない。間隙がなければ待つ——「間を待ちて動き、動きて勢分かる」。鷙鳥に法るのは、旋回して機を伺い、一撃で中(あ)てるからだ。

勢を散じるには鷙鳥に法る。勢を散じるとは神の使いである。これを用いるには必ず間(すき)に循って動く。威が粛(おごそ)かで内に盛んであれば、間を推して行い、そこで勢が散じる。そもそも勢を散じられる者は、心が虚しく志が溢れている。意が衰え威が失われれば、精神は専らでなくなり、その言葉は外に向かって変化が多い。だからその志意を観て度数とし、そのうえで揣り説いて事を図り、円と方を尽くし、短と長を斉(ととの)える。間がなければ勢を散じられない。間を待って動き、動いて勢が分かれる。だからよく間を思う者は、必ず内に五気を精しくし、外に虚実を視て、動いても分散の実(じつ)を失わない。動けばその志意に随い、その計謀を知る。勢とは利害を決するものであり、権変の威である。勢が敗れるのは、神をもって粛かに察していないからである。

円を転じることを説く。計謀は円い球のように転じて窮まりなく、事の類によって円にも方にも、陰にも陽にもなる。「円は語を合わせる所以、方は事を錯(お)く所以」——円は周旋して談じるために、方は実際に事を落とし込むために用いる。猛獣に法るのは、縦横に馳せ突いて定まった形がないからだ。

円を転じるには猛獣に法る。円を転じるとは窮まりなき計である。窮まりなきものには、必ず聖人の心があって、測りがたい智を原(たず)ね、心の術に通じる。そして神の道は混沌として一つとなり、それによって万(よろず)の義と類を論じ、義を説いて窮まりがない。智略と計謀にはそれぞれ形と容(すがた)があり、あるいは円、あるいは方、あるいは陰、あるいは陽、あるいは吉、あるいは凶、事の類は同じでない。だから聖人はこれを懐いて用い、円を転じてその合うところを求める。だから造化を興す者は、動き出すはじめに、大道を包まないものがなく、それによって神明の域を観る。天地は極まりなく、人事は窮まりない。それぞれその類を成し、その計謀を見て、必ずその吉凶成敗の終わるところを知る。

円を転じるには、転じて吉となることもあり、転じて凶となることもある。聖人は道によってあらかじめ存亡を知り、そこで円を転じて方に従うことを知る。円は語を合わせるためのものであり、方は事を錯(お)くためのものである。転じ化するのは計謀を観るためであり、物に接するのは進退の意を観るためである。みなその会うところを見て、そこで要(かなめ)を結び、その説に接するのである。

損兌を説く。「兌」は「鋭」に通じ、察知すること。「損」は減らすこと、行うことである。合わせて言えば、機(おり)が危うく動こうとするところで決断を下すことだ。霊蓍に法るのは、筮(ぼく)して幾(きざし)を知るからだ。末句の「水を千仞の堤に決し、円石を万仞の谿に転ず」は、『孫子』勢篇と同じ気象である。

損兌には霊蓍に法る。損兌とは機危の決である。事にはたまたまそうなることがあり、物には成ると敗れるとがある。機危の動きは察しないわけにはいかない。だから聖人は為すことなくして徳ある者を待ち、言葉を察し辞を察して、事に合わせる。兌とは知ることであり、損とは行うことである。これを損じ、これを説いて、物に不可なるところがあれば、聖人はそのために辞を設けない。だから智者は言葉によって人の言葉を失わせない。だから辞は煩わしくなく、心は虚しくなく、志は乱れず、意は邪にならない。その難易に当たって、しかる後にそのために謀り、自然の道に因ってこれを実(じつ)とする。円いものは行かず、方なるものは止まらない。これを大功という。益すも損なうも、みなそのために辞を設ける。

威を分かち勢を散じる権を用いて、その兌威を見、その機危においてこれを決する。だからよく損兌する者は、たとえば千仞の堤に水を決し、万仞の谿に円い石を転がすようなものだ。これを行える者は、形勢がそうならざるをえないからである。

持枢じすう

「枢」は扉の軸、要のこと。本篇はごく短い一段しか残っていない。春に生じ夏に長じ秋に収め冬に蔵するのを人君の生養成蔵になぞらえ、順えば昌え、逆らえば衰えると説く。注者自身が「あまりに簡略で惜しい」と言っており、簡冊が欠け落ちたものかと疑われる。

持枢とは、春に生じ夏に長じ、秋に収め冬に蔵するのが天の正(せい)であって、干(おか)して逆らってはならないということである。これに逆らう者は、たとえ成っても必ず敗れる。だから人君にもまた天の枢がある。生み、養い、成し、蔵する。これもまた干して逆らってはならない。これに逆らう者は、たとえ盛んでも必ず衰える。これが天の道であり、人君の大綱である。

中経ちゅうけい

「中経」は中(うち)を守る経であって、自分が中心にあって失わないという前提のもとで人と関わることを説く。困窮を救い、よく語る士を成し遂げさせる。後半には七つの具体的な手口が並ぶ——形を見て容を為す、体に象って貌を為す、声を聞いて音を知る、仇を解き郤(すき)を闘わせる、綴去、却語、摂心守義。全書で最も実務細則に近く、権術の冷たさが最もよく出た一段でもある。それでいて末句は「賢智にあらざれば家を義をもって守れず、国を道をもって守れず」に帰する。

中経とは、窮したものを振るい急ぐものに趨(はし)ることであって、よく語り徳の厚い人に施すものである。物にとらわれ窮に執する者は、恩を忘れない。よく語る者は善を仲間とし恵みを博(ひろ)くする。徳を人に施す者は道に依る。そして拘え執われた者を救うのは、小人を養い使うことである。思うに士は世に遭い時を異にして、危ういときには落とし穴を埋めて免れることもあり、よく語る者を伐(う)って害すべきときもあり、徳を破って雄となるべきときもあり、抑え拘えて罪を成すべきときもあり、戚々として自ら善くすべきときもあり、敗れに敗れて自ら立つべきときもある。だから道は人を制するを貴び、人に制せられるを貴ばない。人を制する者は権を握り、人に制せられる者は命を失う。そこで、形を見て容を為し、体に象って貌を為し、声を聞いて音を知り、仇を解き郤を闘わせ、綴去し却語し、心を摂(おさ)めて義を守るのである。

『本経』が事を紀(しる)すのは道と数を紀すのであって、その変化の要は『持枢』『中経』にある。「形を見て容を為し、体に象って貌を為す」とは、爻(こう)がそれを生じるというようなことである。影と響きのように、形容や象貌によってこれを得られる。しかし守りのある人は、目は非を視ず、耳は邪を聴かず、言葉は必ず『詩』『書』により、行いは僻(かたよ)り淫(みだ)れない。道をもって形とし、徳をもって容とし、貌は荘(おごそ)かで色は温かい。象貌によって得ることはできない。こういう相手なら、情を隠し隙を塞いで去るがよい。「声を聞いて音を知る」とは、声と気が同じでなければ恩愛が接しないということである。だから商と角は二つながら合わず、徴と羽は相い配さない。四声の主となれるのは、ただ宮だけであろう。

だから音が和さなければ悲しい。そこで声が散り、傷み、醜く、害するものは、言葉が必ず耳に逆らう。たとえ美しい行いや盛んな誉れがあっても、比目の魚や比翼の鳥のように互いを須(ま)ち合うことはできない。これは気が合わず、音が調わないからである。「仇を執(と)り郤を闘わせる」とは、弱ったものの仇を解くことである。「郤を闘わせる」とは、強いものを闘わせることだ。強い者どうしが隙をめぐって闘えば、勝った側にはその功を称え勢いを盛んにしてやる。弱い側にはその負けを哀れみ、その傷を痛み、その名を汚し、その一族を恥じさせる。だから勝った側は自分の功と勢いを聞かされて、ひたすら進んで退くことを知らなくなる。弱い側は負けを哀れまれ傷を見られて、強大な力が倍になる。死ぬ者が出るのはこれである。隙に強大なものがなく、防ぐ側にも強大なものがなければ、みな脅して併(あわ)せることができる。

「綴去」とは、自分との繋がりを綴じておく、つまり言葉によって余韻を残させることである。だから貞信な者に接するときは、その行いを称え、その志を励まし、為しうること・繰り返しうることを語り、喜びの期(とき)に会わせる。他人の例を引き、証(あかし)を引いて過去を結び、懇ろに明らかにして去る。「却語」とは、短所を察し伺うことである。だから言葉が多ければ必ずいくつか短所が出る。その短所を識ってこれを験し、忌諱に触れて動かし、時の禁令を示す。その人が恐れ畏れたところで、信を結んでその心を安んじ、語を収め蓋(おお)い蔵して却ける。多方の人に自分のできないところを見せてはならない。「摂心」とは、学問や技術を好む者に逢ったら、そのために遠くまで評判を立ててやることである。そのうえでこれを験し、奇怪なことで驚かせれば、人はその心を自分に繋ぐ。

験(しるし)によって効(あか)しを立て、験してその前の乱れを去り、自分は誠を己に帰する。淫らな色や酒に溺れる者に遭ったら、そのために音楽の術を為し、必ず死ぬこと・生きる日が少なくなる憂いをもって動かす。自分の見たことのない事で喜ばせ、最後には漫瀾(まんらん)たる命を観させて、後の会う機会を残す。「義を守る」とは、人を探ってその内にあるものを合わせることである。心を探るとは、深くその主(あるじ)を得ることだ。外から内を制し、事は繋がり曲がるに随う。だから小人が人と比(むす)べば、左道(邪道)をもってこれを用い、ついには家を敗り国を奪うに至る。賢智でなければ、家を義をもって守れず、国を道をもって守れない。聖人が道の微妙なるを貴ぶのは、まことにそれによって危うきを転じて安らかとなし、亡びかけたものを救って存(なが)らえさせられるからである。

鬼谷子篇目考へんもくこう

この巻は秦恩復が輯めた「著録の歴史」である。歴代の目録書が『鬼谷子』をどう記載し、歴代の学者がこれをどう評したか。『隋志』にはじめて著録されてから、『唐志』が蘇秦に帰し、晁公武・陳振孫・高似孫・銭曾が按語を加えるまで。一本の筋は巻数と注者の揺れであり、もう一本の筋は道徳的評価の両極である——柳宗元と来鵠は妄書と斥け、高似孫と劉涇は「一代の雄」と推した。

『隋書・経籍志』縦横家——「『鬼谷子』三巻。『鬼谷子』三巻」。

『旧唐書・経籍志』——「『鬼谷子』二巻。また三巻。また三巻」。

『新唐書・芸文志』——「『鬼谷子』二巻。楽壱注『鬼谷子』三巻。尹知章注『鬼谷子』三巻」。

柳宗元『鬼谷子弁』に言う——元冀は古書を読むのを好むが、とりわけ『鬼谷子』を賢(よ)しとして、その『指要』数千言を著した。『鬼谷子』は要するに取るに足りない。漢の時、劉向・班固の録した書に『鬼谷子』はない。『鬼谷子』は後から出たもので、険しく偏り峭(けわ)しく薄い。その妄言が世を乱すことを恐れる。信じがたく、学ぶ者は語らないのがよい。ところが世に縦横を言う者は、ときにこの書を大切にしている。ひどいことに、晩(おそ)くなってさらに『七術』が出た。怪しく謬(あやま)って甚だ異様で、考え校べようもない。その言葉はいよいよ奇であり、その道はいよいよ狭い。人を狂わせ守るところを失わせて、たやすく陥り墜ちさせる。幸いにもこれを大切にする者は少ない。いま元子はまた『指要』でこれを文(かざ)っている。ああ、術を好むにもほどがあろう。

『中興書目』——「『鬼谷子』三巻。周の時の高士で、郷里も族姓も名字も分からない。その隠れた地によって自ら鬼谷先生と号した。蘇秦・張儀がこれに師事し、『捭闔』から『符言』まで十二篇、および『転円』『本経』『持枢』『中経』などの篇を授けられた。これもまた儀と秦に告げたものである。一本は始めから終わりまですべて東晋の陶弘景注。一本は『捭闔』『反応』『内揵』『抵巇』の四篇が誰の訓釈か分からず、中・下の二巻は弘景の注と同じである」。

『宋史・芸文志』——「『鬼谷子』三巻」。

晁公武『読書志』——「『鬼谷子』三巻、鬼谷先生撰。按ずるに『史記』に、戦国の時、潁川陽城の鬼谷に隠居し、それによって自ら号したとある。性を養い身を治めるのに長け、蘇秦・張儀がこれに師事して縦横の事を受けた。序に、この書はすなわち秦と儀に授けたものだという。『捭闔』の術十三章、『本経』『持枢』『中経』の三篇、梁の陶弘景注。柳子厚はかつてこう言った——劉向・班固の録した書に『鬼谷子』はない。『鬼谷子』は後から出たもので、険しく偏り峭しく薄い。その言葉が妄りに世を乱すことを恐れる。信じがたい。

ひどいことに晩くなってさらに『七術』が出た。怪しく謬って甚だ異様で、言葉はいよいよ狭く、人を狂わせ守るところを失わせる、と。来鵠もまた言った——鬼谷子は昔、人に詭(いつわ)り紿(あざむ)き繳(から)め訐(あば)く、揣り測り険(けわ)しく猾(ずる)い術を教え、ことごとく章に備えた。これを学んだのは儀と秦だけである。『捭闔』『飛箝』のごときは、実は今日の常態だ、と。ここから知られる。世が薄れた後には、『鬼谷子書』を読まない者でも、その行いがみなおのずと符節を合わせたようになる。昔、蒼頡が文字を作ったとき鬼が哭いた。鬼谷がこの書を作ったとき、鬼は何をしたのだろうか。世人で『鬼谷子』を知ろうとする者は、この二人の言葉を見ればあらまし尽きる。だからその大要を掇(ひろ)って篇に著した」。

鄭樵『通志・芸文略』——「『鬼谷子』三巻。また三巻。また三巻。また三巻」。

馬端臨『文献通考・経籍志』——「『鬼谷子』三巻」。

王応麟『玉海』が『史記正義』を引く——「鬼谷は谷の名で、雒州陽城県の北五里にある。『七録』に『蘇秦書』がある。楽壱の注に『秦はその道を神秘にしようとして、鬼谷に名を仮託した』という。『鬼谷子』三巻、楽壱注。楽壱、字は正、魯郡の人。『陰符七術』があり、『揣』および『摩』の二篇がある。『戦国策』に『太公の陰符の謀を得て、伏してこれを誦し、簡練して揣摩を為す。一年にして揣摩成る』という。按ずるに、『鬼谷子』が『蘇秦書』であることは明らかだ」。

王応麟『漢書芸文志考証』——「縦横『蘇子』三十二篇」。○『鬼谷子』三巻、楽壱の注に「蘇秦はその道を神秘にしようとして、鬼谷に名を仮託した」という。『史記正義』——「『戦国策』に、そこで書を発き篋(はこ)を陳(つら)ねること数十、太公の陰符の謀を得て、伏してこれを誦し、簡練して揣摩を為した、とある。『鬼谷子』に『陰符七術』があり、『揣』および『摩』の二篇があるのだから、『蘇秦書』であることは明らかだ」。東萊の呂氏が言う——「戦国の遊説の風は、蘇秦・張儀・公孫衍が実に唱えた。

秦は周の人である。儀と衍はいずれも魏の人である。だから権変と弁智の士を言えば、必ず三晋・両周と言うのだ」。石林の葉氏が言う——「蘇秦の学は揣摩から出たもので、卓然として天下に志があったわけではない。反覆して常なく、一つの道を守らず、隙があって入れそうなところを度(はか)っては、そこへ行った。これが揣摩の術である。だからはじめ周に説こうとして周の顕王が用いず、去って秦へ行った。再び秦に説こうとして秦の孝公が用いず、去って燕へ行った。たまたま燕の文侯と合って、合従の説が行われた。彼が周に説こうとした内容は、私には分からない。もし秦の孝公が聴き入れていたら、必ずまず連衡の説を為して六国を噬(か)んだだろう。周などどうでもよかったはずだ。

これが蘇秦が死を取った所以である」。劉涇が言う——「老子の翕(おさ)め張り、儒の闔(とじ)め闢(ひら)きは、鬼谷と環のように往き来する。『鬼』は幽(かす)かでありながら顕れるもの、『谷』は叩けば応じるものだ。幽を蔵し顕を露(あら)わし、一たび叩けば一たび応じる。まことにその名の通りである」。

高似孫『子略』に言う——戦国の事は危うかった。士には俊異豪偉の気を挟んで用いられようと騁(は)せる者があり、その応対酬酢、変詐激昂して文章に自らを放つさま、頓挫・険怪・離合・揣摩に見えるその辞もまた極まっていた。『鬼谷子書』は、その智謀、その数術、その変譎、その辞談、思うに戦国の諸人の表(おもて)から出たものである。そもそも一たび闢き一たび闔じるのは『易』の神であり、一たび翕め一たび張るのは老子の機(はたらき)である。鬼谷の術は、しばしば闔闢翕張の外に得るところがあり、これを神にし明らかにして、ついには自ら放ち潰え裂けて禦(ふせ)ぎようがないところまで至る。

私はかつて『陰符』を観たが、天の用を窮め、人の私を賊(そこな)い、しかも陰謀は詭(あや)しく秘められて、『金匱』『六韜』『三略』にも該(そな)わらないものがある。『鬼谷』はそれをことごとく得て泄(も)らした。これもまた一代の雄というべきか。按ずるに、劉向・班固の録した書に『鬼谷子』はない。『隋志』にはじめてこれがあり、縦横家に列する。『唐志』は蘇秦の書とする。しかし蘇秦の記すところでは、周の時に豪士の隠者があって鬼谷に居り、自ら鬼谷先生と号したが、郷里も族姓も名字もないという。いまその言葉を考えると、こうある——「世に常に貴きものなく、事に常の師なし」。

またこうある——「人動けば我静かに、人言えば我聴く。性を知れば累い寡なく、命を知れば憂えず」。おおよそこの類は、その辞もまた卓然としている。『盛神』『養志』の諸篇に至っては、いわゆる中ごろに道徳の祖を稽(かんが)え、散じて神明の賾(ふか)きに入るものというべく、それに近いのではないか。郭璞の『登楼賦』にこうある——「首陽の二老に揖(ゆう)し、鬼谷の隠士を招く」。また『遊仙詩』にこうある——「青溪千余仞、中に一道士あり。借問す、此れ誰ぞと。云う、是れ鬼谷子なりと」。その人を慨(なげ)き想ったというべきである。徐広は「潁川陽城に鬼谷がある」と言う。その書に注した者は、楽壱・皇甫謐・陶弘景・尹知章である。

陳振孫『書録解題』——「『鬼谷子』三巻。戦国の時、蘇秦・張儀が師事した者を鬼谷先生と号した。その地は潁川陽城にあり、名氏は世に伝わらない。この書は『漢志』にもなく、『隋』『唐志』はただちに蘇秦の撰とするが、考えようがない。『隋志』に皇甫謐・楽壱の二家の注があるが、今本は陶弘景注と称する」。また言う——「按ずるに『唐書・芸文志』は二巻に作る」。

銭曾『読書敏求記』——「陶弘景注『鬼谷子』三巻。鬼谷子は郷里も族姓も名字もない。戦国の時、潁川陽城の鬼谷に隠居したので、それを号とした。その『転丸』『胠篋』の二篇は今は亡んでいる。貞白は『あるいは、すなわち『本経』『中経』がそれだという』と言う」。

鬼谷子附録ふろく

この巻に輯められているのは、他書に散見する『鬼谷子』の佚文(『説苑』、『史記』三家注、『太平御覧』『意林』の引くもの)と、鬼谷先生その人にまつわる伝説(『史記』『法言』『論衡』から『拾遺記』『金楼子』まで)である。佚文からは今本の欠落が見え、伝説からは「鬼谷子」という像が一歩ずつ神格化されていく過程が見える——隠者から、蘇秦・張儀の師へ、人を泣かせて襟を濡らさせる奇士へ、そして最後には徐福の求仙と結びつく方士へ。

『説苑・善説篇』が『鬼谷子』を引いて言う——人が善くないのをよく矯(た)めうるのは難しい。説いても行われず、語っても従われないのは、その弁じ方が明らかでないからである。すでに明らかであるのに行われないのは、持(たも)ち方が固くないからである。すでに固いのに行われないのは、その心の善しとするところに中(あた)っていないからである。これを弁じて明らかにし、これを持して固くし、そのうえでその人の善しとするところに中れば、その言葉は神(くす)しく珍しく、白く分明で、人の心に入る。これでいて説が行われなかったなど、天下にかつて聞いたことがない。

『史記・太史公自序』に言う——だから「聖人は朽ちず、時の変にして自ら守る。虚は道の常なり、因は君の綱なり」という。『索隠』に言う——これは『鬼谷子』から出たもので、遷がこれを引いてその章を成した。だから「故に曰く」と称したのである。また『漢書・司馬遷伝』は「朽」を「巧」に作り、顔師古は「機巧の心なく、ただ時に順うのである」と言う。

『史記・田世家索隠』が『鬼谷子』を引いて言う——田成子が斉の君を殺し、十二代にして斉国を有(たも)った。

『太平御覧・治道部』が『鬼谷子』を引いて言う——聖君に仕えるには聴き従うことがあって諫争はなく、中君に仕えるには諫争があって諂諛はなく、暴君に仕えるには補い削ることがあって矯め拂(さか)らうことはない。また言う——君が名を得れば、群臣はこれを恃む。

『意林』が『鬼谷子』を引いて言う——人が動けば我は静かに、人が語れば我は聴く。固くすることも去ることも、我にあって問う。性を知れば累いが寡なく、命を知れば憂えない。憂いと累いが去れば心は平らかになり、心が平らかであれば仁義が著(あら)われる。また言う——徳をもって民を養うのは、草木が時を得たようなものだ。仁をもって人を化すのは、天が草木を生じ、雨でこれを潤し沢(うるお)すようなものだ。

『文選』注が『鬼谷子序』を引いて言う——周の時に鬼谷に隠れた豪士があり、自ら鬼谷子と号した。自ら遠ざかるということである。しかし鬼谷という名は、隠者の通称である。

『太平御覧・礼儀部』が『鬼谷子』を引いて言う——周に豪士があり、鬼谷に居て鬼谷神生と号した。蘇秦・張儀が往いてこれに会った。先生は言った——「私は二人のために至道を述べよう。そなたたちは斎戒し、日を択んで学びに来なさい」。後に秦と儀は斎戒して往った。

晁公武『読書志』所引の尹知章の叙——儀と秦が再び往いて会うと、先生はそこで席を正して坐り、顔を厳(おごそ)かにして語り、二人に身を全うする道を告げた。

『史記・蘇秦列伝索隠』に言う——楽壱は『鬼谷子書』に注して「蘇秦はその道を神秘にしようとして、鬼谷に名を仮託した」と言う。

『史記・蘇秦列伝』——「蘇秦は東のかた斉で師に仕え、鬼谷先生のもとでこれを習った」。徐広は言う——「潁川陽城に鬼谷がある。思うにその人の居たところで、それによって号としたのだ」。裴駰は按ずる——「『風俗通義』に『鬼谷先生は六国の時の縦横家なり』とある」。『索隠』に言う——「鬼谷は地名である。扶風の池陽と潁川の陽城のいずれにも鬼谷の墟がある。思うにその人の居たところで、それによって号としたのだ」。○『集解』——「『鬼谷子』に『揣摩篇』がある」。王劭は言う——「『揣情』『摩意』は『鬼谷』の二章の名であって、一篇ではない」。

『法言』に言う——蘇秦は鬼谷の術を学んだ。

『論衡・答佞篇』——蘇秦・張儀は縦横を鬼谷先生のもとで習った。地を掘って坑を作り、こう言った——「下って説いて私を泣かせたなら、人君の地を分けるに堪えよう」。蘇秦が下って説くと、鬼谷先生は涙を垂れて襟を濡らした。また『明雩篇』——蘇秦・張儀が坑の中で悲しく説き、鬼谷先生は涙を垂れて襟を濡らした。

王嘉『拾遺記』に言う——張儀と蘇秦の二人は、代わる代わる髪を切って生計の足しにし、あるいは雇われて書を写した。道すがら聖人の文に出会っても書き留めるものがなければ、墨で掌や股の内側に書き、夜に帰ってから竹を折ってそれを写した。二人は道すがら食を乞い、樹の皮を剥いで袋にし、天下の良書を入れた。大樹の下で息(やす)むたび、仮寝して眠った。ある先生が問うた——「そなたたち二人は、どうしてそのように勤め苦しむのか」。儀と秦がともに言葉を交わして問うた——「あなたは何者ですか」。答えて言う——「私は山谷に死生する者だ。世の人は私を帰谷子と呼んでいる」。

秦と儀は後に遊学して、再び帰谷子に逢い、その学術を請うた。そこで世に干(もと)め俗を出る弁を教え、懐中から韋(なめしがわ)綴じの三巻の書を探り出した。時を輔(たす)ける事を語ったもので、だから儀と秦はこれを学んで生涯の資とした。『古史考』に言う——「儀と秦は術を鬼谷先生に受けた。『帰』の音が『鬼』と紛れたからである」。

『金楼子』に言う——秦の始皇は鬼谷先生の言を聞き、そこで徐福を遣わして海に入り、金の菜と玉の蔬(あおもの)を求めさせた。

鬼谷子跋ばつ

三篇の跋はそれぞれ三つの立場を代表する。周広業は唐の諱を避けていることと筆法からこの注が実は唐の尹知章の作だと断じ、書名の改題を主張する。盧文弨は道徳の上からこの書を「小人の書」と痛罵しながら、なお毀(こわ)してはならないと主張する——姦邪の手口を残らず開陳しているから、君主にとって妖(あやかし)を映す鏡になるというのだ。阮元は音韻訓詁から入って、この書が後人の偽託でないことを証し、縦横家にはただこの一子書しか残っていないのだから、精しく校して世に伝えるべきだと強調する。

周広業 跋しゅう こうぎょう

要点——この注は陶弘景の作ではなく、唐の尹知章の作である。証拠は五つ。一、巻首に「東晋貞白先生」と題すること自体が誤り(陶は梁の人)。二、『隋』『唐志』の挙げる注家に陶がない。三、注文が唐の諱を避けている(民→人、世→代、治→理)。四、筆法が尹知章『管子注』に酷似する。五、注に『転丸』はすでに亡んだというが、陶と同時代の劉勰『文心雕龍』はなお「『転丸』はその巧辞を騁(は)す」と明言しており、梁の頃には原文がまだあったと分かる。なぜ尹が陶に訛ったかについては、『持枢』の注中の「元亮曰く」が陶淵明と誤認され、さらに陶通明(弘景)に転じたのだろうと推測する。

緑飲の鮑君が『鬼谷子』注の鈔本を購(あがな)い、私に正すよう託された。注は甚だ明白で簡当であり、もとより五代や宋の人の及ぶところではない。ところがその巻首に「東晋貞白先生丹陽陶弘景注」と題するのは誤りである。案ずるに、陶は梁の人で、大同のはじめに貞白と諡(おくりな)を賜った。「東晋」の誤りは深く弁ずるまでもない。按ずるに、『鬼谷』は『隋志』から録され、皇甫謐注と楽壱注が各三巻あり、『新』『旧唐志』は皇甫がなく尹知章注三巻を増すが、陶のことは聞かない。陶注は晁氏『読書志』にはじめて見え、潜渓『諸子弁』がこれに続いた。

巻数は楽・尹と同じで『転丸』『胠篋』の二篇を欠く。この本の篇と巻はちょうどそれに符合するから、宋氏の見た本にほかならない。その書は古本らしくない。『捭闔』『反応』『内揵』『抵巇』を上に列し、『飛箝』『忤合』『揣摩』『権謀』『決事』『符言』に亡篇を並べて中に列し、『本経陰符七術』および『持枢』『中経』を下に列するのは、近ごろの刻本と異ならない。およそ文の逸したもので『史記』『意林』『太平御覧』の諸書に見えるものは、この本にはみな無い。

その篇名には古くは『反覆』『抵巇』『飛鉆』『涅闇』『午合』『揣情』『摩意』『量権』『謀慮』に作るものがあったが、今はそうでもない。『盛神』『養志』の諸篇に至っては、まさに柳子厚が譏った「晩くなってさらに『七術』が出た。怪しく謬って考え校べようもない」という言葉に当たる。梁の世にどうして急にこれがあろうか。たとえあったとしても、隠居して華陽に志を抗(たか)くした人が、どうして険しく詭(あや)しい談を用いようか。『梁史』および『邵陵王碑銘』もまったく彼が『鬼谷』に注したとは言わない。偽託してよいものだろうか。

『困学紀聞』は尹知章の『鬼谷子』序を載せ、「蘇秦・張儀がこれに事(つか)え、『捭闔』の術十三章を受け、さらに『転丸』『胠篋』三章を受けた」と言う。晁氏はただ序にこの書は秦と儀に授けたものだと言うと述べるだけである。詳略は違うが、どちらも尹の序であることが証される。序が尹から出たのなら、注が尹から出ていないとどうして分かろう。その注文を見ると、しばしば唐の諱を避けている。「民」を「人」、「世」を「代」、「治」を「理」とし、「縲紲」を「縲絏」に作る類である。そのうえ筆法が『管子注』に極めて似ている。尹注であることは疑いない。

尹は中宗・睿宗の世に生き、開元六年に卒した。だから「隆基」の字はもう避けていない。その亡篇への注に「あるいは荘周の『胠篋』を取って次第を充たす者があるが、この書の意ではないので取らない」という。『持枢』への注に「あまりに簡略で惜しい。あるいは簡篇が脱け爛(ただ)れて、もともと全うできなかったのだろう」という。思うに底柱の標が没して以来、五部が残欠し、文徳殿の旧本を再び見ることができなくなったので、注家はそれを遺憾としたのである。もしまことに陶注であるなら、同時代の劉勰が『文心雕龍』を作って「『転丸』はその巧辞を騁し、『飛鉗』はその精術を伏す」と明言している。原文を見ていない者が、どうしてただちに『転丸』はすでに亡んだと言えようか。

庾仲容もまた梁の人である。その鈔した子書は、いま『意林』に「人動けば我静かに」および「徳をもって民を養う」の二条があり、明らかに完本に拠っている。なぜこの本だけが脱爛を遺憾とするのか。これもまた尹であって陶でない明らかな徴(しるし)である。そこで尹が陶に訛った理由は、解しがたい。意をもって揣れば、尹注は『旧唐書』にあって、かなり時に行われたとはいうものの、『新志』はわざわざ「尹知章は著録せず」と自注している。思うにその本は宋の初めにはもともと標識がなかったのだろう。そして『持枢篇』の注中に一度「元亮曰く」と称する。元亮は晋の陶淵明の字である。あるいは陶淵明を陶通明と取り違えて、妄りに主名を立て、読む者が察しないまま、久しい仮(かり)が定着してしまったのだろう。

あるいはまた、諂(へつら)いの道の徒が、鬼谷子を王詡だと詭(いつわ)り、強いて元微子と名づけ、さらに貞白が仙術に情を寄せたことに託して、偽って注としたのかもしれない。それは分からない。しかしこの注は世に伝わることすでに稀で、大いに宝とすべきものである。「唐国子博士尹知章注」と改題し、趙蕤『長短経』と合わせて梓(し)に行うのがよかろう。人の神智を裨益することは決して少なくない。乾隆辛丑、閏五月七日、海寧の周広業 書す。

盧文弨 跋ろ ぶんしょう

要点——この書は「小人の書」であり、その術は昏君や庸人にしか効かない。節操のある正しい人に出会えば効かなくなる。書中でも自ら「守りのある人は……象貌によって得られない」「世に抵ぐべきものがなければ、深く隠れて時を待つ」と認めている。だが毀してはならない。姦邪の手口をすべて広げて見せているのだから、君主が読めば自分を試しに来る者を見破れるからだ。跋末には校勘の功が記される——銭曾の鈔本から『内揵篇』に脱けていた本文と注文あわせて四百十二字を補ったという。

『鬼谷子』は小人の書である。およそその『捭闔』『鉤箝』の術は、ただ暗愚な君に対して施しうるだけだ。その意は相手の意向の向かうところを探り出し、それに従って巧みにその説を変え、要(かなめ)を結んで、自分に親しみ悦ばせ、膠(にかわ)のように固めて離れられなくすることにある。千古の姦邪の愚かさで、主君を美(よ)しとする者は、みなこのようにしてきた。彼らがどうして教えられてはじめて知り、学んではじめてできるものか。その術の用い方が一つ一つこの書と暗(あん)に合うからといって、必ずしもみながこの書を見たわけではない。来鵠はこう言っている——「捭闔・飛箝は実は今日の常態であり、『鬼谷子書』を読まない者でも、みなおのずと符節を合わせたようになる」。

この言葉はまことだ。さらにそれが常人に施されるときを見ても、やはり昏く邪(よこしま)で庸(なみ)で怯(おくびょう)な輩(やから)に対してのみ効く。その言葉にこうある——「守りのある人は、目は非を視ず、耳は邪を聴かず、言葉は必ず『詩』『書』により、行いは淫らに僻(かたよ)らない。道をもって形とし、徳をもって容とし、貌は荘かで色は温かい。象貌によって得ることはできない。こういう相手なら、情を隠し隙を塞いで去るがよい」。この言葉を見れば、その術は正しい人に遇って窮するのである。またその『抵巇篇』に言う——「世に抵ぐべきものがなければ、深く隠れて時を待つ」。これは明君と治まった世に遇えば、挟んでいる術がみな用いどころを失うということではないか。ある人が問うた——「そうであれば、この書はなぜ毀さないのか」。

答えて言う——「およそ姦邪の情状がすべてここに現れている。人主たる者は、反覆して心を留めておかねばならない。そうすればそのような人に遇ったとき、その肺肝まで洞(とお)し見られよう。相手はその術で私を試そうとし、私はあらかじめこれを折り返せる。これは上(かみ)の人を知る明を助けるのだ。どうして毀してよかろう」。私が甚だ惜しむのは、その方寸のあいだ、神明の舎りにおいて、ひたすら詭譎(きけつ)と変詐ばかりを務めて、結局は窮するのを免れないことだ。何を苦しんでこんなことをするのか。しかもその術には、至って浅く至って陋(いや)しく、到底人を転じ移せないものもある。たとえば淫らな酒色に溺れる者に遭ったら、そのために喜ばせられる音楽の術を為し、それでその好むところを移せるという。

そもそも正しい楽を聞けば眠ってしまうのを恐れるくらいだから、必ず靡靡(びび)たる楽でなければ動かせまい。靡靡たる楽はかえってその情欲を助けるだけである。その術はいよいよ疎かではないか。この書は、私の年家の子である江都の秦太史敦夫がかつて『道蔵』本に依って版にし、私が一通り校した。今年甲寅、はじめて銭遵王の手鈔本を見て、『道蔵』本の誤脱が数えきれないことを知った。『内揵篇』では本文と注文あわせて四百十二字も脱けていた。私はただちにこれを借りて補正した。ああ、もしこの本がなかったら、『道蔵』本をそのまま善本としてしまうところだった。校を終えたので、その後ろに書きつける。東里の盧文弨 跋す。

阮元 跋げん げん

要点——内証から論じる。書中には韻語が多く、『抵巇篇』の「巇とは罅なり」という声訓は古音に合い、『飛箝』の「箝」は『周礼』鄭注の「飛鉆涅韽」の「鉆」と同字である。どちらも後人が偽造できるものではない。結論——この書は縦横家にただ一つ残った子書であり、陶注もまた久しく佚して伝わることが稀なのだから、精しく校して刊行すべきである。

陶弘景注『鬼谷子』は『道蔵』の旧本である。わが郷の秦編修敦夫は博覧で古を嗜み、校讐に精しい。そこで諸書から刺(と)り取り、誤謬を考訂して、これを梓に行った。その大略は『自序』の中に見える。元(わたし)は『鬼谷子』を読んだが、中に韻語が多い。またその『抵巇篇』に「巇とは罅なり」とあり、「巇」を「呼」のように読むのは、古の声訓字の義に合っていて、後人が依託できるものではない。その篇名に『飛箝』がある。按ずるに、『周礼・春官・典同』に「微声は韽なり」とあり、後鄭はこれを「飛鉆涅韽」の「韽」と読む。

「箝」と「鉆」は同字である。賈公彦の疏はすなわち『鬼谷子』を引いてこれを証する。また『揣』『摩』の二篇は、『蘇秦伝』の「簡練して揣摩を為す」の語に倣って作られたもののようだ。しかし『史記・虞卿伝』に『虞氏春秋』にもまた『揣摩篇』があるとあるから、これもまた遊説する者の通語なのだろう。ひそかに思うに、書がもし『隋』『唐志』に著録されていて今わずかに存するものであれば、精しく校して世に伝えるべきでないものはない。まして この編は縦横家に独り存する子書である。陶氏の注もまた世に久しく佚したものであって、まことに古籍を網羅する者の喜んで目にするところであろう。乾隆戊申冬月、儀真の阮元 跋尾す。

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