目 次
巻上 第一 茶の源(いちのげん)一之源 第二 茶の具(にのぐ)二之具 第三 茶の造(さんのぞう)三之造 巻中 第四 茶の器(しのき)四之器 巻下 第五 茶の煮(ごのしゃ)五之煮 第六 茶の飲(ろくのいん)六之飲 第七 茶の事(しちのじ)七之事 第八 茶の出(はちのしゅつ)八之出 第九 茶の略(くのりゃく)九之略 第十 茶の図(じゅうのず)十之圖 底本と校例巻上卷上
三篇。茶がまだ山にあり、まだ仕事場にある間の話である。一之源はどういう木か、どんな土に生えるか、何と呼ばれるか、人に何をするか。二之具は採って製するための十五の道具。三之造は二月から四月までの摘み方と、七つの工程と、できあがった餅茶の姿かたち。三篇つづけて読めば、一枚の茶餅が枝から封まで辿る道がそのまま出てくる。陸羽の順序に注意したい——まず土、つぎに人である。「野なるもの上、園なるもの次」「陽崖陰林」——品等の根拠を彼は山場に置き、手わざには置かない。手わざにできるのは、土がくれたものを損なわぬことだけである。
第一 茶の源(いちのげん)一之源
六段、それぞれ一事を受け持つ。木・字・名・地・用・累。最後の一段がいちばん彼らしい。茶の効能に一段、茶の害に一段を割き、しかも人参を引いて比べる。茶をすすめるための書物の第一篇が「則ち茶の累尽くせり」の一句で閉じるのである。
茶は南方の佳い木である。一尺、二尺、はては数十尺にもなる。巴山峡川のあたりには二人がかりで抱えるほどの木があり、伐り倒してから摘み取る。木は瓜蘆に似、葉は梔子に似、花は白薔薇に似、実は栟櫚に似、蔕は丁香に似、根は胡桃に似る。〔瓜蘆の木は広州に出る。茶に似て、きわめて苦く渋い。栟櫚は蒲葵のたぐいで、その実は茶に似る。胡桃と茶とは、根がいずれも下へ下へと伸び、瓦礫を押しのけてはじめて苗が上へ抽く。〕
「茶」の字は、草冠に従うか、木偏に従うか、草と木と両方に従うかである。〔草に従えば「茶」と書く。この字は『開元文字音義』に出る。木に従えば「𣗪」と書く。この字は『本草』に出る。草木ともに従えば「荼」と書く。この字は『爾雅』に出る。〕
その名は、一に茶、二に檟、三に蔎、四に茗、五に荈という。〔周公は「檟は苦荼なり」と言う。揚執戟(揚雄)は「蜀の西南の人は茶を蔎と言う」と言う。郭弘農(郭璞)は「早く摘むを荼とし、晩く摘むを茗とする。あるいは荈とも言う」と言う。〕
その土は、上は爛石(風化した砕石)に生じ、中は礫壌に生じ、下は黄土に生ずる。およそ植えて踏み固めず、まばらに植えれば、茂ることはまれである。植え方は瓜と同じで、三年目に摘める。野生のものが上、園に植えたものが次。日の当たる崖の、木蔭のあるところで、紫の芽が上、緑の芽が次。筍のかたちが上、芽のかたちが次。葉の巻いたものが上、開いたものが次。日陰の山坡や谷のものは摘むに値しない。性が滞りやすく、腹にしこりを結ぶ。
茶の効きめは、味がきわめて寒である。飲みものとしては、行いの清らかな、徳の慎ましい人にいちばんふさわしい。熱い渇き、胸のつかえ、頭痛、目の乾き、四肢のだるさ、節々のこわばり——四口五口すすれば、醍醐や甘露と張り合うほどである。
時を外して摘み、精しからずに製し、雑草を混ぜたものは、飲めば病になる。茶が人を害するのは、人参が人を害するのと同じである。人参は上党のものが上、百済・新羅のものが中、高麗のものが下。沢州・易州・幽州・檀州に出るものは薬として効かない——それでもまだ人参である。まして人参でないものはどうか。薺苨(人参に似て効かぬ根)を服んで六疾が癒えぬとき、人参の累を知る。そこまで分かれば、茶の累も尽くしたことになる。
第二 茶の具(にのぐ)二之具
採製の道具十五件を、使う順に並べる——採る(籝)、蒸す(竈・釜・甑)、搗く(杵臼)、型に入れる(規・承・檐)、乾かす(芘莉)、穿つ(棨・撲)、焙る(焙・貫・棚)、数える(穿)、蔵う(育)。四之器の煎飲の具とは混ぜない。『四庫提要』が「二者部を異にす」と言うのはこのことである。どれも材質と寸法が記してあり、これを見て作ることができる。
籝〔加追の反〕。籃とも籠とも筥ともいう。竹で編み、五升、あるいは一斗・二斗・三斗を容れる。茶人はこれを背負って茶を摘む。〔籝は『漢書』に音は盈とあり、いわゆる「黄金籝に満つるも、一経に如かず」の籝である。顔師古の注に「籝は竹の器なり。四升を受く」という。〕
竈は、突(煙出し)のないものを用いる。釜は、唇の反った口のものを用いる。
甑は、木でも瓦でもよい。腰をくびれさせず、継ぎ目を泥で塞ぐ。中に竹の箄(すのこ)を入れて葉を載せ、篾で結んで引き上げられるようにする。蒸しはじめは葉を箄に入れ、蒸し上がれば箄ごと出す。釜の水が涸れたら甑の中から注ぎ足す。〔甑は帯をせず泥で塗る。〕また三つまたの穀(こうぞ)の枝で蒸した芽筍と葉を散らす。膏が流れ出るのを恐れるからである。
杵臼。碓ともいう。いつも使っているものがよい。
規。模とも棬ともいう。鉄で作る。円いもの、四角いもの、花形のものがある。
承。臺とも砧ともいう。石で作る。なければ槐や桑の木を半分地に埋めて、動かぬようにする。
檐。衣ともいう。油絹、あるいは古びた雨具や単衣で作る。檐を承の上に置き、規を檐の上に置いて茶を作る。餅ができたら檐ごと持ち上げて取り替える。
芘莉〔音は杷離〕。籝子とも篣筤ともいう。小さな竹二本、長さ三尺、胴二尺五寸、柄五寸。篾で方眼に編み、畑の人の土篩のようにして、幅二尺、これに茶を並べる。
棨。錐刀ともいう。柄は堅い木で作り、茶に穴をあけるのに用いる。
撲。鞭ともいう。竹で作り、茶を貫き通しておいて一枚ずつ外すのに用いる。
焙。地を鑿って深さ二尺、幅二尺五寸、長さ一丈。上に高さ二尺の低い壁を作り、泥で塗る。
貫。竹を削って作る。長さ二尺五寸。茶を貫いて焙る。
棚。棧ともいう。木を焙の上に渡し、二層に組み、間を一尺あけて茶を焙る。半乾きのものは下の棚に上げ、すっかり乾いたものは上の棚に上げる。
穿〔音は釧〕。江東・淮南では竹を割って作り、巴川峡山では穀の皮を縒って作る。江東では一斤を上穿、半斤を中穿、四両五両を小穿とする。峡中では百二十斤を上穿、八十斤を中穿、五十斤を小穿とする。この字は昔は釵釧の「釧」に作り、あるいは貫串の「串」に作ったが、今はそうしない。磨・扇・弾・鑽・縫の五字のように、書くときは平声、使うときは去声に呼ぶ。この物の名としては「穿」と書く。
育。木で枠を組み、竹で編み、紙を貼る。中に仕切りがあり、上に蓋、下に床、脇に戸があって、一枚だけ開く。中に器を一つ置いて煻煨の火(灰をかぶせた熾火)を入れ、ほのかに温めておく。江南の梅雨どきには火を焚く。〔育というのは、蔵い養うところから名づけたのである。〕
第三 茶の造(さんのぞう)三之造
製法と、できたものの見分け方。七つの工程はわずか十四字で言い切られる——「これを採り、これを蒸し、これを擣き、これを拍ち、これを焙り、これを穿ち、これを封ず」。ところが餅茶の八つの姿には一段まるごとを費し、さらに一段を使って鑑識の三段階を説く——善いとだけ言う者は下、悪いとだけ言う者は次、善し悪しの両方を言える者が上。全書中、「鑑」を論じた最も重い一段である。
茶を摘むのは二月・三月・四月のあいだである。
茶の筍のかたちのものは爛石の肥えた土に生え、長さ四五寸、薇や蕨が伸びはじめたようで、露を凌いで摘む。芽のかたちのものは叢の上に出て、三枝・四枝・五枝のものがあり、その中の抜きん出た一枝を選んで摘む。その日に雨が降れば摘まない。晴れていても雲があれば摘まない。晴れた日に、これを摘み、これを蒸し、これを擣き、これを拍ち、これを焙り、これを穿ち、これを封ずれば、茶は乾き上がる。
茶には千も万も姿がある。大づかみに言えば——胡人の靴のように縮んだもの〔京錐の描く文様である〕、犎牛の胸のように襞のあるもの、浮雲が山から出るように巻いたもの、軽い風が水を撫でるようにさざ波立つもの。陶工が膏土を水で澄ませたようなもの〔澄泥をいう〕、新しく耕した地を夕立の水が流れたようなもの——これらはみな茶の精腴(よいところ)である。竹の皮のようで、枝や幹が硬く、蒸すのも搗くのも骨が折れ、篩のように粗いもの〔上は离、下は師と書く〕、霜にあたった蓮のようで、茎も葉も萎れて形を変え、しおれ果てたもの——これらはみな茶の痩せて老いたものである。
摘むことから封ずることまでで七つの工程、胡靴から霜荷までで八つの等級。光って黒く平らで整っているから佳いと言うのは、鑑識の下である。皺んで黄色く凸凹しているから佳いと言うのは、鑑識の次である。どこが佳く、どこが佳くないかを両方とも言えるのが、鑑識の上である。なぜか。膏の出たものは光り、膏を含んだものは皺む。前の晩に作ったものは黒く、その日に仕上げたものは黄色い。蒸してから圧したものは平らで、そのままにしたものは凸凹する。この点で茶はほかの草木の葉と何も変わらない。茶の善し悪しは、口伝えのうちにある。
巻中卷中
一篇だけだが、全書でいちばん重い巻である。茶を煎てるための二十四の器を、火を熾す風炉から一式を担いで去る都籃まで、材質と寸法と理由つきで並べる。中国最古の、一揃いの道具目録である。後世の茶席にあるものは、辿ってゆけばみなこの二十四件に行き着く。大事なのは並び順で、大小ではなく一服の所作の順に並ぶ——火を熾し、炭を割り、釜を据え、茶を炙り、末に挽き、水を量り、漉し、汲み、塩を入れ、椀に分け、洗い、並べ、しまう。読み下せばそのまま一続きの動作になる。
第四 茶の器(しのき)四之器
二十四器。陸羽は器の名をそれぞれ行頭に立て、その下に説明を置く——旧本がそう刻んでいるのであって、本頁が付けたものではない。本頁は段頭の太字で示した。風炉の下の「灰承」、碾の下の「拂末」、鹺簋の下の「揭」、畚の下の「紙帊」も、原書の子目である。この人の人柄がいちばん出るのは風炉(三足の二十一字)と碗(邢と越の争い)の二条。一方は炉ひとつを易の書に仕立て、他方は越州の青磁のために三度も理を尽くす。その理由が「青ければ茶に益あり」——器の善し悪しは、結局は茶で測るのである。
風炉〔灰承とともに〕風炉は銅か鉄で鋳る。古鼎のかたちで、厚さ三分、縁の幅九分、六分を中空にして、内側に泥を塗る。足は三本。その足に古文で二十一字を鋳る。一の足に「坎上巽下離于中」——水を上に、風を下に、火を中に。一の足に「体均五行去百疾」——五行が調えば百病が去る。一の足に「聖唐滅胡明年鋳」——大唐が胡を滅ぼした翌年に鋳た、と。三足のあいだに窓を三つ、炉底にも一つあけて、風を通し灰を落とす。窓の上にさらに古文六字。一の窓の上に「伊公」、次に「羹陸」、次に「氏茶」——すなわち「伊公の羹、陸氏の茶」である。炉の内に墆堁(炭を受ける土の台)を置き、三格に分ける。一格に翟(火の鳥)を画いて離の卦を、一格に彪(風の獣)を画いて巽の卦を、一格に魚(水の虫)を画いて坎の卦を記す。巽は風を、離は火を、坎は水を主る。風は火を起こし、火は水を熟す。ゆえに三卦を備える。飾りは連葩・垂蔓・曲水・方文のたぐい。炉は鉄を鍛って作っても、泥をこねて作ってもよい。灰承は三足で、鉄の盤がこれを支える。
筥竹で編む。高さ一尺二寸、径七寸。藤を使ってもよい。筥のかたちの木型を作ってそれに編みつけ、六角の丸い目を出す。底と蓋は竹篋の口のように仕上げて磨く。
炭檛鉄を六角に打って作る。長さ一尺、頭は鋭く、中ほどは太い。細いほうの端に小さな鐶を繋いで飾りとする。今の河隴の軍人の木吾(警杖)のようなものである。槌のかたちにも斧のかたちにも、手に合うように作ればよい。
火筴火箸のこと。ふつうのもので、丸く真っ直ぐ、長さ一尺三寸。頭は平らに切り落とし、葱台のような飾り頭も鎖もつけない。鉄か熟銅で作る。
鍑〔音は輔。釜とも鬴とも書く〕鍑は銑鉄で鋳る。今、鋳物を業とする者のいう「急鉄」で、これは使い古した鋤の刃を熔かし直して鋳たものである。内型は土、外型は砂。土は内を滑らかにして洗いやすく、砂は外を粗くして炎を吸う。耳を方形にするのは正しさのため。縁を広くするのは遠きに及ぼすため。臍を長くするのは中を守るため。臍が長ければ沸きが真ん中に立ち、真ん中で沸けば末が揚がりやすく、末が揚がりやすければ味が淳くなる。洪州では磁器で作り、萊州では石で作る。磁も石も雅な器ではあるが、堅くないので長持ちしない。銀で作れば至って清潔だが、奢りに傾く。雅は雅、潔は潔である。だが日々使うとなれば、結局は銀に落ち着いてしまうのだ。
交床十字に組み、真ん中を刳り抜いて、鍑を支える。
夾小さな青竹で作る。長さ一尺二寸。一寸のところに節を残し、節から上を割って、茶を炙るのに使う。あの竹の若い幹は火にかけると汁が滲み、その清らかな香りが茶の味に添う——ただ林谷の間でなければ手に入らない。精鉄や熟銅を使ってもよい。長持ちするからである。
紙囊剡の藤紙の白く厚いものを二重に縫う。炙りたての茶を入れて、香りを逃がさない。
碾〔拂末とともに〕橘の木で作るのが第一、次に梨・桑・桐・柘。内は円く、外は方形。内が円いのは墮(碾の輪)を転がすため、外が方形なのは倒れないため。内は墮を容れて余分な木を残さない。墮は車輪のかたちで、輻はなく軸だけがある。碾の長さ九寸、幅一寸七分。墮は径三寸八分、中の厚み一寸、縁の厚み五分、軸は中ほどが方形で握りが円い。拂末(末を掃く刷毛)は鳥の羽で作る。
羅合篩った末は合(蓋つきの箱)に入れて蓄え、則(匙)を合の中に入れておく。篩は大竹を割って曲げ、紗絹を張る。合は竹の節で作るか、杉を曲げて漆をかける。高さ三寸、蓋一寸、底二寸、口径四寸。
則海貝・蠣・蛤のたぐい、あるいは銅・鉄・竹の匕や策で作る。則とは、量ることであり、準ることであり、度ることである。おおよそ水一升を煮るのに末を方寸匕ひとつ用いる。薄いのが好きなら減らし、濃いのが好きなら増やす。だから則というのである。
水方椆の木・槐・楸・梓などを矧ぎ合わせ、内も外も継ぎ目に漆をかける。一斗を容れる。
漉水囊ふつう使うものは、枠を生銅で鋳る。始終水に濡れるので、苔もつかず生臭くも渋くもならないからである。熟銅は苔がつき、鉄は生臭くなる。林や谷に隠れ住む者は竹や木を使うこともあるが、竹木は長く持たず遠くへも行けない。だから生銅を使う。囊は青竹を編んで巻き、碧の縑を裁って縫い、翠鈿を綴じつける。さらに緑の油布の袋を作ってこれを入れる。径五寸、柄一寸五分。
瓢犧杓ともいう。瓠を割って作るか、木を刻んで作る。晋の舎人杜育の『荈賦』に「これを酌むに匏をもってす」とある。匏とは瓢のことである。口が広く、脛が薄く、柄が短い。永嘉のころ、余姚の人虞洪が瀑布山に入って茗を摘み、一人の道士に出会った。道士は言った、「われは丹丘子である。いつの日か甌や犧に余ったものを分けてもらいたい」。犧とは木の杓である。今はふつう梨の木で作る。
竹筴桃・柳・蒲葵の木で作るか、柿の心材で作る。長さ一尺、両端を銀で包む。
鹺簋〔揭とともに〕磁器で作る。径四寸、合のかたち。瓶のかたち、罍のかたちのものもある。塩の花を入れる。揭は竹製、長さ四寸一分、幅九分。揭とは策(へら)である。
熟盂熟した湯を入れておく器。磁器か陶器で、二升を容れる。
碗越州が上、鼎州が次、婺州が次、岳州が次、壽州と洪州が次。ある人は邢州を越州の上に置くが、まったくそうではない。邢の磁器が銀に似るなら、越の磁器は玉に似る。邢の越に如かざる一。邢の磁器が雪に似るなら、越の磁器は氷に似る。邢の越に如かざる二。邢の磁器は白く茶の色が赤く出る。越の磁器は青く茶の色が緑に出る。邢の越に如かざる三。晋の杜育の『荈賦』にいう「器を択び陶を簡ぶ、東甌より出づ」。甌とは越である。甌は越州のものが上、口の唇が反らず、底が巻いて浅く、半升以下を容れる。越州の磁器も岳州の磁器も青く、青ければ茶に益がある。茶は白と紅のまじる色に見える。邢州の磁器は白く茶の色が紅、壽州の磁器は黄で茶の色が紫、洪州の磁器は褐で茶の色が黒——どれも茶に宜しくない。
畚〔紙帊とともに〕白い蒲を巻いて編む。碗十枚が入る。筥で代えてもよい。紙帊は剡の紙を二重に縫い、四角に裁つ。これも十枚。
札栟櫚の皮を揃え、茱萸の木で挟んで縛るか、竹を切って管に束ねる。大きな筆のかたちになる。
滌方洗いものの残り水を入れる。楸の木を矧ぎ合わせ、作りは水方と同じ。八升を容れる。
滓方滓を集める。作りは滌方と同じ。五升を容れる。
巾絁(粗い絹)で作る。長さ二尺。二枚作って交互に使い、諸器を清める。
具列床のかたちにも架のかたちにも作る。木だけ竹だけで作っても、木と竹を合わせ、黄と黒に塗り分けて畳めるように漆をかけてもよい。長さ三尺、幅二尺、高さ六寸。具列というのは、諸器を残らず収め、残らず陳べ並べるからである。
都籃諸器をことごとく収めるので、この名がある。内側は竹の篾で三角の方眼に編み、外側は幅広の篾を二本ずつ経にし、細い篾一本で縛り、二本の経を互い違いに押さえて方眼を作り、透かして玲瓏とする。高さ一尺五寸、底の幅一尺・高さ二寸、長さ二尺四寸、幅二尺。
巻下卷下
六篇。五之煮と六之飲は煮方と飲み方。七之事は唐以前の茶の記事をことごとく集めて一巻とする。八之出は全国八道四十余州の茶産。九之略は野外で省いてよい器。十之図はわずか一段、前の九篇を絹に写して掛けよ、という。七之事だけで巻の半分を超える——陸羽はここで説を立てているのではない。まず証拠を並べているのである。四十七条のうちには医書・字書・地志・詩賦・家伝・志怪・遺詔があり、神農から本朝まで順に並ぶ。茶の文献長編であり、しかも現存する最も古いものである。
第五 茶の煮(ごのしゃ)五之煮
煎茶の全工程——炙る、挽く、火を択ぶ、水を択ぶ、三沸、酌み分ける、味を論ずる。「三沸」はこの篇が定めた法である。魚の目のようなのが一沸、縁に真珠を連ねたようなのが二沸、波が躍るのが三沸。それを過ぎれば「水老いて」飲めない。一沸で塩を入れ、二沸で一瓢を汲み出して末を投じ、三沸でその一瓢を戻して沸きを止め、華を育てる。末段の沫餑の描写は、棗の花・青萍・浮雲・緑銭・菊の英・積雪と六つの比喩を重ねる。唐代の散文で湯花を書いた最上の一段である。
およそ茶を炙るには、風が熾火を吹き散らすところでは炙ってはならない。炎が錐のように走って、熱の当たりが揃わないからである。夾で火に近づけ、しきりに裏表を返す。餅の表に炮〔普教の反〕が出て小さな瘤ができ、蝦蟆の背のようになったら、火から五寸離す。巻いたものがまた伸びたら、はじめに戻ってもう一度炙る。火で乾かしたものは湯気が通ったところでやめ、日に乾かしたものは柔らかくなったところでやめる。
そもそも、いちばん嫩い茶は、蒸し終えてすぐ熱いうちに搗く。葉は崩れても芽筍は残っている。力にまかせて千鈞の杵を持たせても、これは搗き潰せない。漆の盤で珠を転がすようなもので、力自慢でも指で押さえていられない。搗き上がったものは、まるで筋も骨もないようである。炙れば、その節は嬰児の腕のように柔らかくなる。そのまま熱いうちに紙囊に入れれば、精華の気は逃げ出さない。冷めきってから末に挽く。〔末の上等なものは屑が細かい米のよう、下等なものは屑が菱の実のようである。〕
火は炭を第一とし、次に堅い薪を用いる。〔桑・槐・桐・櫪のたぐいをいう。〕一度肉を焙って脂の匂いがついた炭、脂の多い木や壊れた古道具は用いない。〔膏木とは柏・桂・檜のこと。敗器とは打ち棄てた器物のこと。〕古人に「労薪の味」という言葉がある。まことにそのとおりである。
水は山水を上、江水を中、井水を下とする。〔『荈賦』にいう「水は則ち岷方の注、彼の清流を挹む」。〕山水は乳泉と石池のゆるく流れるものを択ぶ。飛び跳ね激しく流れるものは飲んではならない。長く飲めば首に腫れができる。また谷に分かれて流れ込み、澄んだまま抜けない水がある。真夏から霜の降りる前までは、潜んだ龍が毒を溜めていることがあるから、飲む者は堰を切ってその悪い水を流し去り、新しい泉がこんこんと湧いてから汲むがよい。江水は人里から遠いところで取り、井水は汲む者の多い井戸から取る。
沸きが魚の目のようで、かすかに音がするのが一沸。縁に湧き出す泉の真珠を連ねたようになるのが二沸。波が躍り浪が打つのが三沸。それより上は水が老いて、飲めない。初沸のとき、水の量に合わせて塩を入れて味を調え、味見した一口は棄てる。〔啜とは嘗めること。〕そうしなければ、薄いのを嫌ってその塩気ひとつに偏ってしまうではないか。〔二字は味のないことをいう。〕二沸のとき水を一瓢汲み出し、竹筴で湯の中心をぐるりと攪き、量っておいた末を真ん中に落とす。しばらくすると勢いが奔る濤のように沫を散らす。そこで汲み出しておいた水を戻して鎮め、その華を育てる。
およそ酌むときは、椀に置いて沫餑が均しくなるようにする。〔字書ならびに『本草』に、餑は茗の沫、蒲笏の反、とある。〕沫餑とは湯の華である。薄いのを沫といい、厚いのを餑といい、細かく軽いのを花という。棗の花が輪の池の面に漂うよう、めぐる淵の曲がった洲に青萍が生えはじめたよう、晴れた空が爽やかで鱗のような浮雲があるよう。沫は緑の銭苔が水際に浮かぶよう、また菊の花びらが樽俎のなかに落ちたよう。餑は滓を煮返したもので、沸けば華が重なり沫が累なって、皤々として積もった雪のようである。『荈賦』にいう「煥として積雪の如く、燁として春の敷の若し」——まことにそのとおりである。
第一の沸きで、その沫を棄てる。上に黒雲母のような水の膜があり、飲めば味が正しくない。その第一の椀を雋永という。〔徐県・全県の二反。至って美なるを雋永という。雋は味、永は長い。味の長いのを雋永という。『漢書』に蒯通が『雋永』二十篇を著したとある。〕これを熟盂に留めておいて、華を育て沸きを救うのに備える。第一に次いで第二・第三の椀がこれに次ぐ。第四・第五の椀から先は、よほど渇いているのでなければ飲まない。およそ水一升を煮て、五椀に酌み分ける。〔椀の数は少なくて三、多くて五。人が十人にもなれば、炉をもう一つ加える。〕熱いうちに続けて飲む。重く濁ったものは下に凝り、精英は上に浮くからである。冷めれば精英は気とともに尽きる。だらだら飲んで飲み切らないのも同じことである。
茶の性は倹である。広げるのに向かない。広げれば味が暗く淡くなる。一椀なみなみと注いだところで、半分すすればもう味は薄い。まして多ければなおのことである。その色は緗(淡い黄)である。その馨りは𣣑である。〔香りの至って美なるを𣣑という。𣣑の音は使。〕その味が甘いのは檟、甘くなくて苦いのは荈、口に苦く喉に甘いのが茶である。〔『本草』にいう、その味が苦くて甘くないのは檟、甘くて苦くないのは荈、と。〕
第六 茶の飲(ろくのいん)六之飲
なぜ飲むのかから、どう飲めば飲んだことにならないかまで。冒頭は飲を天地のあいだに置く——翼あるもの、毛あるもの、口を開いて語るもの、みな飲み啄んで生きている。ついで茶の系譜。神農に発し、魯の周公に聞こえ、晏嬰・揚雄・司馬相如・韋曜・劉琨・張載・陸納・謝安・左思が飲み、本朝に至っては「比屋の飲」、どの家でも飲む。そして篇の骨——「茶に九難あり」。九つの字にそれぞれ一句の反例を付した、裏から書いた作業規程である。
翼あって飛ぶもの、毛あって走るもの、口を開いて語るもの。この三者はともに天地のあいだに生まれ、飲み啄んで生きている。飲むということの時宜にかなった意味は、遠く深いものだ。渇きを救うには漿を飲み、憂いと忿りを除くには酒を飲み、昏い眠けを払うには茶を飲む。
茶を飲むことは神農氏に発し、魯の周公によって世に聞こえた。斉には晏嬰、漢には揚雄と司馬相如、呉には韋曜、晋には劉琨・張載・遠祖の陸納・謝安・左思のともがらがあり、みな飲んだ。時代に溢れ風俗に浸みて、本朝に至って最も盛んである。両都(長安・洛陽)と荊・渝のあいだでは、いまや家並みごとの飲みものとなった。
飲まれているものには觕茶・散茶・末茶・餅茶があり、斫り、熬り、煬り、舂いて、瓶や缶に貯え、湯を注ぎかける。これを痷茶(漬け茶)という。あるいは葱・薑・棗・橘皮・茱萸・薄荷などを入れて百沸も煮、汲み上げては落として滑らかにし、あるいは沫を煮とばす。これは溝に棄てる水である。それなのに習俗はやまない。
ああ。天は万物を育て、どれにも至妙のところがある。ところが人の巧みは、浅く手近なところばかりを漁る。身を庇う屋は屋として極まり、身に着ける衣は衣として極まり、腹を満たす飲食は、食も酒もともに極まっている。茶には九つの難がある。一に造、二に別、三に器、四に火、五に水、六に炙、七に末、八に煮、九に飲。陰に採り夜に焙るのは造ではない。味を噛み香を嗅ぐだけなのは別ではない。羶い鼎、腥い甌は器ではない。脂の木、厨の炭は火ではない。飛ぶ早瀬、淀んだ溜り水は水ではない。外は熟して内は生なのは炙ではない。碧い粉、縹い塵に挽くのは末ではない。手つきがぎごちなく、慌てて攪きまわすのは煮ではない。夏に飲んで冬にやめるのは飲ではない。
珍しく鮮やかで馥りの烈しいものは、椀の数は三。それに次ぐものは椀の数は五。客の数が五人なら三椀を回し、七人なら五椀を回す。六人以下なら椀の数を約めない。ただ一人足りないものと考えて、あの雋永の一椀を、欠けた一人の分に充てるのである。
第七 茶の事(しちのじ)七之事
神農から唐初まで、書物に見える茶の事をひとつ残らず写す。四十七条。まず三皇・周・漢・呉・晋・後魏・宋・斉・梁・皇朝と十代にわたる人名の総目を掲げ、それから一条ずつ引く。『四庫提要』は司馬相如『凡将篇』の三十八字を「他書に無き所」と特筆する——この篇が保存したものの価値は、しばしば茶事の外にある。引文は底本のままとし、今日伝わる各書と小異があっても改めない。
三皇——炎帝神農氏。周——魯の周公旦、斉の相の晏嬰。漢——仙人丹丘子、黄山君、司馬文園令相如、揚執戟雄。呉——帰命侯、韋太傅弘嗣。晋——恵帝、劉司空琨、琨の兄の子で兖州刺史の演、張黄門孟陽、傅司隸咸、江洗馬統、孫参軍楚、左記室太沖、陸呉興納、納の兄の子で会稽内史の俶、謝冠軍安石、郭弘農璞、桓揚州温、杜舎人育、武康小山寺の釈法瑤、沛国の夏侯愷、余姚の虞洪、北地の傅巽、丹陽の弘君挙、楽安の任育長、宣城の秦精、燉煌の単道開、剡県の陳務の妻、広陵の老姥、河内の山謙之。後魏——琅琊の王粛。宋——新安王子鸞、鸞の弟の豫章王子尚、鮑昭の妹の令暉、八公山の沙門曇済。斉——世祖武帝。梁——劉廷尉、陶先生弘景。皇朝——徐英公勣。
『神農食経』——「茶茗を久しく服すれば、人をして力あらしめ、志を悦ばしむ」。
周公『爾雅』——「檟は苦荼なり」。『広雅』にいう——「荊と巴のあいだでは葉を採って餅に作る。葉の老いたものは、餅にしてから米の膏で固める。茗を煮て飲もうとするなら、まず炙って赤い色にし、搗いて末にして磁器に入れ、湯を注いで覆いをする。葱・薑・橘子で味をつける。これを飲めば酒が醒め、人を眠らせない」。
『晏子春秋』——「嬰が斉の景公の相であったとき、脱粟の飯を食い、炙り物と卵と茗菜だけであった」。
司馬相如『凡将篇』——「烏喙、桔梗、芫華、款冬、貝母、木蘗、蔞、芩草、芍薬、桂、漏蘆、蜚廉、雚菌、荈詫、白斂、白芷、菖蒲、芒消、莞椒、茱萸」。
『方言』——「蜀の西南の人は茶を蔎という」。
『呉志・韋曜伝』——「孫皓は宴を張るたび、席にある者にはみな七升を限りとして飲ませ、口に入らぬ分まで注ぎかけて飲み干させた。韋曜は酒が二升を超えなかった。皓ははじめ彼を別格に遇し、ひそかに茶荈を賜って酒に代えさせた」。
『晋中興書』——「陸納が呉興の太守であったとき、衛将軍の謝安がたびたび訪ねようとした。〔『晋書』には、納は吏部尚書であったとある。〕納の兄の子の俶は、納が何も用意しないのを怪しんだが、問いただすこともできず、ひそかに十数人分の馳走を蓄えておいた。謝安が来ると、納が出したのは茶と果物だけであった。俶はそこで盛大な馳走を並べ、珍味をことごとく揃えた。謝安が去ったのち、納は俶を杖で四十打って言った——「おまえは叔父に光を添えられぬばかりか、どうしてわしの素業(清貧の家風)を穢すのか」」。
『晋書』——「桓温が揚州牧であったとき、性が倹であって、宴のたびに茶と果物の七盤を出すだけであった」。
『捜神記』——「夏侯愷が病んで死んだ。一族の苟奴という者は鬼神が見えた。愷が馬を取りに来るのを見、また妻を病ませるのを見た。平上幘をかぶり単衣を着て、生前に坐っていた西壁の大床に入って坐り、人に茶を飲ませてくれと求めた」。
劉琨『兄の子、南兖州刺史の演に与うる書』——「先ごろ安州の乾薑一斤、桂一斤、黄芩一斤を得た。どれも入り用のものであった。わたしは胸のうちが憒れて悶える。いつも真の茶を頼みにしている。おまえ、手配してくれ」。
傅咸『司隸教』——「聞くところでは南方に、困窮した蜀の老婆が茶粥を売っていたのを、市の役人がその器具を打ち壊したという。婆はのちに市で餅を売った。蜀の婆さん一人のために茶粥を禁ずるとは、いったい何事か」。
『神異記』——「余姚の人虞洪が山に入って茗を摘んでいると、青い牛を三頭牽いた道士に出会った。道士は洪を瀑布山まで連れて行って言った——「われは丹丘子である。そなたが飲みものをよく調えると聞いて、いつも恵みを思っていた。山中に大茗がある。融通してやろう。いつの日か甌や犧に余りがあれば、分けてもらいたい」。そこで洪は祠を立てて祀り、のちにつねに家人を山に入らせて、大茗を得たという」。
左思『嬌女詩』——「わが家に嬌女あり、皎々として頗る白し。小字を紈素といい、口ぶりは清くはっきりしている。姉は恵芳といい、眉目は画のようだ。園林を駆けまわり、実は熟さぬうちに摘んでしまう。花を惜しんで風雨のなかにも出て、たちまちのうちに幾百度も往き来する。心は茶荈に急いて、鼎の口に向かってふうふうと吹く」。
張孟陽『登成都楼詩』——「揚子(揚雄)の家はどこかと問い、長卿(司馬相如)の廬を思い浮かべる。程・卓の両家は千金を積み、その驕りと奢りは五侯になぞらえるほどだ。門には騎馬を連ねた客があり、翠の帯に呉鉤を佩く。鼎の食は時に随って運ばれ、百の味付けは妙にして殊なる。林を分けて秋の橘を採り、江に臨んで春の魚を釣る。黒子は龍の醢にまさり、果物は蟹の蝑を越える。芳しい茶は六清の冠たり、あふれる味は九区に播く。人生、かりにも安楽であるならば、この土地はいささか娯しむに足る」。
傅巽『七誨』——「蒲桃と宛の柰、斉の柿と燕の栗、峘陽の黄梨、巫山の朱橘、南中の茶子、西極の石蜜」。
弘君挙『食檄』——「寒暄の挨拶が済んだら、まず霜華の茗を出すべきである。三爵が終わったら、諸蔗・木瓜・元李・楊梅・五味・橄欖・懸豹・葵羹をそれぞれ一杯ずつ出すべきである」。
孫楚『歌』——「茱萸は芳しい樹の梢に出で、鯉魚は洛水の泉に出づ。白塩は河東に出で、美豉は魯淵に出づ。薑・桂・茶荈は巴蜀に出で、椒・橘・木蘭は高山に出づ。蓼蘇は溝渠に出で、精稗は中田に出づ」。
華佗『食論』——「苦茶を久しく食えば、意思を益す」。
壺居士『食忌』——「苦茶を久しく食えば羽化する。韮と同じく食えば、人の体を重くする」。
郭璞『爾雅注』——「樹は小さく梔子に似る。冬も青く、葉は煮て羹にして飲める。今は早く摘むものを茶と呼び、晩く摘むものを茗と呼ぶ。あるいは荈ともいい、蜀の人はこれを苦茶と名づける」。
『世説』——「任瞻、字は育長。若いころは評判が高かったが、江を渡ってから気が抜けた。あるとき茶が出されて、人に問うた——「これは茶か、それとも茗か」。人の顔色が怪しむのを見て、自分から言いつくろった——「いま尋ねたのは、この飲みものが熱いか冷たいかということだ」」。
『続捜神記』——「晋の武帝の世、宣城の人秦精がいつも武昌山に入って茗を摘んでいた。一丈あまりの毛人に出会い、山の下に連れて行かれて、茗の叢を示されたかと思うと毛人は去った。しばらくして戻ってくると、懐から橘を取り出して秦精に与えた。秦精は怖くなり、茗を背負って帰った」。
『晋四王起事』——「恵帝が蒙塵ののち洛陽に還ったとき、黄門が瓦の盂に茶を盛って至尊に奉った」。
『異苑』——「剡県の陳務の妻は若くして二人の子と寡居し、茶茗を好んで飲んだ。宅のうちに古い塚があり、飲むたびにまずこれを祀った。二人の子はこれを厭って言った——「古塚に何が分かるものか。ただ心を労するだけだ」。そして掘り棄てようとした。母が固く止めてやめさせた。その夜、夢に一人が現れて言った——「わたしはこの塚に三百余年いる。そなたの二人の子はつねづね毀そうとしたが、そなたが守ってくれ、そのうえ佳い茗まで享けさせてくれた。潜んだ土の朽ちた骨とはいえ、翳桑の報いを忘れようか」。明け方、庭のうちで銭十万を得た。久しく埋められていたようであったが、貫(さし)だけが新しかった。母が二人の子に告げると、子らは恥じ入り、これより祈りと供えはますます篤くなった」。
『広陵耆老伝』——「晋の元帝のとき、一人の老婆があり、毎朝ひとりで茗を一器提げて市に売りに行った。市の人は争って買った。朝から晩まで、その器の茗は減らなかった。得た銭は道端の孤児・貧者・乞食に散じた。怪しむ者があって、州の法曹が獄に繋いだ。夜になると、老婆は茗を売っていた器を手に、獄の窓から飛び出して行った」。
『芸術伝』——「燉煌の人単道開は寒暑を畏れず、つねに小石を服した。服した薬には松・桂・蜜の気があり、飲んだのは茶蘇だけであった」。
釈道該の説く『続名僧伝』——「宋の釈法瑤は、俗姓を楊氏といい、河東の人である。元嘉のうちに江を渡り、沈臺真に出会い、請われて武康の小山寺に入った。年はすでに懸車(七十)に近く、飯のたびに茶を飲んだ。永明のうちに、勅によって呉興が礼を尽くして京に送った。年は七十九であった」。
宋『江氏家伝』——「江統、字は応元。愍懐太子の洗馬に遷り、あるとき上疏して諫めた——「いま西園で醯・麪・藍子・菜・茶のたぐいを売っておりますのは、国体を虧き敗るものです」」。
『宋録』——「新安王子鸞と豫章王子尚が八公山に曇済道人を訪ねた。道人は茶茗を設けた。子尚はこれを味わって言った——「これは甘露である。どうして茶茗などと言おうか」」。
王微『雑詩』——「寂々として高閣を掩い、寥々として広厦空し。君を待てどもついに帰らず、領を収めて今、檟に就く」。
鮑昭の妹の令暉は『香茗賦』を著した。
南斉の世祖武皇帝の遺詔——「わが霊座の上には、くれぐれも牲を以て祭ってはならぬ。ただ餅・果物・茶の飲みもの・乾飯・酒・脯を設けるだけにせよ」。
梁の劉孝綽『晋安王の米等を餉らるるを謝する啓』——「伝詔の李孟孫が教旨を宣べ、米・酒・瓜・筍・菹・脯・酢・茗の八種を賜りました。気は新城に苾しく、味は雲松に芳し。江潭に節を抽き、昌荇の珍に邁ぐ。疆場に翹を擢んで、葺精の美を越ゆ。羞は純束の野麏に非ざれども、裛まれて雪の驢に似たり。鮓は陶瓶の河鯉に異なれども、操るに瓊の粲の如し。茗は食粲に同じく、酢は望柑に類す。千里の宿舂を免れ、三月の糧聚を省く。小人は恵みを懐い、大いなる懿は忘れ難し」。
陶弘景『雑録』——「苦茶は身を軽くし骨を換える。昔、丹丘子と黄山君がこれを服した」。
『後魏録』——「琅琊の王粛が南朝に仕えたときは茗を飲み蓴の羹を好んだ。北の地に還ってからは、また羊肉を好み酪漿を好んだ。ある人が問うた——「茗は酪に比べてどうか」。粛は答えた——「茗は酪の奴となるにも堪えぬ」」。
『桐君録』——「西陽・武昌・廬江・晋陵は茗を好み、いずれも東の人が清茗を作る。茗には餑があり、飲めば人によい。およそ飲むに堪えるものは、多くはその葉を取る。天門冬や拔揳は根を取るが、これも人によい。また巴東には別に真の茗茶があり、煎じて飲めば人を眠らせない。俗間では檀の葉や大皁李を煮て茶とすることが多いが、どちらも冷やす。また南方に瓜蘆の木があって、これも茗に似てきわめて苦く渋い。屑にして茶として飲めば、やはり夜通し眠らずにいられる。塩を煮る人はもっぱらこれを頼みにしており、交州・広州では最も重んじられ、客が来ればまずこれを出し、さらに香りのものを加える」。
『坤元録』——「辰州溆浦県の西北三百五十里に無射山がある。蛮の風俗では、吉慶のときに親族が集まって山の上で歌い舞うという。山には茶の樹が多い」。
『括地図』——「臨蒸県の東百四十里に茶渓がある」。
山謙之『呉興記』——「烏程県の西二十里に温山があり、御荈(献上の茶)を出す」。
『夷陵図経』——「黄牛・荊門・女観・望州などの山に茶茗が出る」。
『永嘉図経』——「永嘉県の東三百里に白茶山がある」。
『淮陰図経』——「山陽県の南二十里に茶坡がある」。
『茶陵図経』——「茶陵というのは、陵や谷に茶茗が生えるからそう呼ぶのである」。
『本草・菜部』——「茗は苦茶である。味は甘くて苦く、やや寒で、毒はない。瘻瘡を主り、小便を利し、痰と渇きと熱を去り、人を眠らせない。秋に採ったものは苦く、気を下し食を消すのに効く」。注にいう——「春に採る」。
『本草・菜部』のもう一条——「苦茶は、一に荼といい、一に選といい、一に游冬という。益州の川谷、山陵の道傍に生え、冬を凌いで死なない。三月三日に採って乾かす」。注にいう——「これはおそらく今の茶であろう。一に荼といい、人を眠らせない」。『本草』の注にまたいう——「『詩』に「誰か荼を苦しと謂う」といい、また「堇荼飴の如し」というのは、どちらも苦菜のことである。陶弘景のいう苦茶は木のたぐいであって、菜のたぐいではない。茗を春に採ったものを苦𣗪という」。〔途假の反。〕
『枕中方』——「積年の瘻を療するには、苦茶と蜈蚣をともに炙って香ばしく熟し、等分に搗いて篩い、甘草の湯を煮て患部を洗い、その末を傅ける」。
『孺子方』——「小児の故なき驚蹶を療するには、苦茶と葱の鬚を煮て服ませる」。
第八 茶の出(はちのしゅつ)八之出
全国の茶産の等級。八道——山南・淮南・浙西・剣南・浙東・黔中・江南・嶺南。前の五道は州ごとに上・次・下・又下を定め、注に県名・山名・寺名を挙げ、さらに「某州と同じ」と記す。既知の味で未知の味を言う、使える対照表である。末段は正直に認める——思・播・費・夷・鄂・袁・吉・福・建・泉・韶・象の十一州は「未詳」、ときおり手に入るが味はきわめて佳い、と。品等を定める書物が、最後に「未詳」と書くのである。
山南——峡州を上とし〔峡州は遠安・宜都・夷陵の三県の山谷に生ずる〕、襄州と荊州がこれに次ぎ〔襄州は南漳県の山谷に、荊州は江陵県の山谷に生ずる〕、衡州が下〔衡山・茶陵の二県の山谷に生ずる〕、金州と梁州がまた下である〔金州は西城・安康の二県の山谷に、梁州は褒城・金牛の二県の山谷に生ずる〕。
淮南——光州を上とし〔光山県の黄頭港に生ずるものは峡州と同じ〕、義陽郡と舒州がこれに次ぎ〔義陽県の鍾山に生ずるものは襄州と同じ。舒州は太湖県の潜山に生じ、荊州と同じ〕、寿州が下〔盛唐県の霍山に生ずるものは衡山と同じ〕、蘄州と黄州がまた下である〔蘄州は黄梅県の山谷に、黄州は麻城県の山谷に生じ、ともに金州・梁州と同じ〕。
浙西——湖州を上とする〔湖州は長城県の顧渚の山谷に生じ、峡州・光州と同じ。山桑・儒師の二寺、白茅山の懸脚嶺に生ずるものは襄州・荊南・義陽郡と同じ。鳳亭山の伏翼閣、飛雲・曲水の二寺、啄木嶺に生ずるものは寿州・常州と同じ。安吉・武康の二県の山谷に生ずるものは金州・梁州と同じ〕。常州がこれに次ぐ〔常州は義興県の君山、懸脚嶺の北峰の下に生じ、荊州・義陽郡と同じ。圏嶺の善権寺、石亭山に生ずるものは舒州と同じ〕。宣州・杭州・睦州・歙州が下〔宣州は宣城県の雅山に生じ蘄州と同じ。太平県の上睦・臨睦に生ずるものは黄州と同じ。杭州は臨安・於潜の二県の天目山に生じ舒州と同じ。銭塘は天竺・霊隠の二寺に生じ、睦州は桐廬県の山谷に、歙州は婺源の山谷に生じ、衡州と同じ〕。潤州・蘇州がまた下である〔潤州は江寧県の傲山に、蘇州は長洲県の洞庭山に生じ、金州・蘄州・梁州と同じ〕。
剣南——彭州を上とし〔九隴県の馬鞍山、至徳寺、棚口に生じ、襄州と同じ〕、綿州と蜀州がこれに次ぎ〔綿州は龍安県の松嶺関に生じ荊州と同じ。その西昌・昌明・神泉県の西山のものはみな佳いが、松嶺を越えたものは摘むに堪えない。蜀州は青城県の丈人山に生じ綿州と同じ。青城県には散茶・木茶がある〕、邛州がこれに次ぎ、雅州と瀘州が下〔雅州の百丈山・名山、瀘州の瀘川のものは金州と同じ〕、眉州と漢州がまた下である〔眉州は丹稜県の鉄山に、漢州は綿竹県の竹山に生じ、潤州と同じ〕。
浙東——越州を上とし〔余姚県の瀑布泉嶺に生ずるものを仙茗という。大きいものは格別で、小さいものは襄州と同じ〕、明州と婺州がこれに次ぎ〔明州は鄮県の榆筴村に生じ、婺州は東陽県の東白山に生じ荊州と同じ〕、台州が下である〔台州は始豊県の赤城に生じ歙州と同じ〕。
黔中——思州・播州・費州・夷州に生ずる。
江南——鄂州・袁州・吉州に生ずる。
嶺南——福州・建州・韶州・象州に生ずる。〔福州は閩県の方山の陰に生ずる。〕
その思・播・費・夷・鄂・袁・吉・福・建・泉・韶・象の十一州はまだ詳らかでない。ときおり手に入るが、その味はきわめて佳い。
第九 茶の略(くのりゃく)九之略
どういうときに省いてよいか。野で採り製し、松の間の石の上で煮るなら、省ける器を一つずつ名指しで落としてゆく。ところが最後の一句がそれを引き取る——「ただし城邑のうち、王公の門にては、二十四器一を闕けば、則ち茶廃れん」。前の二段が通融で、この一句が規矩である。篇の意味は対照のなかにある。山では省け、町では省けない。
造具について。もし春の禁火のころ、野の寺や山の園で大勢の手で摘み、その場で蒸し、舂き、また火で乾かすのであれば、棨・撲・焙・貫・棚・穿・育の七事はみな要らない。
煮器について。松の間の石の上に坐れるなら、具列は要らない。枯れ薪と鼎鏂のたぐいを使うなら、風炉・灰承・炭檛・火筴・交床は要らない。泉を見おろし澗に臨むなら、水方・滌方・漉水囊は要らない。五人以下で、茶がすでに細かく挽けているなら、羅合は要らない。藟にすがって巌を攀じ、絙を引いて洞に入り、山の口で炙って末にし、あるいは紙に包んで容れるなら、碾と拂末は要らない。瓢・盌・竹筴・札・熟盂・鹺簋がみな一つの筥に収まるなら、都籃は要らない。
ただし城邑のうち、王公の門にあっては、二十四器のうち一つを欠いても、茶は廃れるのである。
第十 茶の図(じゅうのず)十之圖
全書で最も短い篇。一段しかない。前の九篇を四幅あるいは六幅の白絹に書き分け、座の隅に掛けておけば、『茶経』はまるごと「目撃して存す」。だから『四庫提要』は「その類は十、その文は実は九なり」という——第十篇は別に図があるのではなく、前の九篇を一枚の図に変えよという指示なのである。
白絹を四幅あるいは六幅取り、前の九篇を分けて書き写し、座の隅に掛けておく。そうすれば茶の源・具・造・器・煮・飲・事・出・略が目に触れてそこにあり、ここに『茶経』は始めから終わりまで備わるのである。
底本と校例
底本は維基文庫(中国語ウィキソース)所収『茶經』三巻十篇の標点本。『四庫全書』が拠った浙江鮑士恭家蔵本の系統で、陸羽の自注を含めて本文七千余字。巻と篇の目、および陸羽の自注は原書のもの。段の界、〈四之器〉の二十四器名の太字、そして〔 〕という注の界標は本頁が施した。旧本では自注は双行の小字として本文のなかに刻まれている。本頁ではこれを一号小さくし色を変え、〔 〕で範囲を示した——この書架の『反經』で趙蕤の自注に用いたのと同じやり方である。これらの注は本文の一部であって、工具欄の「註釋」ボタン(本頁が書いた巻旨・篇旨・段註)には従わない。原書には篇の下に小見出しがなく、本頁もこれを立てない。
通校本その一——『四庫全書』文淵閣本。録文は互いに独立した二種を用いた。Kanripo KR3i0019 の WYG 枝と、維基文庫『茶經(四庫全書本)』である。一つの版本の録文二種が食い違えば、それは録文の誤りであって版本の異ではない(#487『司馬法』の回で立てた分際)。七千百十六字を逐字で突き合わせた結果、食い違いは零であった。零それ自体は独立の証明にならない(写し合っても零になる)が、両者が欠字とした文字が違うので、一方が他方の写しでないことは分かる。底本と四庫本との逐字対校では異文百三十九条・百九十七字位を得た。字形と通用の異はほかに三百三十処あるが、CJKVI の異体字表で判定して異文には数えない。
通校本その二(目験)——明刊『百川學海』本。国立国会図書館蔵『百川學海』壬集『茶經』三巻(請求記号 特1-2229。掃描は Wikimedia Commons、PD-scan)。『百川學海』は宋の咸淳年間に左圭が編んだ叢書で、今に伝わる『茶經』の最も古い一支はこの叢書のなかを通っている。この本はその明代の重刊であり、四庫の系統とは別である。ネット上に録文がないので、本頁は書影を一葉ずつ呼び出して目験した。底本と四庫本とが食い違うところは、すべて実際に見ている。本頁にいう「百川本は某に作る」は、本頁による書影の目験であって、刊行された録文ではない——この分際は憶えておいていただきたい。封面はこの本の巻上の巻端葉である。
百川本は自分で校語を持っており、底本はそれを呑み込んでいる。百川學海本の本文には「〇某は某に作るべし」という形の小字の校語が挟まっている。〈二之具〉の「又以穀木枝三亞者製之」の下に「〇亞は椏に作るべし、木の椏枝なり」、〈六之飲〉の「兩都并荊俞間」の下に「〇俞は渝に作るべし、巴渝なり」。底本の本文はそのまま「三椏」「荊渝」に作る。校語は静かに本文に併呑され、痕跡が残っていない。本頁は底本に従う(校語のほうが正しい)が、この事実はここに記しておく。読みやすい標点本が、読みやすい底本だとはかぎらない。
改字の例——次の三条を同時に満たすときだけ改める。(一) 百川學海本と四庫全書本とがともに底本と異なる。(二) 底本の文が通らない、あるいは明らかに形近の誤りである。(三) ほかに外の証がある(引かれた原書、あるいは本書の内証)。これに当たるのは十六処で、それぞれ該当段の註に記した。主なものは——〈二之具〉「籃以簞之,薎以繫之」を「箄」「篾」に(下文の「出乎箄」が内証)、三つの「赤」を「尺」に、「一百二十斤爲上」に「穿」一字を補う。〈四之器〉は「碾」の子目「拂末」を補い、「具到者」を「具列者」に。〈五之煮〉は「茶罷熱搗」を「蒸罷」に、「其味甘,樌也」を「檟也」に。〈六之飲〉は「間於魯周公」を「聞」に。〈七之事〉は「傳巽」を「傅巽」に、「烏啄」を「烏喙」(附子の別名)に。〈八之出〉は「昍仙茗」を「曰仙茗」に。このほか「灸」を「炙」に作る八処は、二旧本がともに炙に作るので一括して統一し、一条ずつの校記は出さない。
底本は湖州の一節十九字を脱している。〈八之出〉浙西の湖州の条で、底本は「生長城縣顧渚山谷,與峽州、荊州、義陽郡同;生鳳亭山……」と続くが、そのあいだに「生山桑、儒師二寺、白茅山懸腳嶺,與襄州、荊南、義陽郡同」の一節が落ちている。百川學海本はこれを明刻し、四庫本にも形を変えて残る。これを補い、あわせて上の「與峽州、光州同」と下の「與壽州、常州同」も二旧本に従った。湖州は陸羽がこの書を書いた土地であり、顧渚山はのちに唐代第一の貢茶の山となる——全書で地理上もっとも重い一条が、底本のいちばん欠けた一条だったのである。
「聖唐滅胡明年鑄」——四庫本はこの七字を差し替えている。〈四之器〉の風炉、三足の第三句を底本は「一足云:聖唐滅胡明年鑄」に作る。代宗広徳二年(七六四)、安史の乱が平定された翌年を指す。四庫全書文淵閣本は「一足云:聖唐年號某年鑄」に作る——録文二種ともにそうなので、録文の誤りではない。本頁は百川學海本のこの葉を目験したが、「唐」の下には一字しかなく、すぐに「明年鑄」と続く。刻が漫漶していて何の字とも定めがたいので、底本のままとし、三本の異をここに具さに記す。「胡」は清代には避けるべき字であり、四庫館臣がこの種の字面を改めた例は多い。ここでは事実だけを述べ、判断は下さない。
四庫本だけが違う二つの体例。一、篇題。四庫本はすべて「一茶之源」「二茶之具」「四茶之噐」……に作るが、底本も百川學海本も「一之源」「二之具」「四之器」である。封面のあの葉に「一之源」の三字がはっきり見える。本頁はこれに従う。二、巻中の器目。四庫本は〈四之器〉の本文の前に二十四器の目録を掲げるが、百川學海本にはなく、底本にもない。本頁も補わない。もう一つ、封面でも見えることだが、百川本の撰者行は「唐 竟陵陸羽」、四庫本は「唐 陸羽 撰」である。
四庫本は善本ではない。この点ははっきり書いておく。今回の異文の大半は四庫本側の明らかな誤りである。〈七之事〉陶弘景『雑録』の「輕身換骨」を四庫本は「換膏」に、「黃山君」を「責山君」に作る。『続名僧伝』の「元嘉中過江,遇沈臺真,請真君武康小山寺」を「永嘉中……遇沈臺真臺在武康小山寺」に作る。傅咸『司隸教』の「爲簾事打破其器具,後又賣餅於市」を「爲羣吏打破其器具,嗣又賣餅於市」に作る。劉琨の書の「吾體中憒悶」を「潰悶」に、『括地図』の「臨蒸縣」を「臨遂縣」に作る。雋永の注に引く『漢書』の「蒯通」に至っては欠字になっている。したがって本頁はこれを独立した証人として扱うだけで、これに拠って改字できる善本とは見なさない。十六処の改字は、すべて百川本が同じ側に立つことを条件とした。
二旧本が一致して底本だけが異なり、しかも本頁が改めなかった十処を列挙する。取捨は読者に任せたい。〈一之源〉「中者生礫壤」、二本ともに「櫟壤」。〈三之造〉「故厥狀委悴然」、二本ともに「委萃」。〈四之器〉「銳上豐中」、二本ともに「銳一豐中」。「紐翠鈿以綴之」、二本ともに「細翠鈿」。「器擇陶簡」、二本ともに「陶揀」。「晉舍人杜育」、二本ともに「杜毓」。〈五之煮〉「菊英墮於鐏俎」、二本ともに「樽俎」。「或留熟盂以貯之」、二本ともに「盂」の字がない。〈七之事〉「八公山沙門曇濟」、二本ともに「譚濟」。〈八之出〉「襄州生南漳縣」、二本ともに「南鄭」。「梁州生褒城」、二本ともに「襄城」。いずれも底本の文で通り、多くは今日の校本とも合うので動かさない。
三本がそれぞれ異なり、何もしなかった一処。〈九之略〉「乃蒸,乃舂,乃拍,乃復以火乾之」——百川學海本には「乃拍」の二字がなく(「乃蒸乃舂乃復以火乾之」)、四庫本は「乃煬」に作る(「乃蒸乃舂乃煬以火乾之」)。三本三様で、互いに証し合う二本がないので底本のままとした。逆の例も記しておく。〈七之事〉の『晏子春秋』「炙三戈五卯」は、四庫本が「三弋五卵」に作り今本『晏子春秋』と合うが、百川本はなお「戈」「卯」に作る。二旧本が一致しないので改めない。
国会図書館本には一葉、綴じ違いがある。この『百川學海』本『茶經』の巻首には「茶經序」が付いている。唐の皮日休『茶中雜詠序』である(「按ずるに『周禮』酒正の職、四飲の物を辨ず、其の三に漿と曰う……季疵はじめて經三卷を為り、是に由って其の源を分ち、其の具を制す……」)。この本ではその一葉が巻上の第一葉と第二葉のあいだに綴じ込まれており、〈一之源〉が途中で切れて序文になり、序文が終わるとまた〈一之源〉に戻る。序文は陸羽の作ではなく底本にもないので本文には入れず、ここに記すにとどめる。
字形と句読 底本の用いる異体字のうち義に関わらないものはすべて正字に改めた(隂→陰、采→採、淩→凌、珎→珍、㪷→斗、𥥛→突、昇→升、䆫→窗 など十八対)。そのうち一対は簡体字の紛れ込みである——〈九之略〉の「鹾簋」は底本だけが簡体の「鹾」に作り、〈四之器〉の条目名はちゃんと「鹺簋」に作る。#486『三略』の回に底本から十七処見つかった「簡繁往復の痕跡」と同類のものである。「葱/蔥」も底本のなかで不統一だったので揃えた。〈八之出〉の「明州鄮縣」の鄮は底本が画像で代用していたので、Unicode の正字に戻した。全角コロン「︰」は「:」に、半角のコンマとピリオドは全角に改め、また引用符を八処補った(『本草』注のように開いたまま閉じていない箇所)。本文の字は、上に挙げた十六処の改字のほかは一字も動かしていない。
ほかの読本 繁体字・簡体字の頁には、本文のほかに巻旨・篇旨・段ごとの註が付いている(本頁のために書いたもので、工具欄の最初のボタンで開閉する)。英語版も同じく全段の完訳である。四つの読本は段落 id を共有しているので、ある読本の一段へのリンクは、ほかの読本でも同じ場所に着く。
再構築 原材料から四つの頁までのすべてのスクリプトは491-classics-chajing/ に残してある。bash fetch.sh が底本と二種の録文を取り、bash cover.sh が封面を裁ち、bash rebuild.sh が四つの読本まで一気に走る。verify.py は毎回、錨点・id の重複・タグの開閉・四読本の段落 id の一致・封面の寸法、それに「本文 = 底本 + 句読の正規化 + 字形の統一 + 十六処の改字」を検べる。