目 次
菜根譚題詞 前集 一〜二十 二十一〜四十 四十一〜六十 六十一〜八十 八十一〜一〇〇 一〇一〜一二〇 一二一〜一四〇 一四一〜一六〇 一六一〜一八〇 一八一〜二〇〇 二〇一〜二二〇 二二一〜二二二 後集 一〜二十 二十一〜四十 四十一〜六十 六十一〜八十 八十一〜一〇〇 一〇一〜一二〇 一二一〜一三四 底本と校訂例菜根譚題詞だいし
『菜根譚』には題詞があって序がない。この一篇は万暦年間、金壇の人 于孔兼が洪応明のために書いたもので、この書について作者と同時代の外証はこれ一つしかない。洪応明の生涯はほとんど考えようがなく、生没年すら分からない。この一篇によってはじめて、その人が実在し、この書が実在し、于氏と往来があったことが知れる。題詞はまず自分の身の処し方と交遊を述べ、次にこの書を初めて読んだ経緯と評語を述べ、最後に書名を解く——「譚を菜根と名づくるは、もとより清苦の歴練の中より来たる」。下に引かれる洪子の「天、我を労するに形をもってすれば、吾は吾が心を逸(やす)んじてこれを補う」の二句は、原文がそのまま前集第九十一条にある。于孔兼の見た本がすでに今本と一致していたことの証しになる。
客として逐われた孤(ひと)りの身、蓬(よもぎ)の庵に閉じ籠もって、方内(世の中)の人と交わるのは楽しいが、方外(世の外)の人と交わるのは楽しくない。千古の聖賢と五経の異同について論を戦わせるのはよいが、二、三の若者と雲や山の変幻する麓で足跡を漂わせるのはよくない。漁夫や田夫と、五湖のほとり、緑野の窪みで朗々と吟じ唱和するのは甘んじるが、刀や錐ほどの利を競い、一升二升の栄達を追う者と、冷たくなったり熱くなったりする場、生臭い巣穴で腕を組んで情を語るのは甘んじない。ときに濂洛の説(周敦頤・程氏らの学)を習う者があれば導き、竺乾の業(仏教)を習う者があれば退け、天を談じ竜を彫るような弁を弄する者があれば遠ざける。これで私の山中の手わざは尽きている。
ちょうど友人に洪自誠という者があり、『菜根譚』を持ってきて私に示し、そのうえ序を乞うた。私は初めうさんくさげに眺めただけであったが、やがて机上の古い書物を片づけ、胸中の雑念を払い、手に取って読んでみると、性命を語ってはまっすぐ玄微に入り、人情を説いてはつぶさに険しさを尽くし、天地を仰ぎ俯いてはその胸中の悠々たるさまが見え、功名を塵芥として見てはその識見と趣の高遠さが知れる。筆の下で陶(こ)ね鋳(い)るものは、みな緑の樹と青い山であり、口の端の造化は、ことごとく鳶が飛び魚が躍るさまである。その自得したところはどれほどか。もとより深く信じきったわけではないが、その連ねた言葉に拠るかぎり、ことごとく世を砭(はり)し人を醒ますに切実なものであって、耳から入って口から出るだけの浮華ではない。
譚を菜根と名づけたのは、もとより清苦の歴練の中から来たものであり、また自ら栽え灌(そそ)ぐ中から得たものである。その風波に顛倒し、険阻をつぶさに嘗めてきたさまが思いやられる。洪子は言った——「天が私を労するに形(からだ)をもってすれば、私は私の心を逸んじてこれを補う。天が私を阨(くる)しめるに境遇をもってすれば、私は私の道を亨(とお)らせてこれを通す」。その自ら警め自ら力めたところも、また思いやられる。そこでこの数語を巻頭に置き、これを人々に公(おおやけ)にして、菜根の中に真の味があることを知らせたい。
三峰主人 于孔兼 題す。
前集ぜんしゅう
前集二百二十二条が説くのは、人が世間でどう立つかである。人との接し方、事の当たり方、官にあること、家を保つこと、自分と人を責めること、盛んなときと衰えたときの身の置き方。体裁は一条一義で、前後が繋がらない。どの条から読み始めてもよい。その手立ては終始「引き算」である——「人となるに高遠な事業は要らない、俗情を振り払えればそれで名流に入る」「世を渡るに功を求めなくてよい、過ちがなければそれが功だ」。それでいて、この書は世を退けとは勧めない。世の中にいたまま目方を軽くする方法を教える。全書で最も多い文型は「……せざるべからず、また……すべからず」——まず一条を立て、すぐにその上限を引く。原書には篇目も分巻もなく、番号も振られていない。今の人はこれを引くのに一概に条の番号を用いるので、本ページでは番号を各条の前に置き、二十条ごとに小見出しを繋いで検索の便を図った。
一〜二十いち—にじゅう
1 道徳を守って身を置く者は、一時のあいだ寂しい。権勢に寄り添う者は、万古にわたって淒(さむ)い。達した人は物の外の物を観、身の後の身を思う。むしろ一時の寂しさを受けて、万古の淒さを取らない。
2 世を渡ることが浅ければ、染まり汚れるのも浅い。事を経ることが深ければ、からくりも深い。だから君子は、練れて達者であるより、むしろ朴訥であるほうがよく、細かく取り繕うより、むしろ疎(あら)く伸びやかであるほうがよい。
3 君子の心事は、青空に白日のごとく、人に知られないようであってはならない。君子の才華は、玉を韞(つつ)み珠を蔵すごとく、人にたやすく知られるようであってはならない。
4 権勢と利得の華やかさは、近づかない者が潔いが、近づいて染まらない者はいっそう潔い。知恵の仕掛けと巧みなからくりは、知らない者が高いが、知っていて用いない者はいっそう高い。
5 耳には常に耳に逆らう言葉を聞き、心には常に心に逆らう事がある。それでこそ徳を進め行いを修める砥石になる。もし言葉がどれも耳に快く、事がどれも心に快いなら、この一生を鴆(ちん)の毒の中に埋めるようなものだ。
6 疾(はや)い風と怒る雨には、鳥も獣も戚(うれ)える。晴れた日と光る風には、草も木も欣(よろこ)ぶ。天地に一日も和やかな気がなくてはならず、人の心に一日も喜ぶ神(こころ)がなくてはならないと分かる。
7 濃く肥え辛く甘いものは真の味ではない。真の味はただ淡いだけである。神(くす)しく奇(あや)しく卓(すぐ)れ異(こと)なる者は至人ではない。至人はただ常(つね)であるだけである。
8 天地は寂然として動かないが、気の働きは息(や)んで少しも停まらない。日月は昼も夜も馳せるが、その貞(ただ)しい明るさは万古変わらない。だから君子は、閑(ひま)なときには切迫した心づかいを持ち、忙しいところでは悠々とした趣を持たねばならない。
9 夜が更けて人が静まり、独り坐って心を観れば、はじめて妄(もう)が窮まって真だけが露(あら)われるのを覚える。いつもここで大きな機(はたらき)と趣を得る。そして真が現れても妄が逃れきれないと覚えれば、またここで大きな慙(は)じらいを得る。
10 恩の中からもともと害が生じる。だから快く思うときこそ早く頭(こうべ)をめぐらせよ。敗れた後にかえって成功することもある。だから心に逆らうところで手を放すな。
11 藜(あかざ)を口にし莧(ひゆ)を腹にする者には、氷のように清く玉のように潔い者が多い。錦の衣を着て玉のような食を摂る者は、婢のように膝を折り奴のように顔を作ることを甘んじる。思うに、志は淡泊によって明らかになり、節は肥え甘いものによって喪われるのである。
12 目の前の田地(こころ)は広く放っておいて、人に不平の嘆きがないようにせよ。身の後に残す恵沢は長く流れるようにして、人に尽きないという思いを抱かせよ。
13 小道の狭いところでは、一歩分を人に譲って通らせよ。味の濃いものは、三分減らして人に味わわせよ。これが世を渡るうえで最も安らかで楽しい法である。
14 人となるのに、たいそう高遠な事業は要らない。俗情を振り払えれば、それで名流に入る。学をするのに、たいそう積み増す工夫は要らない。物の累(わずら)いを減らし除ければ、それで聖の境に超え出る。
15 友と交わるには三分の俠気を帯びねばならず、人となるには一点の素(しろ)い心を存しておかねばならない。
16 寵愛と利得では人の前に出るな。徳と業では人の後に落ちるな。受け享けるものは分を超えるな。修め為すことは分の内で減らすな。
17 世に処するには一歩譲るのを高しとする。退く一歩が、そのまま進む一歩の元手になる。人に接するには一分寛(ゆる)やかなのが福である。人を利するのが、実は自分を利する根基なのだ。
18 世を蓋(おお)うほどの功労も、「矜(ほこ)る」の一字には敵わない。天に満ちるほどの罪過も、「悔いる」の一字には敵わない。
19 完(まった)き名と美しい節は、独り占めするのがよくない。いくらか人に分けてやれば、害を遠ざけ身を全うできる。辱めの行いと汚れた名は、全部を人に押しつけるのがよくない。いくらか自分に引き受ければ、光を韜(つつ)み徳を養える。
20 事ごとに、余りを残して尽くさない心づもりを置いておけば、造物主もこちらを忌まず、鬼神もこちらを損なえない。もし業は必ず満ちるまで、功は必ず盈(み)ちるまでと求めるなら、内に変事が生じないとしても、必ず外から憂いを招く。
二十一〜四十にじゅういち—よんじゅう
21 家庭には一人の真の仏があり、日々の暮らしには一種の真の道がある。人が誠の心と和やかな気を持ち、愉しい顔つきと婉やかな言葉で、父母兄弟のあいだで、体の隔てが両ながら解け、意気が交わり流れるようにできれば、息を調え心を観ずる修行の万倍も勝る。
22 動くのを好む者は雲間の電(いなずま)、風の中の灯。静けさを嗜(この)む者は死んだ灰、枯れた木。定まった雲と止まった水の中に、鳶が飛び魚が躍る気象があってこそ、道のある者の心の本体である。
23 人の悪を攻めるのに、厳しすぎてはならない。相手が受け止めきれるかを思え。人に善を教えるのに、高すぎてはならない。相手が従えるようにせよ。
24 糞の虫は至って穢(きたな)いが、蟬に変じて秋風に露を飲む。腐った草には光がないが、蛍に化して夏の月に彩を耀かす。潔さはいつも汚れから出、明るさはいつも晦(くら)さから生じると知れる。
25 誇り高ぶり傲(おご)るのは、みな客気(うわついた気)である。客気を降し伏せてこそ、正気が伸びる。情欲と意識は、ことごとく妄(もう)の心である。妄心を消し尽くしてこそ、真の心が現れる。
26 腹が満ちてから味を思えば、濃い淡いの境目はみな消える。色事の後に淫(みだ)らを思えば、男女という見方は尽く絶える。だから人は常に事の後の悔悟をもって、事に臨むときの癡迷(ちめい)を破るがよい。そうすれば性は定まり、動いて正しくないところがない。
27 高位にある身でも、山林の気味がないわけにはいかない。林や泉のもとに退いていても、朝廷を治める経綸を懐いていなければならない。
28 世に処するのに功を求めなくてよい。過ちがなければ、それが功である。人に与えるのに恩に感じられることを求めなくてよい。怨まれなければ、それが徳である。
29 憂え勤めるのは美徳だが、苦しみすぎれば性に適い情を怡(よろこ)ばせるすべがない。淡泊なのは高い風(ふう)だが、枯れすぎれば人を済(すく)い物を利するすべがない。
30 事が窮まり勢いが縮んだ人には、その初めの心を原(たず)ねてやれ。功が成り行いが満ちた士には、その末路を観よ。
31 富貴の家は寛やかで厚いのがよいのに、かえって忌(ねた)み刻(むご)い。それは富貴でありながら貧賤なのであって、それでどうして享(う)けられよう。聡明な人は斂(おさ)め蔵すのがよいのに、かえって炫(てら)い耀かす。それは聡明でありながら愚かなのであって、それでどうして敗れずにいられよう。
32 低いところに居てはじめて、高く登ることの危うさが分かる。晦(くら)いところに処してはじめて、明るいほうへ向かうことの露わすぎるのが分かる。静けさを守ってはじめて、動くのを好むことの度を越した労が分かる。黙を養ってはじめて、言葉の多いことの躁(さわ)がしさが分かる。
33 功名富貴を求める心を放ち下ろせば、凡を脱することができる。道徳仁義にこだわる心まで放ち下ろして、はじめて聖に入ることができる。
34 利と欲はまだ心を害しきらない。自分の意見こそが心を害する賊である。声と色は必ずしも道を障(さまた)げない。聡明こそが道を障げる垣根である。
35 人情は反覆し、世の道は崎嶇(きく)である。行き詰まったところでは、一歩退く法を知らねばならない。行けるところでは、三分譲る工夫を加えるよう努めよ。
36 小人に接するのは、厳しくするのが難しいのではなく、憎まずにいるのが難しい。君子に接するのは、恭しくするのが難しいのではなく、礼を保つのが難しい。
37 むしろ渾(こん)と噩(がく)を守って聡明を斥け、いくらかの正気を天地に返そう。むしろ紛(はな)やかさを謝して淡泊に甘んじ、一つの清らかな名を乾坤に遺そう。
38 魔を降すには、まず自分の心を降せ。心が伏せば、もろもろの魔は退いて聴き従う。横(よこしま)な者を馭(ぎょ)するには、まずこの気を馭せ。気が平らかなら、外の横は侵さない。
39 弟子を教えるのは、深窓の娘を養うようなもので、出入りを厳しくし、交遊を慎むのが最も大事だ。ひとたび良からぬ者に近づけば、それは清らかな田に不浄の種を一つ下ろすようなもので、生涯よい稲を植えられなくなる。
40 欲の路の上のことは、その便利さを楽しんで、ちょっと指を染めてはならない。ひとたび指を染めれば、万仞の深みへ入り込む。理の路の上のことは、その難しさを憚(はばか)って、少し退いてはならない。ひとたび退けば、千の山ほど遠く隔たる。
四十一〜六十よんじゅういち—ろくじゅう
41 念の濃い者は、自分を厚く待(あつか)い、人をも厚く待い、どこでも濃い。念の淡い者は、自分を薄く待い、人をも薄く待い、何ごとも淡い。だから君子は、常日頃の嗜好を、あまり濃艶にしてはならず、またあまり枯れ寂しくしてもならない。
42 あちらに富があるならこちらには仁がある。あちらに爵があるならこちらには義がある。君子はもとより君主や宰相に籠絡されない。人が定まれば天にも勝ち、志が一つなら気を動かす。君子はまた造物主の鋳型にもはめられない。
43 風が恬(やす)らかに浪が静かな中に、人生の真の境が見える。味が淡く声が希(かす)かなところに、心の本体のありのままが識れる。
44 身を立てるのに一歩高く立たなければ、塵の中で衣を振り、泥の中で足を濯(すす)ぐようなもので、どうして超え達せよう。世に処するのに一歩退かなければ、蛾が灯に飛び込み、牡羊が垣根に角を突っかけるようなもので、どうして安らかに楽しめよう。
45 学ぶ者は精神を収め拾って、一つの路に併せ帰さねばならない。徳を修めながら事功や名誉に意を留めれば、必ず実(じつ)の到達がない。書を読みながら吟詠や風雅に興を寄せれば、必ず心が深くならない。
46 人にはそれぞれ一つの大いなる慈悲がある。維摩と屠(ほふ)り手や刑吏とに二つの心はない。どこにでも一種の真の趣味がある。金の屋も茅(かや)の軒も二つの場所ではない。ただ欲に蔽われ情に封じられて、目の前で取り逃がす。そうなれば咫尺(しせき)が千里になる。
47 徳を進め道を修めるには、木や石のような念が要る。ひとたび羨(うらや)む心が起これば、すぐ欲の境へ趨(はし)る。世を済い邦を経(おさ)めるには、雲や水のような趣が要る。ひとたび貪り著(つ)く心が起これば、すぐ危うい機に堕ちる。
48 吉(よ)い人は、その振る舞いが安らかであるのは言うまでもなく、夢寝の魂までみな和やかな気である。凶(わる)い人は、その行いが狠(むご)く戻(もと)っているのは言うまでもなく、声や笑いまでまるごと殺気である。
49 肝が病めば目が見えなくなり、腎が病めば耳が聞こえなくなる。病は人の見えないところで受け、必ず人のみな見えるところに発する。だから君子が明るいところで罪を得まいとするなら、まず暗いところで罪を得ないことだ。
50 福で福なるものは事の少ないことに過ぎず、禍で禍なるものは心を多く砕くことに過ぎない。ただ事に苦しんだ者だけが、事の少ないことの福を知る。ただ心を平らかにした者だけが、心を多く砕くことの禍を知る。
51 治まった世に処するには方(かく)であるのがよく、乱れた世に処するには円(まる)いのがよい。末世に処するには方と円を併せ用いるのがよい。善い人に接するには寛やかなのがよく、悪い人に接するには厳しいのがよい。並の人々に接するには寛と厳を互いに存(お)くのがよい。
52 自分が人に施した功は念(おも)ってはならないが、過ちは念わないわけにいかない。人が自分に施した恩は忘れてはならないが、怨みは忘れないわけにいかない。
53 恩を施す者が、内に自分を見ず、外に人を見ないなら、一斗の粟でも万鍾の恵みに当たる。物で人を利する者が、自分の施しを計り、人の報いを責めるなら、百鎰(いつ)でも一文の功も成らない。
54 人の際遇には、揃うものと揃わないものがある。自分だけ揃わせられようか。自分の情理には、順(すなお)なものと順でないものがある。人をみな順にさせられようか。これをもって互いに観て対(む)かい治めるのも、また一つの方便の門である。
55 心の地が乾いて浄(きよ)くあってこそ、書を読み古(いにしえ)に学べる。そうでなければ、一つの善い行いを見ては盗んで私を済(な)す種にし、一つの善い言葉を聞いては借りて短所を覆う材にする。それでは賊に兵を貸し盗人に糧を贈るようなものだ。
56 奢る者は富んでいながら足りない。倹(つま)しい者が貧しくても余りがあるのに、どうして及ぼう。有能な者は労して怨みを蓄える。拙(つたな)い者が安らかで真を全うするのに、どうして及ぼう。
57 書を読んで聖賢に出会わなければ、鉛と木簡の雇われ人である。官に居て民を愛さなければ、衣冠をつけた盗人である。学を講じて自ら行うことを尚(たっと)ばなければ、口先だけの禅である。業を立てて徳を種えることを思わなければ、目の前だけの花である。
58 人の心には一部の真の文章があるのに、みな残った書物の断片に封じ込められている。一部の真の音楽があるのに、みな妖しい歌と艶やかな舞に埋もれている。学ぶ者は外物を掃き除け、まっすぐ本来のものを覓(もと)めよ。そうしてはじめて真の受用がある。
59 苦しい心の中にこそ、いつも心を悦ばせる趣が得られる。得意のときにこそ、失意の悲しみが生じる。
60 富貴と名誉が道徳から来る者は、山林の中の花のようで、おのずと舒(ゆる)やかに繁り広がる。功業から来る者は、鉢や垣の中の花のようで、移し替えや廃れ興りがある。もし権力によって得た者なら、瓶や鉢の中の花のようで、その根は植わっておらず、萎れるのは立ったまま待てるほどである。
六十一〜八十ろくじゅういち—はちじゅう
61 春が来て時候が和らげば、花さえひとしきり好い色を敷き、鳥さえ幾句か好い音を囀る。士君子が幸いにも頭角を列ね、そのうえ暖かさと飽きを得ていながら、好い言葉を立て好い事を行うことを思わないなら、世に百年あっても、一日も生まれなかったのと同じである。
62 学ぶ者はひとしきりの兢(つつし)み業(はげ)む心づかいを持ち、そのうえひとしきりの瀟洒(しょうしゃ)な趣を持たねばならない。ひたすら斂(おさ)め束ねて清く苦しいばかりなら、それは秋の殺(しゅう)があって春の生がないようなもので、どうして万物を発し育てられよう。
63 真の廉(れん)には廉の名がない。名を立てる者は、まさにそれによって貪っているのだ。大いなる巧みさには巧みな術がない。術を用いる者は、それによって拙(つたな)いのだ。
64 欹器(きき)は満ちることで覆り、撲満(貯金壺)は空であることで全うされる。だから君子は、有るところに居るよりむしろ無いところに居り、完(まった)きところに処するよりむしろ欠けたところに処する。
65 名の根を抜いていない者は、たとえ千乗を軽んじ一瓢に甘んじても、結局は塵の情に堕ちている。客気を融かしきっていない者は、たとえ四海を潤し万世を利しても、ついには余計な技にすぎない。
66 心の本体が光り明るければ、暗い部屋の中にも青空がある。念が暗く昧(くら)ければ、白日のもとにも厲鬼(れいき)が生じる。
67 人は名と位を楽しみと知っていて、名もなく位もないことの楽しみが最も真であることを知らない。人は飢えと寒さを憂いと知っていて、飢えもせず寒くもない者の憂いのほうがなお甚だしいことを知らない。
68 悪を為して人を畏れるなら、悪の中にもなお善への路が残っていると知れる。善を為して人に急いで知らせようとするなら、善の場所がそのまま悪の根だと知れる。
69 天の仕掛けは測りがたい。抑えては伸ばし、伸ばしては抑える。みな英雄を弄(もてあそ)び、豪傑を顛倒させるところである。君子はただ逆らって来るものを順(すなお)に受け、安らかなときに危うさを思う。そうすれば天もその手わざを用いるところがない。
70 性の燥(あら)い者は火が熾(さか)んで、物に遇えば焼く。恩の寡(すく)ない者は氷のように清くて、物に逢えば必ず殺す。凝り滞って固執する者は、死んだ水や腐った木のようで、生きる働きがすでに絶えている。いずれも功業を建て福祉を延ばすのは難しい。
71 福は求めて得られるものではない。喜ぶ神(こころ)を養って、福を招く本(もと)とするだけのことだ。禍は避けられるものではない。殺(そこな)う働きを去って、禍を遠ざける方(みち)とするだけのことだ。
72 十のうち九つ言い当てても必ずしも奇とは称されないが、一つ言い外せば咎めが群がり集まる。十のうち九つ謀りが成っても必ずしも功に帰されないが、一つ成らなければ謗りが叢(むら)がり興る。君子が、むしろ黙して躁(さわ)がず、むしろ拙くして巧まないのはこのためである。
73 天地の気は、暖かければ生じ、寒ければ殺(そこな)う。だから性と気の清く冷たい者は、享け受けるものもまた涼しく薄い。ただ和やかな気と熱い心の人だけが、その福もまた厚く、その沢(うるおい)もまた長い。
74 天理の路の上はたいそう広く、少し心を遊ばせるだけで、胸中は広大で宏(おお)らかに明るくなる。人欲の路の上はたいそう狭く、わずかに跡を寄せただけで、目の前はみな茨と泥の途(みち)になる。
75 一つの苦と一つの楽が磨き練り合って、練りが極まって成った福は、その福がはじめて久しい。一つの疑いと一つの信が参(まじ)え勘(かんが)え合って、勘えが極まって成った知は、その知がはじめて真である。
76 心は虚(むな)しくないわけにいかない。虚しければ義理が来て住まう。心は実(み)ちないわけにいかない。実ちていれば物欲が入らない。
77 土は穢(きたな)いほど多く物を生み、水は清いほど魚がいない。だから君子は垢を含み汚れを納れる度量を存(お)くべきで、潔さを好んで独り行く操(みさお)を持つべきではない。
78 車を覆すような荒馬も、駆り立てて走らせられる。炉から躍り出る金も、ついには型に収まる。ただ悠々として振るわないだけでは、生涯一歩の進みもない。白沙(陳献章)が言った——「人となって病が多いのは恥じるに足りない。一生病がないことこそ、わが憂いだ」。まことに確かな論である。
79 人はただ一念の貪りと私によって、剛を銷(と)かして柔にし、智を塞いで昏(くら)くし、恩を変じて惨(むご)くし、潔を染めて汚(けが)し、一生の人品を壊してしまう。だから古人は貪らないことを宝とした。それで一世を超え越えたのである。
80 耳と目の見聞きは外の賊であり、情欲と意識は内の賊である。ただ主人公が惺々(せいせい)として昧(くら)まず、独り堂の真ん中に坐っていれば、賊はそのまま家の人になる。
八十一〜一〇〇はちじゅういち—ひゃく
81 まだ成らない功を図るより、すでに成った業を保つほうがよい。すでに過ぎた失(あやまち)を悔いるより、これから来る非を防ぐほうがよい。
82 気象は高く曠(ひろ)くありたいが、疎(あら)く狂ってはならない。心づかいは縝密(しんみつ)でありたいが、瑣(こま)ごまと屑(くだ)けてはならない。趣味は沖(ちゅう)淡でありたいが、偏って枯れてはならない。操守は厳しく明らかでありたいが、激烈であってはならない。
83 風が疎らな竹に来ても、風が過ぎれば竹は声を留めない。雁が寒い潭(ふち)を渡っても、雁が去れば潭は影を留めない。だから君子は、事が来てはじめて心が現れ、事が去れば心もそれに随って空(むな)しくなる。
84 清らかでいて容れることができ、仁でいてよく断ずることができ、明るくても察しすぎて傷つけず、直(すぐ)でも矯(た)めすぎない。これを、蜜漬けでも甘すぎず、海の味でも鹹(から)すぎないという。それでこそ懿(よ)き徳である。
85 貧しい家でも地面を浄(きよ)く掃き、貧しい娘でも髪を浄く梳(くしけず)れば、景色は艶やかでなくとも、気(けだか)さはおのずと風雅である。士君子がひとたび窮愁と寥落(りょうらく)に当たったからといって、どうしてすぐ自ら廃(すた)れ弛(ゆる)んでよかろうか。
86 閑(ひま)なときに放り過ごさなければ、忙しいところで受用がある。静かなときに空に落ちなければ、動くところで受用がある。暗いところで欺き隠さなければ、明るいところで受用がある。
87 念が起こるところで、欲の路へ向かうと覚えたら、すぐ挽(ひ)いて理の路へ戻せ。起これば即座に覚え、覚えれば即座に転じる。これが禍を転じて福とし、死に起(た)って生に回(かえ)る関門である。くれぐれも軽々しく見過ごすな。
88 静かな中で念と慮りが澄み徹れば、心の真の体が見える。閑な中で気象が従容としていれば、心の真の機(はたらき)が識れる。淡い中で意と趣が沖(ちゅう)夷(い)であれば、心の真の味が得られる。心を観じ道を証するのに、この三つに勝るものはない。
89 静かな中の静けさは真の静けさではない。動くところで静けさを得てこそ、性の天の真の境である。楽しいところの楽しみは真の楽しみではない。苦しい中で楽しみを得てこそ、心の本体の真の機が見える。
90 自分を捨てるなら、そこに疑いを置くな。疑いを置けば、捨てたその志が恥ずかしいものになる。人に施すなら、その報いを責めるな。報いを責めれば、施したその心まで台無しになる。
91 天が私に福を薄くするなら、私はわが徳を厚くしてこれを迎える。天が私を形(からだ)で労するなら、私はわが心を逸(やす)んじてこれを補う。天が私を境遇で阨(くる)しめるなら、私はわが道を亨(とお)らせてこれを通す。天とて私をどうできよう。
92 貞(ただ)しい士は心に福を求めない。天はまさにその無心のところでその衷(こころ)を牖(みちび)く。険しい人は意を凝らして禍を避ける。天はまさにその意を凝らしたところでその魄(たましい)を奪う。天の仕掛けと権(はか)らいがいかに神(くす)しいか、人の智と巧みさが何の益になろう。
93 歌い女(め)が晩年に身を退いて良人に従えば、一生の艶(あで)やかさも障りにならない。貞淑な妻が白髪になって守りを失えば、半生の清苦もみな台無しになる。ことわざに言う——「人を見るなら後の半分だけを見よ」。まことに名言である。
94 平民でも徳を種え恵みを施そうとするなら、それは位のない公卿宰相である。士大夫でもいたずらに権を貪り寵を売るなら、結局は爵のある乞食である。
95 祖先の徳沢を問えば、わが身が享けているものである。それを積み重ねた難しさを念うべきだ。子孫の福祉を問えば、わが身が遺すものである。それが傾き覆るたやすさを思うべきだ。
96 君子でありながら善を詐るのは、小人が悪をほしいままにするのと異ならない。君子でありながら節を改めるのは、小人が自ら新たになるのにも及ばない。
97 家の者に過ちがあれば、激しく怒るのはよくなく、軽々しく見捨てるのもよくない。その事が言いにくければ、他の事に借りてそれとなく諷(ほの)めかす。今日悟らなければ、明日を俟(ま)ってまた警(いまし)める。春風が凍りを解くように、和やかな気が氷を消すように。それでこそ家庭の型である。
98 この心を常に円満に見ていられれば、天下にはおのずと欠けた世界がない。この心を常に寛く平らかに放っていられれば、天下にはおのずと険しく側(かたよ)った人情がない。
99 淡泊な士は、必ず濃く艶やかな者に疑われる。身を検(つつし)み飾らぬ人は、多く放肆な者に忌まれる。君子はこうしたところで、もとよりその操り履(ふ)むところを少しも変えてはならないが、また鋒芒(ほうぼう)を露わにしすぎてもならない。
100 逆境の中に居れば、身のまわりはみな鍼(はり)と砭(いしばり)、薬石であって、節を砥(と)ぎ行いを礪(みが)いていながらそれと覚えない。順境の内に処すれば、目の前はことごとく刃と矛であって、膏(あぶら)を銷(と)かし骨を靡(くず)していながらそれと知らない。(「薬石」——底本は「楽石」に作る。通校本に従って改めた。)
一〇一〜一二〇ひゃくいち—ひゃくにじゅう
101 富貴の中に生まれ育った者は、嗜欲が猛火のようで、権勢が烈しい焰のようである。いくらか清く冷たい気味を帯びなければ、その炎は人を焼くには至らずとも、必ず自分を爍(と)かすことになる。
102 人の心がひとたび真であれば、霜さえ飛ばせ、城さえ隕(おと)せ、金石さえ貫ける。偽り妄(いつわ)る人なら、形骸だけは具えていても真の主はすでに亡んでいて、人に対しては面目が憎らしく、独り居れば自分の影に恥じる。
103 文章が極みに至れば、ほかに奇はない。ただ「ちょうどよい」だけである。人品が極みに至れば、ほかに異はない。ただ「もとのまま」だけである。
104 幻の跡から言えば、功名富貴はもちろん、手足の体さえ委(あず)かりものの形である。真の境から言えば、父母兄弟はもちろん、万物がみなわが一体である。人がこれを看破し、真と認められれば、天下の荷を担うこともでき、また世間の轡(くつわ)と鎖から脱けることもできる。
105 口に爽やかな味は、みな腸を爛(ただ)れさせ骨を腐らせる薬である。五分にとどめれば殃(わざわ)いはない。心に快い事は、ことごとく身を敗り徳を喪う媒(なかだち)である。五分にとどめれば悔いはない。
106 人の小さな過ちを責めず、人の隠しごとを暴かず、人の古い悪を念わない。この三つは徳を養うこともでき、また害を遠ざけることもできる。
107 士君子は身の持ち方を軽くしてはならない。軽ければ物がこちらを撓(たわ)め、悠閑で鎮まった趣がなくなる。意の用い方を重くしてはならない。重ければ自分が物に泥(なず)み、瀟洒で活き活きした機がなくなる。
108 天地には万古があるが、この身は二度と得られない。人生はただ百年だが、この一日が最も過ぎやすい。幸いにその間に生まれた者は、生のあることの楽しみを知らないわけにいかず、また虚しく生きることの憂いを懐かないわけにもいかない。
109 怨みは徳によって彰(あら)われる。だから人にこちらを徳とさせるより、徳も怨みも両ながら忘れさせるほうがよい。仇は恩によって立つ。だから人に恩を知らせるより、恩も仇もともに泯(ほろ)ぼすほうがよい。
110 老いてからの病は、みな壮んなときに招いたものである。衰えてからの罪業は、みな盛んなときに作ったものである。だから盈(み)ちたところを持し満ちたところを履(ふ)むとき、君子はとりわけ兢(つつし)むのである。
111 私の恩を売るのは、公の議(ぎ)を扶(たす)けるに及ばない。新しい知己を結ぶのは、旧い誼(よしみ)を敦(あつ)くするに及ばない。栄えある名を立てるのは、隠れた徳を種えるに及ばない。奇(すぐ)れた節を尚ぶのは、平凡な行いを謹むに及ばない。
112 公平な正論には手を触れてはならない。ひとたび触れれば万世に羞(はじ)を遺す。権門の私の抜け穴には足を着けてはならない。ひとたび着ければ終身の汚点になる。
113 意を曲げて人に喜ばれるより、身を直(すぐ)にして人に忌まれるほうがよい。善がないのに人の誉れを得るより、悪がないのに人の毀りを得るほうがよい。
114 父兄や骨肉の変事に処するには、従容たるのがよく、激烈なのはよくない。朋友や交遊の過失に遇ったときは、剴切(がいせつ)であるのがよく、悠々と見過ごすのはよくない。
115 小さなところで漏らさず、暗いところで欺き隠さず、末路で怠り荒(すさ)まない。それでこそ真の英雄である。
116 千金をもってしても一時の歓びは結びがたく、一杯の飯が終身の感を致すこともある。思うに、愛が重すぎればかえって仇となり、薄さが極まればかえって喜びになるのだ。
117 巧みさを拙さの中に蔵し、晦(くら)さを用いて明るくし、清らかさを濁りの中に寓(よ)せ、屈することを伸びることとする。これはまことに世を渡る一つの瓢(ひさご)であり、身を蔵す三つの穴である。
118 衰え颯(すさ)ぶ景色は、まさに盛んに満ちた中にある。生じ発する仕掛けは、まさに零(お)ち落ちた内にある。だから君子は、安らかに居るときは一つの心を操って患いを慮り、変事に処しては百の忍びを堅くして成ることを図る。
119 奇に驚き異を喜ぶ者には、遠大な識見がない。苦しい節を守って独り行く者は、恒久の操ではない。
120 怒りの火と欲の水がまさに騰(たぎ)り沸くところで、はっきりそうと知っていながら、またはっきり犯してしまう。知っているのは誰か。犯しているのはまた誰か。ここで猛然と念を転じられれば、邪(よこしま)な魔がそのまま真の君(きみ)になる。
一二一〜一四〇ひゃくにじゅういち—ひゃくよんじゅう
121 偏(かたよ)って信じて奸(かん)に欺かれるな。自分に任せて気に使われるな。自分の長所で人の短所を際立たせるな。自分の拙さゆえに人の能を忌むな。
122 人の短所は、曲げてでも縫い合わせてやるべきだ。暴(あば)いて言い立てれば、それは短をもって短を攻めることになる。人に頑(かたく)なな者があれば、善く化し誨(おし)えるべきだ。忿(いか)って嫉めば、それは頑をもって頑を済(な)すことになる。
123 沈み沈んで物を言わない士に遇ったら、心を明け渡すな。悻々(こうこう)として自ら善しとする人を見たら、口に用心せよ。
124 念が昏(くら)く散じているところでは、提げて醒ますことを知れ。念が切迫しているときは、放ち下ろすことを知れ。そうでなければ、昏々たる病を去っても、また憧々(しょうしょう)たる擾(みだ)れが来るだろう。
125 晴れた日の青空が、たちまち迅(はや)い雷と震う電に変わる。疾い風と怒る雨が、たちまち朗らかな月と晴れた空に転じる。気の働きに、いつ毛一筋の凝り滞りがあろう。太虚に、いつ毛一筋の障り塞がりがあろう。人の心の本体も、またこのようであるべきだ。
126 私に勝ち欲を制する工夫については、識(し)るのが早くなく力が及びにくいと言う者があり、識り破っても忍びきれないと言う者がある。思うに識とは魔を照らす一顆の明珠であり、力とは魔を斬る一振りの慧剣である。どちらも欠かせない。
127 人の詐りを覚っても言葉に出さず、人の侮りを受けても色に動かさない。この中には無窮の意味があり、また無窮の受用がある。
128 横(よこしま)な仕打ちと困窮は、豪傑を鍛え練る一揃いの炉と槌である。その鍛錬を受けられれば、身も心も交(こもごも)益を得る。その鍛錬を受けられなければ、身も心も交損なわれる。
129 わが身は一つの小さな天地である。喜怒を愆(あやま)たず、好悪に則(のり)を持たせれば、それが天地を燮(やわ)らげ理(おさ)める工夫である。天地は一つの大きな父母である。民に怨み嘆きがなく、物に禍々しい病がないようにすれば、それもまた睦(むつ)みを敦(あつ)くする気象である。
130 人を害する心は持ってはならず、人に備える心は無くてはならない。これは慮りの疎かなことを戒めた言葉である。むしろ人に欺かれても、人の詐りを先回りして逆(むか)え撃つな。これは察しすぎて傷つくことを警めた言葉である。この二語を併せ存しておけば、精(こま)やかで明るく、そして渾(おお)らかで厚い。
131 衆人が疑うからといって自分の独りの見識を阻むな。自分の意に任せて人の言を廃するな。小さな恵みを私して大体を傷つけるな。公の議論を借りて私情を快くするな。
132 善い人とまだ急に親しめないうちは、前もって褒め揚げないほうがよい。讒(そし)り譖(そし)る奸を招くおそれがある。悪い人をまだ軽々しく除けないうちは、先に手を出さないほうがよい。罪をこしらえられる禍を招くおそれがある。
133 青天白日のような節義は、暗い部屋、雨漏りのする隅から培われてくる。乾坤を旋(めぐ)らし転じる経綸は、深淵に臨み薄氷を履(ふ)むところから操(と)り出される。
134 父が慈しみ子が孝であり、兄が友(いつく)しみ弟が恭しいのは、たとえ極みまで行っても、みな当然そうあるべきことであって、毛ほどの感激の念も付け加えてはならない。施す者が徳を任じ、受ける者が恩を懐くようでは、それはもう路の他人であり、市(いち)の商いの道になってしまう。
135 妍(うつく)しさがあれば必ず醜さがその対になる。私が妍しさを誇らなければ、誰が私を醜いとできよう。潔さがあれば必ず汚れがその仇になる。私が潔さを好まなければ、誰が私を汚せよう。
136 炎(あつ)くなったり涼しくなったりする人の態度は、貧賤の間よりも富貴の間でいっそう甚だしい。妬み忌む心は、他人よりも骨肉の間でいっそう狠(むご)い。こうしたところで、冷たい腸をもって当たり、平らかな気をもって御さなければ、日々煩悩の障りの中に坐らずにいられる者は稀である。
137 功と過は少しも混ぜてはならない。混ぜれば人は怠り堕(くだ)る心を懐く。恩と仇はあまり明らかにしてはならない。明らかにすれば人は離れ二心を抱く志を起こす。
138 爵位は盛んすぎてはならない。盛んすぎれば危うい。能(よ)くする事は尽くし終えてはならない。尽くし終えれば衰える。行いと誼(ぎ)は高すぎてはならない。高すぎれば謗りが興り毀りが来る。
139 悪は陰(かく)れるのを忌み、善は陽(あら)われるのを忌む。だから悪で顕れたものは禍が浅く、隠れたものは禍が深い。善で顕れたものは功が小さく、隠れたものは功が大きい。
140 徳は才の主であり、才は徳の奴(しもべ)である。才があって徳がなければ、家に主がなくて奴が事を取り仕切るようなものだ。どうして魍魎(もうりょう)が猖狂(しょうきょう)せずにいられよう。
一四一〜一六〇ひゃくよんじゅういち—ひゃくろくじゅう
141 奸を鋤(す)き倖(こう)を杜(ふさ)ぐにも、一条の去り路は残してやらねばならない。まったく容れるところをなくせば、たとえば鼠の穴を塞ぐのに、逃げ道をすべて塞ぎ尽くすようなもので、そうなれば良い物をみな咬み破られる。
142 人と過ちを共にするのはよいが、人と功を共にするのはよくない。功を共にすれば互いに忌み合う。人と患難を共にするのはよいが、人と安楽を共にするのはよくない。安楽を共にすれば互いに仇となる。
143 士君子で貧しくて物によって人を済(すく)えない者も、人が癡迷(ちめい)しているところに遇えば一言を出して醒まし、人が急難のところに遇えば一言を出して解き救う。それもまた無量の功徳である。
144 飢えれば付き、飽けば飛び去る。暖かければ趨(はし)り、寒ければ捨てる。人情に通じた患いである。君子は冷たい眼を浄く拭っておくべきで、慎んで剛い腸を軽々しく動かすな。
145 徳は量に随って進み、量は識によって長ずる。だからその徳を厚くしようとするなら、その量を弘(ひろ)くしないわけにいかない。その量を弘くしようとするなら、その識を大きくしないわけにいかない。
146 一つの灯が蛍のように点(とも)り、万の音がひとつも鳴らない。これが我々がはじめて宴(しず)かな寂に入るときである。暁の夢からはじめて醒め、もろもろの動きがまだ起きない。これが我々がはじめて混沌から出るところである。これに乗じて一念の光を回(めぐ)らし、炯(あきら)かに返し照らせば、はじめて耳も目も口も鼻もみな桎梏(しっこく)であり、情欲も嗜好もことごとくからくりであったと知れる。
147 己に反(かえ)る者は、触れる事がみな薬石になる。人を咎める者は、念を動かすたびにそれが戈(ほこ)と矛になる。一つはもろもろの善への路を闢(ひら)き、一つはもろもろの悪の源を濬(さら)う。隔たりは天と地ほどである。
148 事業も文章も、身に随って銷(き)え毀れるが、精神は万古に新しいままである。功名も富貴も、世を逐って転じ移るが、気節は千載も一日のようである。君子はまことに、あれをもってこれに易(か)えるべきではない。
149 魚を捕る網を張れば、鴻(おおとり)がその中に罹(かか)る。螳螂(かまきり)が貪れば、雀がまたその後ろに乗じる。仕掛けの裏に仕掛けが蔵され、変化の外に変化が生じる。智や巧みさがどうして恃むに足りよう。
150 人となるのに一点の真に懇(ねんご)ろな念がなければ、ただの乞食になって、何ごとも虚しい。世を渡るのにひとしきりの円(まろ)く活きた機趣がなければ、ただの木の人形で、どこへ行っても障りがある。
151 水は波立たなければおのずと定まり、鏡は曇らなければおのずと明るい。だから心は清めようがない。それを混(にご)らせているものを去れば、清らかさはおのずと現れる。楽しみは尋ねるまでもない。それを苦しめているものを去れば、楽しみはおのずと存(あ)る。
152 一つの念で鬼神の禁を犯し、一つの言葉で天地の和を傷つけ、一つの事で子孫の禍を醸(かも)すことがある。最も切に戒めるべきである。
153 事には、急いては明らかにならないものがある。寛(ゆる)やかに構えればおのずと明らかになることもある。躁(あせ)り急いでその忿(いか)りを速めてはならない。人には、操(あやつ)っては従わない者がある。放っておけばおのずと化(かわ)ることもある。操り切って、その頑(かたく)なさを増してはならない。
154 節義が青雲を傲(しの)ぎ、文章が白雪より高くとも、徳性によってこれを陶(こ)ね鎔(と)かさなければ、結局は血気の私、技能の末に終わる。
155 事を辞するのは、まさに盛んなときに辞するがよい。身を置くのは、独り後ろの地に置くがよい。徳を謹むのは、至って微(かす)かな事において謹まねばならない。恩を施すのは、報いてこない人に施すよう努めよ。
156 市(いち)の人と交わるのは、山の翁と友になるに及ばない。朱塗りの門を訪ねるのは、白木の家に親しむに及ばない。街の噂や巷の話を聴くのは、樵(きこり)の歌や牧童の詠(うた)を聞くに及ばない。今の人の徳を失った所業を談じるのは、古人の嘉(よ)き言葉と懿(よ)き行いを述べるに及ばない。
157 徳は事業の基(いしずえ)である。基が固くなくて棟や宇(のき)が堅く久しかったためしはない。心は後裔の根である。根が植わっていなくて枝や葉が栄え茂ったためしはない。(「心者」——底本は「必者」に作る。通校本に従って改めた。)
158 前人が言った——自分の家の尽きぬ蔵を抛(なげう)っておいて、門ごとに鉢を持って貧しい子を真似ている、と。また言った——にわか成金の貧しい子よ、夢を語るのはよせ。どこの家の竈(かまど)に火の煙がないものか、と。一つは自分の持っているものに自ら昧(くら)いのを箴(いまし)め、一つは自分の持っているものを自ら誇るのを箴めている。学問の切なる戒めとすべきである。
159 道は一重の公(おおやけ)の物であって、人に随って引き導くべきものだ。学は一つの平凡な家の飯であって、事に随って警め惕(おそ)れるべきものだ。
160 人を信じる者は、人が必ずしもみな誠であるとは限らないが、自分だけは誠である。人を疑う者は、人が必ずしもみな詐りであるとは限らないが、自分が先に詐りである。
一六一〜一八〇ひゃくろくじゅういち—ひゃくはちじゅう
161 念の寛やかで厚い人は、春風が煦(あたた)め育てるようで、万物はこれに遭って生きる。念の忌(ねた)み刻(むご)い人は、朔北の雪が陰(くら)く凝るようで、万物はこれに遭って死ぬ。
162 善を為してその益が見えないのは、草に裹(つつ)まれた冬瓜のようで、おのずと暗いうちに長じているはずだ。悪を為してその損が見えないのは、庭先の春の雪のようで、必ずひそかに消えているはずだ。
163 古い馴染みの交わりに遇えば、意気はいよいよ新しくありたい。隠れて微かな事に処すれば、心と跡はいよいよ顕(あき)らかでありたい。衰え朽ちた人に接するには、恩と礼はいよいよ隆(あつ)くありたい。
164 勤める者は徳義に敏(さと)いのに、世の人は勤めを借りてその貪りを済(な)す。倹(つま)しい者は貨や利に淡いのに、世の人は倹を借りてその吝(やぶさ)かさを飾る。君子が身を持する符(しるし)が、かえって小人が私を営む道具になっている。惜しいことだ。
165 その場の意と興に憑(よ)って為す者は、為せばすぐ止(や)む。どうして退かない輪(法輪)であろう。情と識から悟る者は、悟りがあれば迷いがある。ついに常に明るい灯ではない。
166 人の過ち誤りは恕(ゆる)すべきだが、自分においては恕してはならない。自分の困窮と辱めは忍ぶべきだが、人においては忍んではならない。
167 俗を脱しうるのがそのまま奇である。意(こころ)を作って奇を尚ぶ者は、奇ではなく異になる。汚れに合わないのがそのまま清である。俗を絶って清を求める者は、清ではなく激になる。
168 恩は淡いところから濃いところへ向かうのがよい。先に濃く後に淡ければ、人はその恵みを忘れる。威は厳しいところから寛やかなところへ向かうのがよい。先に寛やかで後に厳しければ、人はその酷さを怨む。
169 心が虚しければ性が現れる。心を息(や)めずに性を見ようとするのは、波をかき分けて月を覓(もと)めるようなものだ。意が浄ければ心が清い。意を了(お)えずに心を明らかにしようとするのは、鏡を索(もと)めながら塵を増すようなものだ。
170 自分が貴くて人が奉(たてまつ)るのは、この高い冠と大きな帯を奉っているのだ。自分が賤しくて人が侮るのは、この布の衣と草の履(くつ)を侮っているのだ。とすれば、もともと私を奉っているのではない。私はなぜ喜ぶのか。もともと私を侮っているのではない。私はなぜ怒るのか。
171 鼠のためにいつも飯を留め、蛾を憐れんで灯を点さない。古人のこうした念こそ、我々の一点の生き生きとした働きである。これがなければ、いわゆる土と木の形骸にすぎない。
172 心の本体はそのまま天の本体である。一念の喜びは景星(けいせい)と慶雲、一念の怒りは震う雷と暴(はげ)しい雨。一念の慈しみは和やかな風と甘い露、一念の厳しさは烈しい日と秋の霜。どれが欠けてよかろう。ただ起こるに随って滅するに随い、廓然(かくぜん)として障りがなければ、それで太虚と体を同じくする。
173 事のないときは心が昏(くら)く冥(くら)くなりやすい。寂々としていながら惺々(せいせい)として照らすのがよい。事のあるときは心が奔(はし)り逸(そ)れやすい。惺々としていながら寂々を主とするのがよい。
174 事を議する者は、身が事の外にある。利害の実情を悉(つ)くすのがよい。事に任じる者は、身が事の中に居る。利害の慮りを忘れるべきである。
175 士君子が権門や要路にあるときは、操り履むところは厳しく明らかでありたく、心と気は和やかで易(やす)らかでありたい。少しでも随って生臭い党に近づいてはならず、また激しすぎて蜂や蠍の毒を犯してもならない。
176 節義を標榜する者は、必ず節義によって謗られる。道学を掲げる者は、常に道学によって咎めを招く。だから君子は悪い事に近づかず、また善い名も立てない。ただ渾然とした和やかな気、それこそが身を置く珍(たから)である。
177 欺き詐る人に遇えば、誠の心をもってこれを感じ動かす。暴(あら)く戻(もと)った人に遇えば、和やかな気をもってこれを熏(く)じ蒸(む)す。傾き邪(よこしま)で私に曲がった人に遇えば、名と義、気と節をもってこれを激し礪(みが)く。そうすれば天下に、わが陶冶(とうや)の中に入らない者はない。
178 一念の慈しみと祥(さいわ)いは、天地の間の和やかな気を醸(かも)すことができる。寸(わず)かな心の潔白は、百代にわたる清らかな芬(かおり)を昭(あき)らかに垂れることができる。
179 陰(かく)れた謀り、怪しい習わし、異なる行い、奇(く)しき能(わざ)は、みな世を渡るうえでの禍の胎(はら)みである。ただ一つ、平凡な徳と平凡な行いだけが、混沌を全うして和平を招くことができる。
180 ことわざに言う——山に登るには側(かたむ)いた路を耐え、雪を踏むには危うい橋を耐えよ、と。この「耐」の一字にはきわめて意味がある。傾き険しい人情、坎坷(かんか)たる世の道において、この「耐」の一字を得て撐(ささ)え持って通り過ぎなければ、榛(はしばみ)の茂みや坑(あな)や塹(ほり)に堕ちない者がどれほどあろう。
一八一〜二〇〇ひゃくはちじゅういち—にひゃく
181 功業を誇り逞(たくま)しくし、文章を炫(てら)い耀かすのは、みな外の物に頼って人となることである。心の本体が瑩(あき)らかで、もともと失われていないことを知らないのだ。たとえ寸(わず)かの功も一字の文もなくとも、おのずと堂々正々と人になれるところがある。
182 忙しい中で閑(ひま)を偸(ぬす)もうとするなら、まず閑なときに一つの柄(とって)を討(もと)めておかねばならない。騒がしい中で静けさを取ろうとするなら、まず静かなところで一つの主宰を立てておかねばならない。そうでなければ、境に因って遷(うつ)り、事に随って靡(なび)かない者はない。
183 自分の心を昧(くら)まさず、人の情を尽くさせず、物の力を竭(つ)くさない。この三つによって、天地のために心を立て、生民のために命を立て、子孫のために福を造ることができる。
184 官に居るには二語がある。ただ公であってこそ明が生じ、ただ廉であってこそ威が生じる。家に居るには二語がある。ただ恕であってこそ情が平らかになり、ただ倹であってこそ用が足りる。
185 富貴の地に処しては、貧賤の痛みと痒みを知らねばならない。少壮のときに当たっては、衰え老いることの辛さと酸(す)さを念わねばならない。
186 身の持ち方はあまり皎(しろ)く潔くしてはならない。あらゆる汚れと辱め、垢と穢れを、茹(の)み納(い)れられねばならない。人との接し方はあまり分明にしてはならない。あらゆる善悪と賢愚を、包み容れられねばならない。
187 小人と仇を結ぶな。小人にはおのずと相手が現れる。君子に諂(へつら)い媚びるな。君子にはもともと私の恵みがない。
188 欲をほしいままにする病は医(いや)せるが、理に執着する病は医しにくい。事物の障りは除けるが、義理の障りは除きにくい。
189 磨き礪くのは百たび煉った金のようであるべきで、急いで仕上げた者には深い養いがない。施し為すのは千鈞の弩(いしゆみ)のようであるべきで、軽々しく発する者には宏(おお)きな功がない。
190 むしろ小人に忌み毀られても、小人に媚び悦ばれるな。むしろ君子に責め備えられても、君子に包み容れられるな。
191 利を好む者は、道義の外へ逸れ出る。その害は顕れていて浅い。名を好む者は、道義の中へ竄(もぐ)り入る。その害は隠れていて深い。
192 人の恩を受けても、深くとも報いず、怨みなら浅くとも報いる。人の悪を聞けば、隠れていても疑わず、善なら顕れていても疑う。これは刻(むご)さの極み、薄さのきわみである。切に戒めるべきだ。
193 讒(そし)る者が士を毀るのは、寸(わず)かな雲が日を蔽うようなもので、久しからずしておのずと明るくなる。媚びる者が人に阿(おもね)るのは、隙間風が肌を侵すようなもので、その損なわれるのに気づかない。
194 山の高く峻(けわ)しいところに木はないが、谿谷が回り環(めぐ)れば草木が叢(むら)がり生じる。水の湍(はや)く急なところに魚はないが、淵や潭(ふち)が停まり蓄えれば魚や鼈(すっぽん)が聚(あつ)まる。この高く絶した行い、褊(せま)く急(せ)く心を、君子は重ねて戒めとする。
195 功を建て業を立てる者には、虚(むな)しく円(まろ)やかな士が多い。事を僨(やぶ)り機を失う者は、必ず執(かたく)なで拗(ねじ)けた人である。
196 世に処するには、俗と同じであるのもよくなく、俗と異なるのもよくない。事を為すには、人に厭(いと)われるのもよくなく、人に喜ばれるのもよくない。
197 日がすでに暮れても、なお煙霞が絢爛としている。歳がまさに晩(く)れようとしても、さらに橙や橘が芳しく馨(かお)る。だから末路の晩年にこそ、君子はいっそう精神を百倍にすべきである。
198 鷹が立つさまは眠るようで、虎が行くさまは病むようである。それこそが人を攫(つか)み人を噬(か)む手立てのあるところだ。だから君子は、聡明を露わさず、才華を逞しくしない。それではじめて鴻(おお)きなものを肩にし鉅(おお)きなものを任じる力量がある。
199 倹(つま)しさは美徳だが、度を過ぎれば慳吝(けんりん)となり鄙嗇(ひしょく)となって、かえって雅(みやび)な道を傷つける。譲ることは懿(よ)き行いだが、度を過ぎれば足恭(すうきょう)となり曲謹(きょくきん)となって、多くはからくり心から出る。
200 意に逆らうことを憂えるな。心に快いことを喜ぶな。久しい安らぎを恃むな。初めの難しさを憚(はばか)るな。
二〇一〜二二〇にひゃくいち—にひゃくにじゅう
201 飲み宴(うたげ)の楽しみが多ければ、好い家ではない。声(おと)と華(はな)やかさの習いが勝っていれば、好い士(さむらい)の子ではない。名と位への念が重ければ、好い臣下ではない。
202 世の人は心が肯(うべな)うところを楽しみとするが、かえってその楽しむ心に引かれて苦しいところへ行く。達した士は心が逆らうところを楽しみとし、ついには苦しむ心で楽しみを換えて得る。
203 盈(み)ち満ちたところに居る者は、水がまさに溢れようとしてまだ溢れないようなもので、もう一滴を加えるのを切に忌む。危急に処する者は、木がまさに折れようとしてまだ折れないようなもので、もう一握りを加えるのを切に忌む。(「処危急者」——底本は「虚危急者」に作る。通校本に従って改めた。)
204 冷たい眼で人を観、冷たい耳で語を聴き、冷たい情で感(こころ)に当たり、冷たい心で理を思う。
205 仁の人は心の地が寛(ゆる)やかに舒(の)びている。だから福は厚く慶(よろこ)びは長く、事ごとに寛やかに舒びた気象を成す。鄙(いや)しい男は念が迫(せま)り促(せわ)しい。だから禄は薄く沢(うるおい)は短く、事ごとに迫り促しい規模になる。
206 悪を聞いてもすぐ憎んではならない。讒(そし)る者に怒りを洩らす口実を与えるおそれがある。善を聞いても急いで親しんではならない。奸(よこしま)な人を引き入れて身を進ませるおそれがある。
207 性が躁(あら)く心が粗い者は、一事も成らない。心が和やかで気が平らかな者には、百の福がおのずと集まる。
208 人を用いるのに刻(むご)くしてはならない。刻ければ力を効(いた)そうと思う者が去る。友と交わるのに濫(みだ)りにしてはならない。濫りにすれば諛(へつら)いを貢ぐ者が来る。
209 風が斜めに吹き雨が急なところでは、足を定めて立てねばならない。花が濃く柳が艶やかなところでは、眼を高く着けねばならない。路が危うく径(こみち)が険しいところでは、早く頭(こうべ)をめぐらせねばならない。
210 節義の人は、和らいだ心をもって済(おぎな)ってこそ、忿(いか)り争う路を開かずにすむ。功名の士は、謙(へりくだ)る徳をもって承けてこそ、嫉妬の門を開かずにすむ。
211 士大夫が官に居るときは、書簡のやりとりに節がないのはよくない。人に会いにくくさせて、僥倖の端(いとぐち)を杜(ふさ)ぐべきだ。郷に居るときは、崖(きし)のように岸(たか)くしすぎるのはよくない。人に会いやすくさせて、旧い誼(よしみ)を敦(あつ)くすべきだ。
212 大人(たいじん)を畏れないわけにはいかない。大人を畏れれば放ち逸れる心がない。小民もまた畏れないわけにはいかない。小民を畏れれば豪(ごう)く横(よこしま)だという名が立たない。
213 事が少し意に逆らえば、自分に及ばない人を思え。そうすれば怨みも咎めもおのずと消える。心が少し怠り荒(すさ)めば、自分に勝る人を思え。そうすれば精神はおのずと奮う。
214 喜びに乗じて軽々しく諾(う)けてはならない。酔いに因って嗔(いか)りを生じてはならない。快さに乗じて事を多くしてはならない。倦(う)みに因って終わりを疎かにしてはならない。
215 よく書を読む者は、手が舞い足が踏むところまで読んでこそ、筌(うえ)や蹄(わな)に落ちない。よく物を観る者は、心が融け神(こころ)が洽(あま)ねくなるときまで観てこそ、跡や象(かたち)に泥(なず)まない。
216 天が一人を賢くするのは、衆人の愚かさを誨(おし)えさせるためなのに、世の人はかえって長所を逞しくして人の短所を際立たせる。天が一人を富ませるのは、衆人の困窮を済(すく)わせるためなのに、世の人はかえって持てるものを挟んで人の貧しさを凌ぐ。まことに天に戮(ころ)される民である。
217 至人は何を思い何を慮ろう。愚人は識(し)らず知らずである。どちらとも学を論じられ、どちらとも功を建てられる。ただ中位の才の人だけが、ひとしきり余分な思慮と知識があるために、ひとしきり余分な臆測と猜疑があって、何ごとも手を下しにくい。
218 口は心の門である。口を守るのが密(ひそ)やかでなければ、真の機(はたらき)を洩らし尽くす。意は心の足である。意を防ぐのが厳しくなければ、邪(よこしま)な小道を走り尽くす。
219 人を責める者は、過ちのある中にもともと過ちがないところを求めよ。そうすれば情が平らかになる。自分を責める者は、過ちのない内にも過ちがあることを求めよ。そうすれば徳が進む。
220 子弟は大人(たいじん)の胚胎であり、秀才は士大夫の胚胎である。この時に火の力が届かず、陶(こ)ね鋳(い)ることが純(じゅん)でなければ、後日に世を渡り朝廷に立っても、ついに立派な器にはなりにくい。
二二一〜二二二にひゃくにじゅういち—にひゃくにじゅうに
221 君子は患難に処しても憂えず、宴(うたげ)や遊びに当たっては惕(おそ)れ慮る。権勢ある豪の者に遇っても懼れず、孤独で身寄りのない者に対しては心を驚かせる。
222 桃や李は艶やかだが、松の蒼さ柏の翠(みどり)の堅く貞(ただ)しいのにどうして及ぼう。梨や杏は甘いが、橙の黄(き)、橘の緑の馨(かお)り冽(きよ)いのにどうして及ぼう。まことに、濃くて夭(わか)いものは淡くて久しいものに及ばず、早く秀でるものは晩(おそ)く成るものに及ばないのである。
後集こうしゅう
後集百三十四条は場所が入れ替わる。山林、窓の下、雨の後、夜半。話題は人との接し方から、閑、静、生死、有無へ移る。これを隠遁を勧める書だと思えば、まるで逆に読んだことになる。巻を開いた第一句が「山林の楽しみを譚(かた)る者、必ずしも真に山林の趣を得たるにあらず」であり、途中では「世を出る道は、そのまま世を渉(わた)る中にある。人を絶って世を逃れるには及ばない」と言い、末尾では「寂を喜び喧(さわ)がしさを厭う者は、しばしば人を避けて静けさを求めるが、その意が『人のいないこと』にある時点で、もう我(が)の相になっていると知らない」と言う。自分が薦めた琴や鶴や花卉、禅を談じ偈を演(の)べることまで、あわせて点検してしまう。この書が本当に主張するのはただ一つ——境は念が造るのだから、境を換えるより念を換えよ。末条の「寓(やど)るに随いて安んずれば、入りて得ざるところなし」の八字が、全書の落ち着きどころである。
一〜二十いち—にじゅう
1 山林の楽しみを語る者が、必ずしも真に山林の趣を得ているとは限らない。名利を語るのを厭う者が、必ずしも名利の情を忘れ尽くしているとは限らない。
2 水に釣り糸を垂れるのは逸(のど)かな事だが、それでも生殺の柄(え)を握っている。碁を打つのは清らかな戯れだが、それでも戦い争う心を動かす。事を喜ぶより事を省くほうが適(ここち)よく、多能であるより無能であるほうが真を全うすると分かる。
3 鶯と花が茂って山が濃く谷が艶やかなのは、すべて乾坤の幻の境である。水も木も落ちて石が痩せ崖が枯れて、はじめて天地の真のわが姿が見える。
4 歳月はもともと長いのに、忙しい者が自ら促(せわ)しくする。天地はもともと寛いのに、鄙(いや)しい者が自ら隘(せま)くする。風・花・雪・月はもともと閑(しず)かなのに、労(あく)せく攘(さわ)ぐ者が自ら冗(わずら)わしくする。
5 趣を得るのは多さによらない。鉢ほどの池、拳ほどの石の間にも、煙霞は十分に具わっている。景に会うのは遠さによらない。蓬(よもぎ)の窓、竹の屋(いえ)の下にも、風と月はおのずと余りある。
6 静かな夜の鐘の声を聴けば、夢の中の夢を喚(よ)び醒ます。澄んだ潭(ふち)の月影を観れば、身の外の身を窺い見る。
7 鳥の語(ことば)、虫の声は、すべて心を伝える秘訣である。花の英(はなびら)、草の色は、ことごとく道を見せる文(あや)である。学ぶ者は天の機(はたらき)を清く徹(とお)らせ、胸のうちを玲瓏にせよ。そうすれば物に触れるたびに心に会(かな)うところがある。
8 人は字のある書を読むことは解(わか)るが、字のない書を読むことは解らない。絃のある琴を弾くことは知っているが、絃のない琴を弾くことは知らない。跡によって用い、神(こころ)によって用いないのだから、どうして琴と書の趣が得られよう。
9 心に物欲がなければ、それがそのまま秋の空、霽(は)れた海である。座に琴と書があれば、それがそのまま石の室、丹(に)の丘である。
10 賓客と友が雲のように集まり、痛飲して淋漓たるのは楽しい。ところがやがて刻(とき)が尽き燭が残り少なくなり、香は銷(き)え茶は冷めて、思わずかえって嗚咽に変わり、人を索然として味気なくさせる。天下の事はおおむねこの類である。人はどうして早く頭(こうべ)をめぐらせないのか。
11 その中の趣を会得すれば、五湖の煙と月がことごとく寸(わず)かな胸に入る。目の前の機を破りえれば、千古の英雄がことごとく掌の中に帰する。
12 山河大地さえすでに微塵に属する。まして塵の中の塵においてをや。血と肉の身躯さえ泡と影に帰する。まして影の外の影においてをや。上の上の智でなければ、了々たる心はない。
13 火打石の光の中で長い短いを争って、どれほどの光陰があろう。蝸牛の角の上で雌雄を較べ論じて、どれほど大きな世界があろう。
14 寒い灯に焰がなく、破れた裘(かわごろも)に温(ぬく)みがないのは、つまるところ光景を弄(もてあそ)んでいるだけである。身が枯れ木のよう、心が死んだ灰のようであるのは、頑空(がんくう)に堕ちるのを免れない。
15 人がその場で休(や)めようとすれば、その場で了(お)わる。もし一つの歇(やす)み場所を尋ねようとするなら、婚姻や嫁入りが済んでも事は少なくなく、僧や道士は結構でも心は了わらない。前人が言った——今すぐ休むなら休めばよい。了わる時を覓(もと)めれば、了わる時はない、と。見識が卓(すぐ)れている。
16 冷たいところから熱いところを視て、はじめて熱いところで奔(はし)り馳せるのが無益だと知れる。冗(わずら)わしいところから閑(しず)かなところへ入って、はじめて閑の中の滋味が最も長いと覚える。
17 富貴を浮かぶ雲とする風があれば、必ずしも岩に棲み穴に処するには及ばない。泉石(せんせき)の癖が膏肓(こうこう)に入っていなくても、常に自ら酒に酔い詩に耽る。競い逐(お)うのは人に任せて、酔い尽くすのを嫌わず、恬淡として自ら適(ここち)よくして、独り醒めていると誇らない。これが釈氏のいう、法に纏(まと)われず、空にも纏われず、身も心も両ながら自在である、というものだ。
18 延びるか促(ちぢ)まるかは一念による。寛いか窄(せま)いかは寸(わず)かな心に繋がる。だから機(こころ)の閑(しず)かな者には、一日が千古より遥かに長い。意(こころ)の広い者には、斗ほどの室が天地の両間ほど寛い。
19 損じてまた損じ、花を栽え竹を種えて、ことごとく烏有先生(無)に交(かえ)し還す。忘れて忘れようもないところまで忘れ、香を焚き茶を煮て、そもそも白衣の童子(酒の使い)を問わない。
20 みな目の前の事である。足るを知る者には仙の境、足るを知らない者には凡の境。いずれも世の上の因から出る。善く用いる者には生きる働き、善く用いない者には殺(そこな)う働きとなる。
二十一〜四十にじゅういち—よんじゅう
21 炎(さかん)なるものに趨(はし)り勢いに付く禍は、はなはだ惨(むご)く、はなはだ速い。恬(やす)らかに棲み逸(のど)かを守る味は、最も淡く、最も長い。
22 松の澗(たにがわ)のほとりを杖を携えて独り行けば、立ったところで雲が破れた衲衣(のうえ)から生じる。竹の窓の下に書を枕にして高々と臥せば、覚めたときに月が寒い氈(かも)を浸している。
23 色欲は火のように熾(さか)んだが、一念が病んだときに及べば、興は冷えた灰のようになる。名利は飴のように甘いが、ひとたび死地に思い至れば、味は蝋を噛むようになる。だから人は常に死を憂え病を慮るがよい。それもまた幻の業(ごう)を消し、道の心を長ずるすべである。
24 先を争う小道は狭い。一歩退けば、おのずと一歩寛く平らかになる。濃く艶やかな滋味は短い。一分清く淡くすれば、おのずと一分悠(はる)かに長くなる。
25 忙しいところで性を乱さないためには、閑なところで心と神(たましい)を清く養っておかねばならない。死ぬときに心を動かさないためには、生きているうちに事物を看破しておかねばならない。
26 隠れ逸(のが)れた林の中には栄も辱もない。道義の路の上には炎(あつ)さも涼しさもない。
27 暑さは除かなくてよい。この暑さの悩みを除けば、身は常に清涼の台の上にある。貧しさは遣(や)りようがない。この貧しさの愁いを遣れば、心は常に安楽の窩(すみか)に居る。
28 歩を進めるところで退く歩を思えば、垣根に角を突っかける禍を免れよう。手を着けるときに先に手を放すことを図れば、はじめて虎に騎(の)る危うさを脱せられる。
29 貪り得る者は、金を分けてもらえば玉が得られないのを恨み、公に封じられれば侯を受けられないのを怨む。権勢ある豪の者でありながら、自ら乞食に甘んじているのだ。足るを知る者は、藜(あかざ)の羹(あつもの)を膏梁(こうりょう)より旨いとし、布の袍(うわぎ)を狐や貉(むじな)の皮衣より暖かいとする。戸籍に載るだけの民でありながら、王公にも譲らない。
30 名を誇るのは、名から逃れる趣に及ばない。事に練れているのは、事を省く閑(しず)かさにどうして及ぼう。
31 寂(しず)けさを嗜む者は、白い雲と幽(かす)かな石を観て玄(げん)に通じる。栄えに趨る者は、清らかな歌と妙なる舞を見て倦(う)みを忘れる。ただ自ら得た士だけが、喧(さわ)がしさも寂けさもなく、栄えも枯れもなく、往くところとして自ら適(ここち)よい天でないところがない。
32 孤(ひと)つの雲が岫(やま)を出れば、去るも留まるも何一つ繋がりがない。朗らかな鏡が空に懸かれば、静かも躁(さわ)がしいも両ながら関わらない。
33 悠(はる)かに長い趣は、濃く醲(こまや)かなものからは得られず、豆を啜(すす)り水を飲むところから得られる。惆悵(ちゅうちょう)たる思いは、枯れ寂びたところからは生じず、竹(笛)を品(ふ)き糸(琴)を調べるところから生じる。まことに、濃いところでは味が常に短く、淡い中でこそ趣が独り真であると知れる。
34 禅宗は言う——飢えが来れば飯を食い、倦みが来れば眠る、と。詩の旨(むね)は言う——目の前の景色、口先の言葉、と。思うに、極めて高いものは極めて平らなところに寓(やど)り、至って難しいものは至って易しいところから出る。意(こころ)ある者はかえって遠く、無心の者はおのずと近い。
35 水は流れているのに境(あたり)に声がない。喧(さわ)がしいところに居ながら寂けさを見る趣が得られる。山は高いのに雲が礙(さまた)げない。有から出て無に入る機(はたらき)を悟る。
36 山林は勝(すぐ)れた地だが、ひとたび営み恋えば市(いち)や朝廷になる。書や画は雅(みやび)な事だが、ひとたび貪り癡(おぼ)れれば商人になる。思うに、心に染まり著(つ)くものがなければ、欲界も仙の都である。心に繋がり恋うものがあれば、楽しい境も苦しみの海になる。
37 時が喧(さわ)がしく雑(みだ)れていれば、平素に記憶していたことも、みなぼんやり忘れ去る。境が清く寧(やす)らかであれば、かつて遺(わす)れていたことも、また恍(ほの)かに目の前に現れる。静と躁の少しの分かれで、昏(くら)さと明るさがにわかに異なると分かる。
38 蘆の花の被(ふすま)の下、雪に臥し雲に眠れば、ひと窩(すみか)の夜の気を保ち全うできる。竹の葉の杯の中、風を吟じ月を弄べば、万丈の紅塵から躱(かわ)し離れられる。
39 衣冠を着けた行列の中に、藜(あかざ)の杖をついた山の人を一人置けば、ひとしきりの高い風(ふう)が増す。漁(すなど)り樵(きこ)る路の上に、錦の衣の朝廷の士を一人置けば、かえって多くの俗気が加わる。まことに、濃いものは淡いものに勝てず、俗は雅に及ばないと知れる。
40 世を出る道は、そのまま世を渉(わた)る中にある。人を絶って世を逃れるには及ばない。心を了(お)える工夫は、そのまま心を尽くす内にある。欲を絶って心を灰にするには及ばない。
四十一〜六十よんじゅういち—ろくじゅう
41 この身を常に閑(しず)かなところに放っておけば、栄辱も得失も、誰が私を差し遣(つか)えよう。この心を常に静けさの中に安んじておけば、是非も利害も、誰が私を瞞(だま)し昧(くら)ませよう。
42 竹の籬(まがき)の下でふと犬の吠え鶏の鳴くのを聞けば、恍(ほの)かに雲の中の世界のようである。芸(うん)の香る書斎で蟬の吟(な)き鴉の噪(さわ)ぐのを雅(みやび)に聴けば、はじめて静けさの中の天地が知れる。
43 私が栄えを希(ねが)わなければ、利禄の香(かぐわ)しい餌をどうして憂えよう。私が進むことを競わなければ、仕官の危うい機をどうして畏れよう。
44 山林と泉石の間を徜徉(しょうよう)すれば、塵の心はしだいに息(や)む。詩書と図画の内に夷猶(いゆう)すれば、俗の気はひそかに消える。だから君子は、物に玩(ふけ)って志を喪うことはしないが、また常に境を借りて心を調える。
45 春の日の気象は繁く華やかで、人の心と神(たましい)を駘蕩(たいとう)とさせる。だが秋の日に雲が白く風が清く、蘭が芳しく桂が馥(かお)り、水と天が一色で、上も下も空(むな)しく明るく、人の神(こころ)も骨もともに清くなるのには及ばない。
46 一字も識らないのに詩の意のある者は、詩家の真の趣を得ている。一つの偈も参(さん)じないのに禅の味のある者は、禅教の玄(げん)なる機を悟っている。
47 機(こころ)の動いた者は、弓の影を蛇や蠍と疑い、寝ている石を伏せた虎と視る。この中はまるごと殺気である。念の息んだ者は、石の虎も海の鷗(かもめ)にでき、蛙の声も鼓や笛に当てられる。触れるところみな真の機が見える。
48 身は繋がれていない舟のよう、流れるに任せ坎(あな)に止まるに任せる。心はすでに灰になった木のよう、刀で割かれようと香を塗られようと何の妨げもない。
49 人情として、鶯の啼くのを聴けば喜び、蛙の鳴くのを聞けば厭う。花を見れば培(つちか)おうと思い、草に遇えば去(のぞ)こうとする。みな形と気によって事を運んでいるのだ。もし性の天から視れば、どれが自ら天の機を鳴らし、自ら生きる意(こころ)を暢(の)べていないものがあろう。
50 髪が落ち歯が疎(まば)らになるのは、幻の形が彫(しぼ)み謝(お)ちるに任せればよい。鳥が吟じ花が笑うところに、自らの性の真如を識る。
51 その中(うち)に欲のある者は、寒い潭(ふち)にも波が沸き、山林にいてもその寂けさが見えない。その中を虚しくした者は、酷暑にも涼しさが生じ、朝廷や市にいてもその喧(さわ)がしさを知らない。
52 多く蔵える者は厚く亡(うしな)う。だから富は、貧しくて慮りのないのに及ばないと知れる。高く歩む者は疾(はや)く顛(たお)れる。だから貴は、賤しくて常に安らかなのに及ばないと知れる。
53 暁の窓で『易』を読み、松の間の露で丹砂を研(す)る。昼の机で経を談じ、竹の下の風に宝の磬(けい)を宣(ひび)かせる。
54 花が鉢の中に居れば、ついに生きる働きを欠く。鳥が籠の中に入れば、すぐ天の趣が減る。山あいの花や鳥が、入り混じって文(あや)を成し、翱翔(こうしょう)して自若としているのに及ばない。おのずと悠然として心に会(かな)う。
55 世の人はただ「我」の一字をあまりに真と認めるために、種々の嗜好、種々の煩悩がある。前人が言った——もはや我があるとも知らない。どうして物を貴いと知ろう、と。また言った——身が我でないと知れば、煩悩がどうして侵そう、と。まことに的を破った言葉である。
56 老いから少(わか)きを視れば、奔(はし)り馳せ角(つの)突き逐(お)う心を消せる。憔(やつ)れから栄えを視れば、紛(はな)やかで靡(うるわ)しいものへの念を絶てる。
57 人情も世の態(さま)も、たちまちに万(よろず)に変わる。あまり真と認めないほうがよい。堯夫(邵雍)が言った——昔わが身と言っていたものが、今はもう彼(かれ)である、と。今日の我が、また後の誰に属するかも分からない。常にこう観ていれば、胸中の罥(わなかけ)も解ける。
58 熱く賑やかな中に一つの冷たい眼を置けば、多くの苦しい心づかいを省ける。冷ややかに落ちぶれたところに一つの熱い心を存せば、多くの真の趣味が得られる。
59 一つの楽しい境界があれば、一つの楽しくないものが対(むか)い待っている。一つの好い光景があれば、一つの好くないものが乗じ除(さ)っていく。ただ平凡な家の飯、素(もと)の位のままの風光こそが、安楽の窩(すみか)である。
60 簾(すだれ)と窓を高く敞(ひら)いて、青い山と緑の水が雲と煙を吞んだり吐いたりするのを看れば、乾坤の自在が識れる。竹と樹が扶疏(ふそ)として、乳(ち)を含む燕や鳴く鳩が時の序(めぐ)りを送り迎えるに任せれば、物と我が両ながら忘れられるのが知れる。
六十一〜八十ろくじゅういち—はちじゅう
61 成ったものが必ず敗れると知れば、成ることを求める心はあまり堅くする必要がない。生きたものが必ず死ぬと知れば、生を保つ道はあまり労する必要がない。
62 古徳が言った——竹の影が階(きざはし)を掃いても塵は動かず、月の輪が沼を穿(うが)っても水に痕はない、と。わが儒者は言った——水は流れて急なるに任せて境は常に静かであり、花は落ちて頻(しき)りであっても意はおのずと閑(しず)かである、と。人が常にこの意を持って事に応じ物に接すれば、身も心もどれほど自在であろう。
63 林の間の松の韻(ひび)き、石の上の泉の声を、静けさの中で聴けば、天地の自然に鳴る佩(おびだま)が識れる。草のきわの煙の光、水の心の雲の影を、閑(しず)かさの中で観れば、乾坤の最上の文章が見える。
64 目には西晋の荊(いばら)と榛(はしばみ)が見えていながら、なお白刃を誇る。身は北邙(ほくぼう)の狐と兎に属しているのに、なお黄金を惜しむ。ことわざに言う——猛獣は伏せやすいが人の心は降しがたい。谿(たに)や壑(あな)は填(う)めやすいが人の心は満たしがたい、と。まことである。
65 心の地に風と濤(なみ)がなければ、どこに居ても青い山と緑の樹である。性の天の中に化(そだ)て育てるものがあれば、触れるところに魚が躍り鳶が飛ぶのが見える。
66 高い冠と大きな帯の士も、ひとたび軽い蓑と小さな笠を見て、飄々として逸(のど)かなのを目にすれば、咨嗟(しさ)の嘆きを動かさずにはいられまい。長い筵と広い席の豪(ごう)の者も、ひとたび疎(あら)い簾と浄(きよ)い几(つくえ)に遇って、悠々として静かなのを目にすれば、綣(こま)やかな恋いを増さずにはいられまい。人はどうして、火をつけた牛で駆り立て、風に乗せた馬で誘うようなことをして、自ら己の性に適(ここち)よくすることを思わないのか。
67 魚は水を得て逝(ゆ)きながら水を忘れ、鳥は風に乗って飛びながら風のあることを知らない。これを識れば、物の累(わずら)いを超えることができ、天の機を楽しむことができる。
68 狐が壊れた石垣に眠り、兎が荒れた台を走るのは、みな当年の歌い舞った地である。露が黄の花に冷たく、煙が衰えた草に迷うのは、ことごとく旧(ふる)い時の争い戦った場である。盛衰にどうして常があろう。強弱はどこにあろう。これを念えば人の心を灰にする。
69 寵愛にも辱めにも驚かず、閑(しず)かに庭前の花が開き花が落ちるのを看る。去るも留まるも意にとめず、漫(そぞ)ろに天外の雲が巻き雲が舒(の)びるのに随う。
70 晴れた空に朗らかな月、どの天を翱翔できないことがあろう。それなのに飛ぶ蛾は独り夜の燭に投じる。清らかな泉に緑の卉(くさ)、どの物を飲み啄(ついば)めないことがあろう。それなのに鴟鴞(ふくろう)は偏(ひとえ)に腐った鼠を嗜(この)む。ああ、世に飛ぶ蛾や鴟鴞にならない者が、どれほどあろうか。
八十一〜一〇〇はちじゅういち—ひゃく
71 筏に乗るやいなや筏を捨てることを思ってこそ、事のない道人である。驢馬に騎(の)っておきながらまた驢馬を覓(もと)めるようでは、ついに了(お)わらない禅師である。
72 権勢ある貴人が竜のように驤(おど)り、英雄が虎のように戦うのも、冷たい眼で視れば、蟻が生臭いものに聚(あつ)まり、蠅が血を競うようなものだ。是非が蜂のように起こり、得失が蝟(はりねずみ)のように興るのも、冷たい情で当たれば、炉が金を鎔(と)かし、湯が雪を消すようなものだ。
73 物欲に羈(つな)がれ鎖されれば、わが生の哀しむべきを覚える。性の真に夷猶(いゆう)すれば、わが生の楽しむべきを覚える。その哀しむべきを知れば、塵の情はたちどころに破れる。その楽しむべきを知れば、聖の境はおのずと臻(いた)る。
74 胸中にすでに半点の物欲もなければ、雪が炉の焰に消え、氷が日に消えるようである。目の前におのずとひとしきりの空(むな)しい明るさがあって、月が青空にあり影が波にあるのが、いつでも見える。
75 詩の思いは灞陵(はりょう)の橋の上にある。微(かす)かに吟じれば、林も岫(やま)もそれだけでもう浩然となる。野の興は鏡湖の曲(くま)のほとりにある。独り往くとき、山と川がおのずと映え発する。
76 久しく伏せていた者は飛べば必ず高く、先に開いた花は独り早く謝(ち)る。これを知れば、蹭蹬(そうとう=つまずき)の憂いを免れ、躁(あせ)り急ぐ念を消せる。
77 樹木は根に帰るに至って、はじめて華や萼や枝や葉が徒(いたずら)に栄えていたと知れる。人の事は棺を蓋(おお)うに至って、はじめて子女や玉帛が無益だと知れる。
78 真の空は空ではない。相(すがた)に執するのは真ではなく、相を破るのもまた真ではない。世尊に問おう、どう始末をつけるのかと。世に在るのか、世を出るのか。欲に徇(したが)うのは苦であり、欲を絶つのもまた苦である。われら自身で善く修め持していくほかない。
79 烈(はげ)しい士は千乗を譲り、貪る男は一文を争う。人品は星と淵ほど違うが、名を好むことは利を好むことと異ならない。天子は家と国を営み、乞う人は朝夕の飯を号(さけ)ぶ。位と分は天と地ほど違うが、思いを焦がすことは声を焦がすことと何の違いがあろう。
80 世の味を飽きるほど諳(そら)んじれば、雨を覆し雲を翻すような変わりようにも、いちいち眼を開くのが懶(ものう)い。人の情を会得し尽くせば、牛と呼ばれ馬と呼ばれるに任せて、ただ頷(うなず)くだけである。
81 今の人はもっぱら念のないことを求めるが、念はついに無くせない。ただ前の念に滞らず、後の念を迎えず、いま現にあるものを、縁に随って打ち払っていけば、自然としだいに無に入る。
82 意(こころ)がたまたま会(かな)ったところが、そのまま佳い境になる。物は天然から出てこそ、はじめて真の機が見える。もし一分でも調え停め、布置を加えれば、趣味はもう減る。白氏(白居易)が言った——意は事のないのに随って適(ここち)よく、風は自然のままに清い、と。味わいのある言葉である。
83 性の天が澄み徹っていれば、飢えて飯を食い渇いて水を飲むのも、ことごとく身と心を康(やす)んじ済(すく)うことになる。心の地が沈み迷っていれば、たとえ禅を談じ偈を演(の)べても、つまるところ精(こころ)と魂を弄(もてあそ)んでいるだけである。
84 人の心には一つの真の境がある。糸(琴)でも竹(笛)でもないのにおのずと恬(やす)らかに愉しく、香でも茶でもないのにおのずと清く芬(かお)る。念が浄(きよ)く、境が空(むな)しく、慮りが忘れられ、形が釈(と)けてはじめて、その中に遊び衍(ひろ)がることができる。
85 金は鉱から出、玉は石から生じる。幻によらなければ真を求められない。道は酒の中に得られ、仙は花の裏(うち)に遇う。雅であっても俗を離れられないのだ。
86 天地の中の万物、人倫の中の万情、世界の中の万事は、俗の眼で観れば、紛々としてそれぞれ異なる。道の眼で観れば、種々みな常である。どうして分別に煩わされよう。どうして取捨を用いよう。
87 神(こころ)が酣(たけなわ)であれば、布の被(ふすま)の窩(すみか)の中にも、天地の沖和の気を得る。味が足りていれば、藜(あかざ)の羹(あつもの)の飯の後にも、人生の淡泊の真が識れる。
88 纏(まと)われるか脱するかは、ただ自分の心にある。心が了(お)わっていれば、屠(ほふ)り場や酒粕の店でさえ、そのまま浄土である。そうでなければ、たとえ一張の琴、一羽の鶴、一輪の花、一株の卉(くさ)であっても、嗜好は清くとも魔の障りは結局そこにある。ことわざに言う——塵の境を休めれば真の境となり、了わらぬ僧家はそのまま俗家である、と。まことである。
89 斗ほどの室の中で万の慮りをみな捐(す)ててしまえば、画(えが)いた棟に雲が飛び、珠の簾に雨が捲くなどと言うに及ばない。三杯の後に一つの真を自ら得れば、ただ素(す)の琴を月に横たえ、短い笛で風を吟じることだけを知る。
90 万の音が寂寥とした中に、ふと一羽の鳥が声を弄(ろう)するのを聞けば、多くの幽(かす)かな趣が喚び起こされる。万の卉(くさ)が摧(くだ)け剝(は)げた後に、ふと一枝が秀でて擢(ぬき)んでるのを見れば、限りない生きる働きが触れ動かされる。性の天がいまだかつて枯槁したことがなく、機と神(こころ)こそ最も触れ発するべきものだと分かる。
91 白氏が言った——身も心も放って、冥然と大いなる造化に任せるに如(し)かず、と。晁氏が言った——身も心も収めて、凝然と寂定に帰するに如かず、と。放てば流れて猖狂となり、収めれば枯れ寂びに入る。ただよく身と心を操る者だけが、柄(とって)を手にして、収めるも放つも自在である。
92 雪の夜、月の天に当たれば、心の境はそのまま澄み徹る。春の風、和やかな気に遇えば、意の界(さかい)もおのずと沖(ちゅう)融する。造化と人の心は、混じり合って隔てがない。
93 文は拙(せつ)によって進み、道は拙によって成る。この「拙」の一字に限りない味わいがある。桃源の犬の吠え声、桑の間の鶏の鳴き声は、なんと淳(あつ)く龐(おお)らかであろう。寒い潭(ふち)の月、古い木の鴉に至っては、工(たく)みで巧みな中に、もう衰え颯(すさ)ぶ気象があると覚える。
94 我(われ)によって物を転じる者は、得ても喜ばず、失っても憂えない。大地がことごとく逍遥の場に属する。物によって我が役(つか)われる者は、逆らえば憎しみを生じ、順(したが)えば愛を生じる。毛一筋にも纏(まと)われ縛られる。
95 理が寂(しず)かなら事も寂かである。事を遣(や)って理に執する者は、影を去って形を留めるようなものだ。心が空しければ境も空しい。境を去って心を存する者は、生臭いものを聚めておいて蚋(ぶよ)を却(しりぞ)けるようなものだ。
96 幽(かく)れた人の清らかな事は、すべて自ら適(ここち)よいことにある。だから酒は勧めないのを歓びとし、碁は争わないのを勝ちとし、笛は腔(しらべ)がないのを適(よ)しとし、琴は絃がないのを高しとする。会(つど)いは期(ちぎ)り約さないのを真率とし、客は迎え送らないのを坦夷(たんい)とする。もしひとたび文(かざ)りに牽かれ跡に泥(なず)めば、たちまち塵の世の苦しみの海に落ちる。
97 試みに、まだ生まれない前にどんな象(かたち)と貌(すがた)があったかを思い、また死んだ後にどんな景色になるかを思え。そうすれば万の念は灰のように冷え、一つの性は寂然として、おのずと物の外を超えて象(かたち)の先に遊べる。
98 病に遇ってはじめて健やかであることの宝を思い、乱に処してはじめて平らかであることの福を思う。それは早い智ではない。福を僥倖(ぎょうこう)しながら先にそれが禍の本だと知り、生を貪りながら先にそれが死の因だと知る——それこそ卓(すぐ)れた見識ではないか。
99 役者は白粉を傅(つ)け朱を調え、妍(うつく)しさと醜さを筆の先で効(まね)る。だがやがて歌が残り場が罷(お)われば、妍しさも醜さもどこにあろう。碁を打つ者は先を争い後を競い、雌雄を石の打ち方で較べる。だがやがて局が尽き石が収められれば、雌雄はどこにあろう。
100 風と花の瀟洒さ、雪と月の空(むな)しい清らかさは、ただ静かな者だけがその主となる。水と木の栄えと枯れ、竹と石の消えと長じは、独り閑(しず)かな者だけがその権を操る。
一〇一〜一二〇ひゃくいち—ひゃくにじゅう
101 田の父、野の叟(おきな)に、黄(き)な鶏と白い酒の話をすれば、欣然として喜ぶ。鼎(かなえ)の御馳走を問えば、知らない。縕(わた)の袍(うわぎ)、短い褐(あらぬの)の話をすれば、油然として楽しむ。袞(こん)の礼服を問えば、識らない。その天が全いから、その欲が淡いのだ。これが人生第一の境界である。
102 心にその心がなければ、どうして観ることがあろう。釈氏は言った——心を観る者は、重ねてその障りを増す、と。物はもともと一つの物である。どうして斉(ひと)しくするのを待とう。荘生は言った——物を斉しくする者は、自らその同じさを剖(さ)いている、と。
103 笙と歌がまさに濃いところで、そのまま衣を払って長く往ってしまう——達した人が懸崖で手を撒(はな)つのを羨む。刻(とき)を告げる漏(ろう)がすでに残り少ないのに、なお夜歩きを休めない——俗の士が苦しみの海に身を沈めるのを笑う。
104 把握がまだ定まらないうちは、塵と喧(さわ)がしさから跡を絶ち、この心に欲すべきものを見せずして乱れないようにし、それでわが静かな体を澄ませるがよい。操り持つことがすでに堅くなれば、また跡を風と塵に混じえ、この心に欲すべきものを見せてもやはり乱れないようにし、それでわが円(まろ)やかな機を養うがよい。
105 寂けさを喜び喧がしさを厭う者は、しばしば人を避けて静けさを求める。だが意が「人のいないこと」にある時点で、もう我(が)の相になっていると知らない。心が静けさに著(つ)けば、それがそのまま動の根である。それでどうして、人と我を一つに視、動と静を両ながら忘れる境界に至れよう。
106 山に居れば胸のうちが清く洒(すず)しく、物に触れるたびに佳い思いがある。孤(ひと)つの雲と野の鶴を見れば超え絶する想いが起こり、石の澗(たにがわ)と流れる泉に遇えば澡(すす)ぎ雪(そそ)ぐ思いが動く。老いた檜と寒い梅を撫でれば勁(つよ)い節が挺(ぬき)んで立ち、沙(すな)の鷗や麋鹿(びろく)に似れば機心がにわかに忘れられる。もしひとたび塵の寰(さかい)へ走り入れば、物が関わらないのはもちろん、この身さえ贅(よけい)な旒(たれ)に属してしまう。
107 興が時を逐って来れば、芳しい草の中に履を撒(ぬ)いで閑(しず)かに行く。野の鳥も機心を忘れて、時に伴をなす。景が心と会えば、落ちる花の下に襟を披(ひら)いて兀(こつ)然と坐る。白い雲は言葉もなく、そぞろに相い留める。
108 人生の福の境も禍の区(さかい)も、みな念と想が造り成すものだ。だから釈氏は言った——利欲が熾(さか)んなのが、そのまま火の坑である。貪り愛して沈み溺れるのが、そのまま苦しみの海である。一念が清浄なら烈しい焰も池となり、一念が警め覚めれば船は彼の岸に登る、と。念がわずかに異なれば、境界はにわかに殊(こと)なる。慎まずにいられようか。
109 縄で鋸(ひ)いても木は断たれ、水が滴(したた)っても石は穿(うが)たれる。道を学ぶ者は、力を加えて索(もと)めねばならない。水が到れば渠(みぞ)は成り、瓜が熟せば蒂(へた)は落ちる。道を得た者は、ひたすら天の機に任せる。
110 機(こころ)が息(や)むときには、月が到り風が来る。人の世を苦しみの海とするには及ばない。心が遠いところでは、おのずと車の塵も馬の跡もない。丘や山への執着を痼(こ)じらせるには及ばない。
111 草木が零(お)ち落ちたばかりでも、もう根のもとに萌(きざ)しの穎(ほさき)を露わす。時の序(めぐ)りが凝った寒さであっても、ついには飛ぶ灰に陽の気を回(かえ)す。粛(きび)しく殺(そこな)う中に、生じ生じる意(こころ)が常にその主となっている。これによって天地の心が見える。
112 雨の後に山の色を観れば、景色はいっそう新しく妍(うつく)しく覚える。夜が静まってから鐘の声を聴けば、音の響きはとりわけ清く越(すぐ)れている。
113 高きに登れば人の心を曠(ひろ)くし、流れに臨めば人の意を遠くする。雨や雪の夜に書を読めば人の神(こころ)を清くし、丘や阜(おか)の巓(いただき)で舒(の)びやかに嘯(うそぶ)けば人の興を邁(すす)ませる。
114 心が曠ければ万鍾も瓦の缶(ほとぎ)のようであり、心が隘(せま)ければ一本の髪も車の輪のようである。
115 風も月も花も柳もなければ、造化は成らない。情欲も嗜好もなければ、心の本体は成らない。ただ我によって物を転じ、物によって我を役(つか)わせなければ、嗜欲もことごとく天の機であり、塵の情もそのまま理の境である。
116 一身について一身を了(お)えた者こそ、万物を万物に付すことができる。天下を天下に還した者こそ、世間において世間を出ることができる。
117 人生があまり閑(ひま)であれば、別の念がひそかに生じる。あまり忙しければ、真の性が現れない。だから士君子は、身と心の憂いを抱かないわけにはいかず、また風と月の趣に耽らないわけにもいかない。
118 人の心は多く動くところで真を失う。もし一念も生じさせず、澄然と静坐すれば、雲が興(た)てば悠然と共に逝き、雨が滴れば冷然と共に清く、鳥が啼けば欣然として会(かな)うところがあり、花が落ちれば瀟然として自ら得る。どの地が真の境でなかろう。どの物に真の機がなかろう。
119 子が生まれれば母が危うく、銭が積まれれば盗人が窺う。どの喜びが憂いでなかろう。貧しければ用を節(つづ)ましくでき、病めば身を保てる。どの憂いが喜びでなかろう。だから達した人は、順(じゅん)も逆も一つに視て、欣(よろこ)びも戚(うれ)いも両ながら忘れる。
120 耳の根は、飆(はやて)の谷に響きを投げるようで、過ぎて留まらなければ、是非はともに謝(さ)る。心の境は、月が池に色を浸すようで、空しくして著(つ)かなければ、物と我は両ながら忘れられる。
一二一〜一三四ひゃくにじゅういち—ひゃくさんじゅうよん
121 世の人は栄えと利に纏(まと)われ縛られて、ややもすれば塵の世は苦しみの海だと言う。雲が白く山が青く、川が行き石が立ち、花が迎え鳥が笑い、谷が樵(きこり)の謳(うた)に答えるのを知らないのだ。世もまた塵ではなく、海もまた苦しくはない。彼らが自分でその心を塵にし苦しくしているだけである。
122 花は半ば開いたのを看、酒はほのかに酔うまで飲む。この中に大いに佳い趣がある。爛漫や酩酊に至れば、もう悪い境になる。盈(み)ち満ちたところを履(ふ)む者は、これを思うがよい。
123 山の肴は世間の灌漑を受けず、野の禽は世間の飼育を受けない。その味はみな香(かぐわ)しく、そのうえ冽(きよ)い。われらが世の法に点(そ)め染められずにいられれば、その臭(かお)りと味は迥然(けいぜん)と別ではないか。
124 花を栽え竹を種え、鶴を玩(め)で魚を観るのにも、ひとしきり自ら得るところがなければならない。ただ光景に留連(りゅうれん)し、物の華を玩び弄ぶだけなら、それもわが儒者の口と耳、釈氏の頑空にすぎない。何の佳い趣があろう。
125 山林の士は清く苦しくとも、逸(のど)かな趣がおのずと饒(ゆた)かである。農や野の夫は鄙(いや)しく略(そま)つでも、天真がまるごと具わっている。もしひとたび身を市井の仲買人に失えば、溝(みぞ)や壑(あな)に転がり死ぬほうがまだましだ。神(こころ)も骨もなお清い。
126 分に過ぎた福、故(ゆえ)のない獲得は、造物主の釣り餌でなければ、人の世の仕掛けの穽(おとしあな)である。ここで着ける眼が高くなければ、彼らの術中に堕ちない者は稀である。
127 人生はもともと一つの傀儡(くぐつ)である。ただ根の蒂(へた)が手にあって、一本の糸も乱れず、巻くも舒(の)べるも自由で、行くも止まるも自分にあり、毛一筋も他人の操(あやつ)りを受けなければ、それでこの場から超え出ている。
128 一つの事が起これば、一つの害が生じる。だから天下は常に事のないのを福とする。前人の詩を読めばこうある——君に勧む、封侯の事を話(かた)るなかれ。一将功成って万骨枯る、と。また言う——天下に常に万事を平らかならしめば、匣(はこ)の中で千年死んでいても惜しくはない、と。雄々しい心と猛(たけ)き気があっても、思わず氷と霰(あられ)に化してしまう。
129 淫奔(いんぽん)の婦が、矯(た)めて尼となる。熱中の人が、激して道に入る。清浄の門が、常に淫邪の淵や藪(すみか)となるのは、このようである。
130 波と浪が天に兼(とど)いても、舟の中では懼れを知らず、舟の外の者が心を寒くする。猖狂として座を罵っても、席の上では警めを知らず、席の外の者が舌を咋(か)む。だから君子は、身は事の中に在っても、心は事の外に超えていなければならない。
131 人生は一分減らし省けば、一分超え脱する。交遊が減れば紛れ擾(みだ)れるのを免れ、言葉が減れば咎めが寡(すく)なくなり、思慮が減れば精神が耗(へ)らず、聡明が減れば混沌が全うできる。あの、日ごとに減らすことを求めず、日ごとに増やすことを求める者は、まことにこの一生を桎梏(しっこく)にしているのだ。
132 天の運(めぐ)りの寒暑は避けやすいが、人の世の炎(あつ)さ涼しさは除きにくい。人の世の炎さ涼しさは除きやすいが、わが心の氷と炭は去りにくい。この胸中の氷と炭を去りえれば、満腔がみな和やかな気となり、おのずとどこに居ても春の風がある。
133 茶は精(せい)を求めないが、壺もまた燥(かわ)いていない。酒は冽(きよ)さを求めないが、樽もまた空ではない。素(す)の琴は絃がなくとも常に調い、短い笛は腔(しらべ)がなくともおのずと適(ここち)よい。たとえ羲皇(ぎこう)を超え越えるのは難しくとも、嵇康(けいこう)や阮籍(げんせき)と伍(ご)することはできよう。
134 釈氏の「随縁」、わが儒者の「素位」——この四字が海を渡る浮き袋である。思うに世の路は茫々としていて、一念でも全(まった)きを求めれば、万の緒(いとぐち)が紛れ起こる。寓(やど)るに随って安んじれば、入って得られないところはない。
底本と校訂例
作者はほとんど考えようがない。今本は「還初道人 洪自誠 著」と題する。洪応明、字は自誠、号は還初道人。万暦年間の人で、生没年も本貫も仕歴も一切不詳である。ほかに『仙佛奇蹤』四巻が伝わり、万暦三十年(一六〇二)刊、巻頭に馮夢禎の序があって、そこに彼を「幼くして紛華を慕い、晩(おそ)くして禅寂に棲む」と言う——その生涯について残るのは、この一句だけである。本書の巻端にはもう一行「覚迷居士 汪乾 初校」とあるが、汪乾もまた考えようがない。だからこの書は、この書架の『素書』『氷鑑』『羅織経』『小人経』の数種とは事情が違う。あれらは仮託だが、この一種は人も書も実在する。ただその人が他にほとんど痕跡を残さなかっただけである。書名の出どころは題詞の末段に見え、もとは宋の汪信民の言葉——「人、常に菜根を咬み得ば、則ち百事做(な)すべし」——で、朱熹『小学・善行篇』に引かれている。
底本はハーヴァード燕京図書館蔵の明万暦四十五年(一六一七)刻本、すなわち識典古籍(字節跳動と北京大学デジタル人文センターの協働)が同館の原書画像から起こした翻刻を用いた。巻端に「菜根譚前集/還初道人洪自誠著/覚迷居士汪乾初校」と題し、後集も同じ。全書の画像は百十八面。題詞が巻頭にあり、前集は第六面から、後集は第七十四面から始まる。本ページの本文・段落・句読点は、一概にこの本に依る。
通校にはウィキソース『菜根譚・明刻本』の翻刻(前集二二二条、後集一三四条。それ自体に「一作」の校記二百六十四条を附す)を用い、底本と一字ずつ機械照合した。両本の異体字形をまず統合し(下記)、そのうえで照合して、全書で異文百四十六条・三百十七字位を得た。文義に関わるものはみなその条の注に校記を出し、両説を併記した。通校本によって底本を改めたのは三十九条で、いずれも底本では通らず通校本で通るものである。前集第十九条「引些歸已」は「歸己」、第三十条「要觀其未路」は「末路」、第七十二条「寧拙母巧」は「毋巧」、第七十五条「又極而成福者、其福始人」は「練極而成福者、其福始久」、第百条「鍼砭樂石」は「藥石」、第百五十七条「必者後裔之根」は「心者」、第二百三条「虛危急者」は「處危急者」、後集第百八条「一念終覺」は「一念警覺」、第百十一条「生又之意」は「生生之意」とすべきものである。ほかに底本の句読の当を失したもの十箇所を文義によって改めた。最も肝心なのは前集第十七条で、底本は「待人寬一分是福利、人實利己的根基」と切るが、「待人寬一分是福、利人實利己的根基」とすべきである。
凡例——一、底本は明刻の原書を写し取ったもので、字形は原刻のままだが、本ページでは一律に通行の繁体字に改めた(䖏→處、卋→世、逺→遠、㓗→潔、縂→總、爲→為、艶→艷など、三百余字)。字形を改めるだけで、文字は改めない。二、条の区切りと条次は原刻に見えない。原書には篇目がなく、巻に分かれず、番号も振られていない。今の人は『菜根譚』を引くのに一概に「前集何条」「後集何条」と言うので、本ページも通行の二二二/一三四の分け方に従い、番号を各条の前に置き、二十条ごとに小見出しを繋いだ。検索のためであって、原書の階層ではない。三、条ごとの訳文と丸括弧内の語釈・校記は本ページで加えたものである。四、巻頭の題詞は原書にあるもので、本ページが加えたのではない。題詞に引かれる洪子の「天、我を労するに形をもってす」の二語は、前集第九十一条にある。
表紙はこの書の表紙そのものである。底本の原書の書衣を用いた。藍紙の包背で、朱の筆の行書で「菜根談」の三字を題する(「譚」でなく「談」に作るのは、昔の書衣の題簽の常例である)。その下にもう一字あるが漫漶している。上端に旧架号「T 1681/3806」があり、中ほどにハーヴァード燕京図書館の受入印、日付は「JAN 6 1964」。原図は一二〇〇×一八五四。行と列の輝度から紙の縁を x 21..1194、y 15..1845 と測り、四囲の台を裁ち落として幅 560 に縮め、560×874 を得た。この書架の多くの書の表紙は借り物である——『羅織経』『小人経』にはそもそも古い版本がなく、それらを記録したその一巻の巻頭葉を充てるほかなかった。この一部は借りる必要がない。表紙と本文は同じ一部の書、同じ一つの蔵本から出ている。
本ページで用いなかった一種——『菜根譚』にはほかに清刻本の一系があり、修省・応酬・評議・閑適・概論の五部に分かれ、条目が明刻本とかなり食い違う。一般に後人の改編と見られている。本ページは明刻本を取り、清刻本を取らず、両本を合併した通俗の印本も取らない。
この日本語訳について——本文はすべて上記の漢文底本から直接訳したもので、既存のいかなる日本語訳にも拠っていない。条の番号は底本の条次に合わせ、丸括弧内は訳者の注である。
篇旨と丸括弧内の注は AI が書いたものです。中国語のページでは同じ注をボタンで開閉できますが、このページでは本文中にそのまま示しています。