反経はんけい

唐 趙蕤 撰 · 本名『長短経』 · 全九巻六十四篇 · 現代語訳 · 全文無料で読めます

典籍
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目 次 自序 巻第一 文上 大体 任長 品目 量才 知人 察相 論士 政体 巻第二 文中 君徳 臣行 徳表 理乱 巻第三 文下 反経 是非 適変 正論 巻第四 覇紀上 覇図 巻第五 覇紀中 七雄略 巻第六 覇紀下 三国権 巻第七 権議 懼戒 時宜 巻第八 雑説 釣情 詭信 忠疑 用無用 恩生怨 詭順 難必 運命 大私 敗功 昏智 卑政 善亡 詭俗 息弁 量過 勢運 傲礼 定名 巻第九 兵権 出軍 練士 結営 道徳 禁令 教戦 天時 地形 水火 五間 将体 料敵 勢略 攻心 伐交 格形 蛇勢 先勝 囲師 変通 利害 奇兵 掩発 還師 底本と校訂例

自序序

開元四年(七一六)、梓州郪県の長平山安昌巌にて成る。署名は「草莽の臣 趙蕤」。開元年間に召されたが出仕しなかった。彼について伝わるのは、それだけである。

趙子(趙蕤)は言う。車を造る者は人が富まぬことを憂え、矢を造る者は人が傷つかぬことを恐れる。愛憎があるわけではない。生業がそうさせるのだ。ならば当代の士、功名に走る輩も同じである。縦横家の書を読めば諸侯の変を思い、奇正の術に長ずれば風塵の会(乱世)を待ち望む。これは昔から言われてきたことで、理の当然である。

それゆえ先師孔子は、その根を深く探り、その末を憂えて、『春秋』を作って王道を大いにし、『孝経』を制して徳行を美しとした。萌(きざし)を防ぎ漸(にじみ)を杜(ふさ)ぎ、あらかじめ抑えるところがある——これが聖人の著述の本意である。しかし理に法を立てれば、その弊は必ず乱に至る。乱に至ったとき、これを何で救うのか。

ゆえに世を御し人を理(おさ)めるに、そのまま踏襲したという例は少ない。三代は礼を同じくせず、五覇は法を同じくしなかった。互いに反対したのではない。それぞれ別の弊を救ったのである。国の体裁は一つでも、忠と文の道は必ず異なる。聖哲は同じ風に吹かれても、皇と王の名は異なることがある。時に随って教えを設けるのはこちらに沿い、物に因って務めを成すのはあちらに引かれるからではないか。

ゆえに古の治者には三つの政があった。王者の政は化し、覇者の政は威し、強国の政は脅す。それぞれ施すところがあり、取り替えはきかない。管子は言う、「聖人は時を輔けることはできても、時に違うことはできない。智者の善き謀も、時に当たるには及ばない」。鄒子は言う、「政教の文質は匡救のためのもの。時に当たれば用い、過ぎれば捨てる」。だから覇者の朝廷で王者の化を行えば悖(もと)り、強国の世に覇者の威を行えば乖(そむ)く。時が狙詐に落ち正道が衰えているのに、先王を憲章とし徳化を広く陳べようとするのは、溺れる者を救うのに越の客を待ち、火を消すのに大人を呼ぶようなものだ。善いことには違いない。だがそれが「時変に通ずる」ということか。

覇者とは駁(まだら)の道である。白と黒が雑ざり合い、徳を純粋には用いない。成るか成らぬかを期し、どう成ったかは問わない。大体を論じて小節を守らない。仁を称え義を引いても三王には及ばないが、傾くものを扶け倒れるものを定める点では、帰するところは一つである。儒者が聞き知ったものに溺れて、王と覇が別の戦略であることを知らないのを恐れた。だから長短として叙し、術をもって経論とし、変に通ずる者のために題目を立てた。総べて六十有三篇、合して十巻、名づけて『長短経』という。

主旨は根蒂を寧固にし、時弊を革易することにある。興亡治乱はすべて諸篇に載せた。沿襲の遠図であり、経済(世を治め民を済う)の至道である。世を矯め俗に誇り、声を希い名を慕うためではない。ただ見聞を露わにして、後の哲者に機(からくり)を渡すだけである。位にある方々よ、どうか詳らかに見ていただきたい。(現存は九巻六十四篇。第十巻「陰謀」は早くに失われた。自序の篇数と合わないが、四庫の編者は自序の写し誤りと判断している。)

巻第一 文上卷第一 文上

八篇、いずれも「人」を扱う。順序がある。まず君主の分(自分のものでないものを自分のもののように使う)、次に人の用い方(各人の長ずるところに因る)、次に人の格付け、次に格に応じた官職、次に格を見分ける技術、次に相人(人相)、次に士を礼遇すべき理由、最後に政体。この巻がしていることは一つ——人物鑑識を「徳の問題」から「技術の問題」に作り変えることである。

大体大体第一

冒頭の一篇。四つの証拠がすべて一文を指す——「人を知るは王道なり、事を知るは臣道なり」。

老子曰く「正を以て国を理め、奇を以て兵を用い、無事を以て天下を取る」。荀卿曰く「人主は人に官を与えるを能とし、匹夫は自ら能くするを能とする」。堯の世、舜は司徒、契は司馬、禹は司空、后稷は田疇、夔は楽正、倕は工師、伯夷は秩宗、皐陶は理官、益は禽を駆った。堯はその一つもできなかった。ではなぜ堯が君で九人が臣だったのか。堯は九つの職の内実を知り、各人にその職を授け、みなその任に堪えたからである。

漢の高帝は言った。「帷幄の中に策を運らし千里の外に勝を決するは、吾れ子房に如かず。国家を鎮め百姓を撫し、糧道を絶たざるは、吾れ蕭何に如かず。百万の軍を連ね、戦えば必ず勝ち攻むれば必ず取るは、吾れ韓信に如かず。この三人は皆人傑である。吾れはよくこれを用いた。これが吾が天下を有つ所以である」。

ゆえに、形なきものが物の君であり、端なきものが事の本である。鼓は五音に与らずして五音の主となる。道ある者は五官の事を為さずして、事を理める主となる。先王はこれを知っていたから、自分のものでないものを自分のもののように使った。君道に通じない人主はそうではない。自分でやる。自分でやれば賢を任ずることができない。賢を任じなければ賢者に憎まれる。功名が傷つき国家が危うくなるのはここからである。

湯・武は一日にして夏・商の財をことごとく手に入れ、その地を封じて天下に悦服せぬ者なく、その財を賞して天下は競って励んだ。自分のものでないものを使うことに通じていたのである。ゆえに言う——官を設け職を分かつは君の体なり。任を委ね成を責むるは君の体なり。謀を好んで倦まざるは君の体なり。寛にして衆を得るは君の体なり。垢を含み疾を蔵すは君の体なり。君に君たるの体あれば、臣はこれを畏れて愛する。帝王が業を成した所以である。

任長任长第二

一つの物差しで人を測ることを拒む篇。

才を料り能を覈(しら)べるは治世の要である。聖人でなければ、誰が百行を兼ね衆理を貫けよう。伊尹が土木を起こしたとき、背の強い者に土を負わせ、片目の者に車を押させ、背の曲がった者に壁を塗らせた。各々に宜しきがあり、人の性は揃った。

管仲は言った。「昇降揖譲・進退の作法では隰朋に及びません、大行になさい。土を開き粟を集め地の利を尽くすことでは甯戚に及びません、大司田になさい。鼓を打てば三軍の士が死を視ること帰するが如くなることでは王子城父に及びません、大司馬になさい。獄を決し中を折ることでは賓胥無に及びません。君の顔色を犯して諫めることでは東郭牙に及びません。国を治め兵を強くしたいなら、この五人がいます。覇王たらんとするなら、夷吾(管仲自身)がここにおります。」

黄石公は言う。「智を使い、勇を使い、貪を使い、愚を使う。智者はその功を立てるを楽しみ、勇者はその志を行うを好み、貪者は決然として利を取り、愚者は死を愛しまない。その至情に因って用いる。これが軍の微権である」。『淮南子』は言う、天下に奚毒(トリカブト)より凶なるものはないが、良医はこれを袋に入れて蔵する。用いるところがあるからだ。

魏武(曹操)の令が最も直截である。「進取の士は必ずしも行いあらず、行いある士は必ずしも進取ならず。陳平は篤行だったか。蘇秦は信を守ったか。しかも陳平は漢の業を定め、蘇秦は弱燕を済った。その長を任じたからである。」韓信に帷を下ろして講義させ、董仲舒に戎(いくさ)を当たらせては、何も出てこない。

品目品目第三

褒貶の序列ではなく目盛りである。目盛りがあってはじめて、次の篇で官を授けられる。

孔子は言う、人には五儀がある。庸人——心に終わりを慎む規を存せず、口に訓格の言を吐かず、賢を択んで身を託さず、力行して自ら定めず、小を見て大に暗く、物に従って流れ、執るところを知らない。

士人——心に定まるところがあり、計るに守るところがある。道術の本を尽くせなくても率(したが)うところがあり、百善を遍くできなくても処るところがある。智は多きを務めず、その知るところを審らかにするを務める。言は多きを務めず、その謂うところを審らかにするを務める。富貴もこれに益さず、貧賤もこれを損じない。

君子——言は必ず忠信にして心に忌むところなく、仁義身に在って色に伐らず、思慮は通明にして辞は専らならず、篤く行い道を信じ、自強して息まず、油然として越えられそうでついに及ばない。賢者——徳は閑(のり)を踰えず、行いは規縄に中る。聖者——徳は天地に合し、変通に方なく、下民はその徳を知らず、見る者はその隣(きわ)を識らない。

『鈐経』は別の一組を出す。徳は遠きを懐けるに足り、信は異を一にするに足り、識は古を鑑みるに足り、才は世に冠たるに足る——これが人の英。法は教を成すに足り、行は義を修むるに足り、仁は衆を得るに足り、明は下を照らすに足る——これが人の俊。次いで豪、次いで傑。さらに下って、記憶の人、文章の人、弁舌の人、胆力の人と、一つ一つに名を与えて位置づける。

量才量才第四

目盛りが官位に落ちる。器が位に合わなければ、升に斛を盛るようなもの、満ちれば棄てられる。

伊尹は言う。智が大道に通じ、変に応じて窮せず、万物の情を弁じ、その言が陰陽を調え四時を正し風雨を節するに足る者——挙げて三公とせよ。ゆえに三公の事は常に「道」にある。四時を失わず地理に通じ、通じないものを通じさせ利ならぬものを利する者——挙げて九卿とせよ。九卿の事は常に「徳」にある。人事に通じ縄を挙ぐるが如く、関梁に通じ府庫を実たす者——挙げて大夫とせよ。大夫の事は常に「仁」にある。忠正・強諫にして姦詐なく、私を去り公を立てて言に法度ある者——挙げて列士とせよ。列士の事は常に「義」にある。道徳仁義定まって天下正し。

次いで太公による将の等級。これが巻中で最も冷たい文章である。多言・悪口、終日悪を言って已まず、衆に憎まれる者——閭巷を要遮し、姦を察し禍を伺わせよ。事を好み、夜臥し早く起き、劇しくとも悔いない者——妻子の将。事を先に察し、勧めて食を与え、言少なく財物を平均する者——十人の将。切々粛々として諫言を用いず、しばしば刑戮を行い、血を見るまで親戚をも避けない者——百人の将。訟弁して勝を好み、嫉み侵し、刑をもって人を斥け、衆を整えんとする者——千人の将。外貌は怍々として言葉は時に出で、人の飢飽を知り劇易に習う者——万人の将。戦々慄々、日に一日を慎み、賢を近づけ謀を進め、人に節を知らせる者——十万人の将。温良にして実り長く、心を両(ふた)つにせず、賢を見れば進め、法を行って枉げない者——百万人の将。

知人知人第五

難点は明言される——人は知りやすからず、人を知るは易からず。以下は教義ではなく手続きである。

漢の光武は聡く聴く主でありながら龐萌を誤り、曹孟徳は人を知る哲でありながら張邈に敗れた。なぜか。「類する」ことが世を惑わすからである。狙(ずる)い者は智に類して智でなく、愚者は君子に類して君子でなく、戇(おろか)な者は勇に類して勇でない。国を亡ぼす主は智に似、国を亡ぼす臣は忠に似る。幽莠の幼は禾に似、驪牛の黄は虎に似る。白骨は象と疑われ、碔砆は玉に類する。みな似て非なるものである。

孔子は言う、「人の心は山川より険しく、天より知り難い。天にはなお春秋冬夏と旦暮の期がある。人は貌を厚くし情を深くする」。太公は不一致を数え上げる——厳にして不肖なる者あり、温良にして盗を為す者あり、外貌恭敬にして中心欺慢なる者あり、敢断のごとくにして断ずる能わざる者あり、恍惚として却って忠実なる者あり、逶迤として効ある者あり。

ゆえに術がある。微かに察して問い、その辞を観る。辞をもって窮め、その変を観る。間(ひそ)かに謀り、その誠を観る。明白に顕かに問い、その徳を観る。遠く使いして財を与え、その廉を観る。色をもって試み、その貞を観る。難を告げ、その勇を観る。酒に酔わせ、その態を観る。『荘子』はさらに九つを加える——遠く使ってその忠を観、近く使ってその敬を観、煩わしく使ってその能を観、卒然と問うてその智を観、急に期してその信を観、雑えて処らせてその色を観る。

李克の五視——居りては其の親しむ所を視、富みては其の与うる所を視、達しては其の挙ぐる所を視、窮しては其の為さざる所を視、貧しては其の取らざる所を視る。太公の八徴も同じ器械である。この篇は統制された試験の一式である。

察相察相第六

人は知り難いと言った次に、最も古い近道が来る。その限界がまず示される——富貴は骨法に在り、憂喜は容色に在り、成敗は決断に在り。

人を相(み)ることは古い。『左伝』——周の内史叔服が魯に来たとき、公孫敖は彼が人を相ることができると聞いて二子を見せた。『漢書』——高祖は劉濞を呉王に立てた後、これを相して言った。「汝の面には反相がある。漢の五十年の後、東南に乱があろう。まさか汝ではあるまいな。天下は一家だ、慎んで反くな」。

篇の中核は本書で最も専門的な文章である。面には五嶽四瀆・五官六府があり、顴骨がわずかに起こり膚色が潤沢な者は九品の侯、以下一品まで段階がある。龍に似る者は文吏、虎に似る者は将軍、牛に似る者は宰輔、馬に似る者は武吏。次いで目、鼻、口、歯、鬢、指と続く。

この篇の文字のいくつかは、底本が字形を「説明する」ことしかできなかった——どの活字にもない字だからである。本ページでは表意文字構造データベースにより二十七字を Unicode の正字に復元し、三字は Unicode に存在しないため底本のままとした。この篇だけは議論ではなく技術書であることは、正直に言っておくべきだろう。唐人が真剣に扱い、我々が扱わなくなった類の技術である。

論士论士第七

巻中で最も温度の高い篇。権力のある者が、権力のない者に礼を尽くさねばならない理由。

斉の桓公は小臣稷を訪ね、一日に三たび行って会えなかった。従者が止めると桓公は言った。「爵禄に傲る士は、もとよりその主を軽んずる。その主が覇王に傲れば、また士を軽んずる。夫子が爵禄に傲るとして、わたしがどうして覇王に傲れようか」。五たび行って会えた。『書』に言う、よく自ら師を得る者は王たり。

斉の宣王が顔斶に「斶よ、前へ」と言うと、斶も「王よ、前へ」と言った。王は色をなして、「王が貴いか、士が貴いか」。答えて言う、「昔、秦が斉を攻めたとき、令が下りました。『柳下季の墓から五百歩の内で樵採する者は罪死して赦さず』と。また令が下りました。『斉王の首を得る者は万戸侯に封じ、金千鎰を賜う』と。これによれば、生きた王の首は死んだ士の墓にも及びません」。王はついに彼を師とした。

淳于髡は宣王に言った。「古の人は馬を好み、王も馬を好む。古の人は味を好み、王も味を好む。古の人は色を好み、王も色を好む。古の人は士を好んだが、王だけは好まれない」。王が「国に士がおらぬのだ」と言うと、髡は言った。「古には驊騮騏驥がありましたが今はない。それでも王は衆から選ばれる。馬を好んでおられます。古には毛嬙・西施がいましたが今はいない。それでも王は衆から選ばれる。色を好んでおられます。もし堯舜禹湯の士を待ってはじめて好まれるというなら、堯舜禹湯の士のほうも王を好みますまい。」

政体政体第八

巻の締め。人から国へ移る。最後の一行が全書の蝶番である——変を論ずるために、まず常を経として立てる。

古に帝王を立てたのは、その欲を奉養するためではない。天下の人において強が弱を掩い、詐が愚を欺くから、天子を立てて斉一にしたのである。一人の明では海内を遍く照らせないから、三公九卿を立てて輔翼させた。絶国殊俗には沢が及ばないから、諸侯を立てて教誨させた。

管子の十五条が一つずつ注釈される。国を傾かざる地に措くとは、徳あることである。涸れざる倉に積むとは、五穀を務めることである。竭きざる府に蔵すとは、桑麻を養い六畜を育てることである。令を流水の原に下すとは、人心に順うことである。士を諍わざる官に使うとは、人に各々その長ずるところを為させることである。必死の路を明らかにするとは、刑罰を厳しくすることである。必得の門を開くとは、慶賞を信とすることである。成るべからざるを為さずとは、人力を量ることである。得べからざるを求めずとは、人にその悪む所を強いないことである。久しかるべからざるに処らずとは、一世の宜しきを偸まないことである。

次いで十五事——版籍を明らかにし、什伍を審らかにし、夫田を限り、刑名を定め、君長を立て、農桑を急にし、末作を去り、学教を敦くし、才芸を校し、精悍を簡び、武備を修め、禁令を厳にし、賞罰を信にし、游戯を糾し、苛克を察す。「聖人がふたたび起こっても、必ずこう言うだろう」。そして最後の一行——「長短の変を論ぜんと欲す。ゆえに政道を立てて経と為す。」

巻第二 文中卷第二 文中

四篇。巻一の目は臣下に向いていたが、この巻の目は上と全体に向く。君徳には王・覇・強弱の別があり、臣行には六正六邪があり、性情にはそれぞれの長とそれぞれの偏り(『人物志』十二材の失)があり、国家は六主・九風・四乱・四危によって診断できる。底本にこの巻の総題はなく、四庫の編者は体例から「文中」の二字が脱したと推定した。本ページの表紙に用いた清刻本の巻頭には、はっきり「長短經卷第二 文中」と刻まれている。

君徳君德第九

巻の首篇にして、本書の統治の目盛りを与える篇。

三皇は言なくして化は四海に流れ、天下は功を帰するところがなかった。帝者は天に体し地に則り、言あり令ありて天下は太平、君臣は功を譲り合い、百姓はその所以を知らなかった。王者は人を制するに道をもってし、心を降して志を服させる。矩を設けて衰えに備え、察々の政と兵甲の備えはあっても、刃を血ぬる用はない。覇主は士を制するに権をもってし、士を結ぶに信をもってし、士を使うに賞をもってする。信が衰えれば士は疎んじ、賞が毀たれれば士は用いられない。

ゆえに国を理める本は刑と徳である。天は陰陽をもって歳を成し、人は刑徳をもって治を成す。聖人が政をとっても、一方だけを用いることはできない。徳を任ずること多く刑を用いること少なきは五帝。刑徳相半ばするは三王。刑に仗ること多く徳を任ずること少なきは五覇。純ら刑を用い、強くして亡びたるは秦。

以下は事例による比較で、注の二大典拠は虞世南『帝王略論』と班固の漢書諸賛である。高祖と光武、豁達大度と謹細条目、いずれが優るか。曹植の評は高祖に厳しい——名は徳に純ならず、行は道に純ならず、身没して後、凶婦(呂后)が骨肉に酷虐を逞しうした。虞世南の評は逆である——高祖の臣は古今に稀な人物ばかりで、彼はそのすべてを用いることができた。光武を並べれば、次善を最善の横に置くことになる。

周の成康と漢の文景を並べてよいか。虞世南は言う——成康は文武の遺跡を承け、周公・召公を相とし、すでに篤厚な民を化した。疾風が草を偃せるのと変わらない。漢の高祖は日も足りぬ有様から起こし、嬴(秦)の弊がなお残っていた。太宗(文帝)はそこで刑措に近づけた。こちらの方が難しい。そして武帝は。「始皇に方(くら)べれば優れている。驕奢暴虐においては相亜(つ)ぐ。ともに功余りありて徳足らず。」結論は同じ一文である——武帝も始皇も、功を立てた君であって、成を守る主ではない。

臣行臣行第十

六正と六邪、そしてその分類が破綻する事例。

六正——萌芽未だ動かず形兆未だ見えざるに、独り存亡の機・得失の要を見、未然に禁じて主を顕栄の地に立たせる聖臣。心を虚しくし意を尽くし、日々善道を進め、主を礼義に勉め長策を諭し、その美に順い、その悪を匡救する大臣。夙に興き夜に寐ね、賢を進めて懈らざる忠臣。成敗を明察し、早く防いで救い、その間を塞ぎその源を絶ち、禍を転じて福となす智臣。文に依り法を奉じ、贈遺を受けず、食飲節倹なる貞臣。国家昏乱のとき諛わず、主の厳顔を犯して面と過失を言う直臣。

六邪——官に安んじ禄を貪り、公事を務めず世と浮沈する具臣。主の言うことはみな「善し」、為すことはみな「可なり」、隠かに主の好むところを求めて進める諛臣。中は険詖にして外貌は小謹、巧言令色にして賢を疾む奸臣。智は非を飾るに足り、弁は説を行うに足り、内は骨肉の親を離し外は朝廷を妬乱する讒臣。権を専らにし勢を擅にし、私門に党を成し、主命を矯めて自ら顕貴する賊臣。佞邪をもって主に諂い、主を不義に墜とし、朋党比周して主の明を蔽う亡国の臣。

そして難件が並ぶ。楊阜は言うべきを言ったが、袁子はこれを「直士であって忠にあらず」とする——主の過ちを世に知らせたからである。陳羣は終日語って一度も人主の非を言わず、数十上の書は誰にも知られなかった。これが忠である。季布は項羽に仕えて勇名を得、後に人の奴となって死ななかった。司馬遷は「何ぞ其れ下れるや」と言う。だが彼は自分の値打ちを知ってわざと身を落としたのだ。管仲は公子糾に死ななかった——「公子糾に死なざるを恥じず、威の諸侯に申びざるを恥ず」。同じ行いに定まった名はない。名は、その人の官と引き受けた仕事から読み取られる。

徳表德表第十一

「徳」を、矯正可能な偏差の表に書き換える短篇。

孔子曰く「性、相近きなり。習、相遠きなり」。ゆえに聖人は人を導いて性を理め、流宕を裁き抑え、与(とも)にする者を慎み、その偏るところを節する。「好悪を審らかにし情性を理むれば、王道は畢る」。

性を治める道は、己に余りあるところを審らかにして、足らざるところを強くすることにある。聡明疏通なる者は察し過ぎるを戒め、寡聞少見なる者は壅蔽を戒め、勇猛剛強なる者は太暴を戒め、仁愛温良なる者は断なきを戒め、湛静安舒なる者は後れるを戒め、広心浩大なる者は遺忘を戒める。

次いで『人物志』の十二材、それぞれに失が組み込まれている。厲直剛毅——材は矯正に在り、失は激訐に在り。柔順安恕——美は寛容に在り、失は決少なきに在り。雄悍傑健——任は胆烈に在り、失は忌多きに在り。精良畏慎——善は恭謹に在り、失は疑多きに在り。強楷堅勁——用は楨幹に在り、失は専固に在り。論弁理繹——能は結を釈くに在り、失は流宕に在り。以下十二まで。「これは拘亢の材であって、中庸の徳ではない」。

そして『文子』——心は小ならんことを欲し、志は大ならんことを欲し、智は円ならんことを欲し、行は方ならんことを欲し、能は多からんことを欲し、事は少なからんことを欲す。心小とは患いの未だ生ぜざるを慮ること。志大とは万国を兼ね包み殊俗を斉しくすること。智円とは終始端なく四遠に流れること。行方とは直立して撓まず、窮しても操を易えないこと。

理乱理乱第十二

国家を診断対象として扱う。三つの表があり、読み方は逆である——「この君は善いか」ではなく「この国はどの風の匂いがするか」。

六主(荀悦)——体正しく性仁、心明らかにして志同じく、人のために動いて己のために動かざる、これを王主という。己に克ち躬を恕し、問を好み力行し、義に従って動き情に従わざる、これを治主という。事に勤め業を守り、敢えて怠荒せず、公を先にして私を先にせざる、これを存主という。悖逆交々争い、公私並び行われ、一得一失にして道度に純ならざる、これを衰主という。情が義に過ぎ、私が公より多く、制度は限を逾え、政教は常を失う、これを危主という。讒邪を親用して忠賢を放逐し、情を縦にし欲を逞しうし、礼度を顧みず、賞賜に私を行い、忿怒に罰を施して法理を逾え、非を遂げ過ちを文って改めるを知らず、忠言塞がり直諫誅戮される、これを亡主という。

九風——君臣親しんで礼あり、百寮和して同ぜず、譲って争わず、勤めて怨まず、ただ職をこれ司る。礼国の風。礼俗一ならず、職位重からず、小臣は讒疾し、庶人は議を作す。衰国の風。君臣は明を争い、朝廷は功を争い、大夫は名を争い、庶人は利を争う。乖国の風。上は欲多く、下は端多く、法定まらず、政は門多し。乱国の風。侈を博となし、伉を高となし、濫を通となし、礼に遵うを拘といい、法を守るを固という。荒国の風。苛を察となし、利を公となし、下を割くを能となし、上に附くを忠となす。叛国の風。以下、危国・亡国の風まで。

次いで四乱と四危。この篇は診断票であり、その項目はどれも部外者が一週間で観察できるものばかりである。

巻第三 文下卷第三 文下

本書の蝶番であり、今の書名『反経』の出どころ——第十三篇「反経」がここにある。前二巻が統治の一式を組み立てたのに対し、この巻はそれをそっくり裏返す。仁義礼楽名法刑賞の八者はそれぞれ自分の反対物を生み、第十四篇は古訓を二つずつ対置して五十三対、裁決を下さない。第十五篇は法が時と齟齬すれば法を立てるほど乱が増すと言い、第十六篇は諸子百家の長所と病をそれぞれ挙げる。この巻だけを読んだ読者は、読み誤ったとは言えない。

反経反经第十三

今の書名の出どころ。法度への反対ではない。良いものはすべて、自分の壊れ方を内蔵しているという警告である。

三代が亡んだのは法が亡んだからではない。法を御する者が、その人でなかったのである。ゆえに法とは先王の陳跡であって、その人がいなければ道はひとりでに行われない。

尹文子曰く、仁義礼楽・名法刑賞、この八者は五帝三王が世を治めた術である。そして一つずつ裏返される。仁は物に博く施す所以であり、また偏私を生ずる所以である。義は節行を立てる所以であり、また華偽を成す所以である。礼は敬謹を行う所以であり、また惰慢を生ずる所以である。楽は情志を和す所以であり、また淫放を生ずる所以である。名は尊卑を正す所以であり、また矜篡を生ずる所以である。法は衆異を斉しくする所以であり、また乖分を生ずる所以である。刑は不服を威す所以であり、また凌暴を生ずる所以である。賞は忠能を勧める所以であり、また鄙争を生ずる所以である。

『文子』は同じ操作を制度に加える。書を作ったのは百事を領理し、愚者に忘れさせず智者に事を記させるためだった。衰えると、奸偽をなして有罪を解き無辜を殺す道具になった。囿を作ったのは宗廟の具に奉じ士卒を簡べ不虞を戒めるためだった。衰えると、馳騁弋猟して人の時を奪う場になった。賢を上げたのは教化を平らかにし獄訟を正すためだった。衰えると、朋党比周して公を廃し私に趨るようになった。

『韓詩外伝』の「士に五反あり」——勢尊貴にして人を愛し義理を行わず、却って暴傲をなす。家富厚にして窮を振い足らざるを救わず、却って侈靡無度をなす。勇悍を資として上を衛り攻戦せず、却って侵凌私闘をなす。心智恵にして計教を端しくせず、却って奸を事とし詐を飾る。貌美好にして朝に統べ人に莅まず、却って女を蠱し欲に従う。そして太公——「罰を明らかにすれば人は畏懾す。人畏懾すれば変故出づ。察を明らかにすれば人は擾る。人擾るれば人徙る。人徙れば其の処に安んぜず、以て変を成し易し。」

是非是非第十四

形式の上で本書中もっとも特異な篇。五十三対、「是に曰く」と「非に曰く」を交互に立て、いずれも古訓の引用のみで構成され、著者はほとんど介入しない——この篇の自注は三百字あまりにすぎない。

冒頭に理由が書かれている。損益は途を殊にし、質文は政を異にする。前誌の垂れた教えは、今ではみな理をもって違えることができる。

是に曰く——〈大雅〉に云う「既に明かつ哲、以てその身を保つ」。『易』に曰く「天地の大徳を生と曰う」。非に曰く——『論語』に曰く「士は危うきを見ては命を致す」。また曰く「君子は身を殺して以て仁を成すあり、生を求めて以て仁を害するなし」。

是に曰く——管子曰く「今を疑う者は之を古に察し、来を知らざる者は之を往に視る」。非に曰く——『呂氏春秋』曰く「食に因って死ぬ者があるからとて天下の食を禁じようとするのは、悖(もと)れり。舟に乗って死ぬ者があるからとて天下の船を禁じようとするのは、悖れり。兵を用いて国を喪う者があるからとて天下の兵を偃せようとするのは、悖れり」。杜恕曰く「奸臣賊子は古より今に至るまで未だ嘗て無くんばあらず。百歳に一人なら踵を継ぐというもの、千里に一人なら肩を比べるというものだ。それを挙げて戒めとするのは、一たび噎(むせ)んだからといって人に食を禁じるようなもの。噎ぶ者は少なく、餓える者は必ず多い」。

是に曰く——孔子曰く「訐(あば)くを悪みて以て直と為す者を悪む」。非に曰く——管子曰く「悪を隠して以て仁と為す者を悪む」。そして魏の曹羲『至公論』——悪を掩い善を揚げるのは君子の大義、というのは閭閻の臼談にすぎない。愛憎の相謗を救うために作られた言であって、篤正の至理でも折中の公議でもない。善悪が分たれなければ乱はそこから生じ、朋友が雷同すれば敗は必ず従う。

こうして五十三対。読者が自分で秤を持たされる——それがこの篇の狙いである。(本ページでは「是曰」「非曰」を標目として扱う。四庫本ではこれらが注に用いる小字で刻まれており、文中の語ではないからである。)

適変适变第十五

「時」の篇。底本ではこの篇の後半約二千七百字が脱落しており、本ページでは四庫全書本から補った。黄老・儒・墨・法四家の評はすべてそこにある。

先王は時に当たって法度を立て、務めに臨んで事を制した。法がその時に宜しければ理まり、事がその務めに適えば功があった。今、時は移って法は変わらず、務めは易わって事は古による。ゆえに法と時は詭(たが)い、法を立てれば立てるほど時はいよいよ乱れる。

王道の治とは、まず人の害を除いてその衣食を足らせ、然る後に礼儀を教え、刑誅をもって威し、好悪去就を知らせる。覇功の大なるものとは、君を尊び臣を卑しくし、権統を一に由らせ、政に二門なく、賞罰必ず信、法令著明、百官は修理され、威令は必ず行われる。

次いで『道徳経』の「我無為にして人自ら化す」と、『文子』による無為の定義——これは漢語における無為の最良の短い定義である。「いわゆる無為とは、引いても来らず推しても往かざるを謂うのではない。理に循って事を挙げ、資に因って功を立て、自然の勢を推すことを謂うのである。」湯・武は聖主だが越人と舲舟に乗って江湖に泛ぶことはできない。伊尹は賢相だが胡人と原馬に騎り騊駼を服することはできない。孔・墨は博通だが山居の者と榛薄に入り険阻を出ることはできない。

そして四家、それぞれに例を挙げ、それぞれに持ち分を与える。黄老——曹参は斉をこれで治め、国は安集した。漢相を継ぐとき後任に「斉の獄市をお預けする。ゆめゆめ少しも擾すな」とだけ言い、「それより大事なことはないのか」と問われて答えた。「そうではない。獄市とは並び容れる場所だ。今これを擾せば、奸人はどこへ行く」。秦は刑を極めて天下叛き、孝武は法を峻にして獄は繁くなった。「これがその弊である」。儒——七教と三至。老を敬えば下は孝を益し、施を楽しめば下は亮を益し、徳を好めば下に隠なく、貪を悪めば下は争を恥じる。墨——宮室を節し衣服を節する章がほぼ全文。法——商君・申子・慎子・尹文子・韓非・李斯の名分論。「名分未だ定まらざれば堯舜禹湯といえども皆務めを加えてこれを逐う。名分已に定まれば、貧盗も敢えて取らず」。

この篇は選ばない。「経緯は制を殊にし、弊を救うは同じからずといえども、しかも群生を康済するは、みな以(ゆえ)あるなり。」許さないのは、一つの時代のための法を引いて別の時代の救弊を詰る者、帝王の風を引いて覇者の政を譏りながら時の変を論じない者である。「言偽にして弁、非に順って沢(つや)をかける。これ罪人なり。ゆえに君子これを禁ず」。

正論正论第十六

九流に総判を下す。体例は『漢書・芸文志』に倣うが、各家に「及びその弊や」の一段が加えられている。

まず基準が立てられる。『礼記』——『詩』は温柔敦厚を教え、『書』は疏通知遠を、『楽』は広博易良を、『易』は潔浄精微を、『礼』は恭倹荘敬を、『春秋』は属辞比事を教える。そしてそれぞれに失がある。『詩』の失は愚、『書』の失は誣、『楽』の失は奢、『易』の失は賊、『礼』の失は煩、『春秋』の失は乱。温柔敦厚にして愚ならざる者が『詩』に深い者である——以下六つとも同じ。

儒家は司徒の官より出で、人君を助けて陰陽に順い教化を明らかにし、六経の中に文を游ばせ仁義の際に意を留める。これがその最高。弊は、惑う者が精微を失い、僻なる者が時に随って抑揚し、道の本を離れて嘩衆取寵に走ること。道家は史官より出で、成敗を歴紀し、要を秉り本を執り、清虚をもって自ら守り卑弱をもって自ら持す。君人南面の術である。弊は、放なる者が礼楽を絶ち去り仁義を兼ね棄て、ひとり清虚に任せること。それで何を治めるのか。

陰陽家は羲和の官より出で、敬んで天に順うのが長所。弊は、禁忌に牽かれ小術に泥むこと。法家は理官より出で、賞罰を礼制に信わせるのが長所。弊は、刻薄にして教化を残(そこな)うこと。名家は礼官より出で、名を正すのが長所。弊は、鉤鈲析乱して遊戯に堕すこと。墨家は清廟の守より出で、倹を尚び賢を尚ぶのが長所。弊は、尊卑の別を見失うこと。縦横家は行人の官より出で、権事に応ずるのが長所。弊は、詐謀一本になること。雑家と農家が同じ形式で続く。

巻第四 覇紀上卷第四 霸纪上

一篇、本書中で最も長い巻。周の東遷から隋の滅亡・唐の興起まで。正文はわずか五千字あまりの編年の骨組みで、趙蕤の自注が三万字あまり、史書から段ごとに嵌め込んで肉をつける。正文は注と併せて読まねばならない。注を外せば文章として成り立たないほどである。

覇図霸图第十七

骨組み——周は天下を有ち、これを理めること三百余年。成康の隆には刑を措いて四十余年用いなかった。その衰えもまた三百余年。そこで五伯が更々に起こった。伯は常に天子を佐け、利を興し害を除き、暴を誅し邪を禁じ、海内を匡正して天子を尊んだ。五伯が没して賢聖が続かず、天子は孤弱、号令は行われず、諸侯は恣に行い、強は弱を凌ぎ、衆は寡を暴した。

田常が斉を簒い、六卿が晋を分かち、並んで戦国となった。「これ人の始めて苦しむなり」。強国は功を務め弱国は守を務め、合従連衡し、馳車轂を撃ち、介冑に蟣虱を生じ、人に告訴するところなし。やがて秦が天下を蚕食し戦国を併呑、海内の政を一にし、諸侯の城を壊し、法は厳に政は峻に、諂諛の者が多くなった。蒙恬を遣って北に胡を攻めさせ、尉佗に卒を率いて粤を戍らせ、無用の地に兵を宿らせ、人は生を聊んぜず。始皇崩じて天下は大いに叛いた。

そこから編年が始まる。陳勝・呉広は陳に、武臣・張耳は趙に、項梁は呉に、田儋は斉に、景駒は郢に、周市は魏に、韓広は燕に。窮山通谷、豪傑並び起こって秦族は亡んだ。次いで漢の高祖、沛の泗上亭長。先に咸陽に入った者を王とするという約。定陶における項梁の死。韓信の井陘、背水の陣。婁敬の関中建都の献策。光武の昆陽。官渡。赤壁。劉淵と石勒。宋斉梁陳の禅代。李密と王世充。そして唐。

本書が生きているのは注の中である。蒯通が范陽令を説き伏せ、三十城が「阪上に丸を走らすが如く」降る。蕭何が漢王に、漢中の王であることは死ぬよりましだ、一人の下に屈して万人の上に申びるのが湯武だ、と説く。李左車が韓信の糧道を絶つ策を出して容れられず、後に韓信が千金でその献策を買う。婁敬が、周は洛陽を保てたが漢は保てない理由を説く。張良が、関中は天下の喉を扼し背を拊つ地だと説く。

篇末の「論に曰く」は干宝を引く——帝王の興るは必ず天命を俟つ、代謝があれば人事にあらず。范曄を引く——大業を喪い宗禋を絶つに至る所以は、三代は嬖色、嬴氏は奢虐、西京は外戚、東都は閹尹。そして著者自身の総括は、まったく宿命論ではない。「秦漢より周隋に迄るまで、およそこれを得た者は、みな賢豪を得て人のために利を興し害を除いたからである。これを失った者は、例外なく群小を任用し、奢汰に度がなかったからである。」

巻第五 覇紀中卷第五 霸纪中

一篇、戦国を論ずる。蘇秦の合従・張儀の連横の遊説がほぼ全文注に収められ、縮約版『戦国策』の観がある。本ページの底本ではこの巻がまるごと巻四の最初の注の中に挟み込まれていた。切り出して元の位置に戻してある(巻末「底本と校訂例」参照)。

七雄略七雄略第十八

天下は大器であり、群生は重蓄である。器が大きければ独りでは理められず、蓄が重ければ自ら守ることはできない。ゆえに野を劃し疆を分かつのは侯を建てるに利するためであり、親疏が相鎮めるのは盛衰に関わるからである。周は二代に監みて爵を五等に立て、八百国を封じ、同姓五十五。根を深くし本を固くして、抜くべからざる者とした。盛んなときは周公・召公がその治を相け、衰えたときは五覇がその弱を扶けた。しかし下を厚くする典は、尾大の弊に至る。

幽王・平王の後、日に日に陵夷し、爵禄は多く陪臣より出で、征伐は天子より出でなくなった。呉は越に併され、晋は三に分かれ、鄭は韓に兼ねられ、魯は楚に滅ぼされた。海内に主なきこと四十余年にして「戦国」となる。秦は勢勝の地に拠り、狙詐の兵を騁せ、山東を蚕食し、山東はこれを患えた。洛陽の蘇秦は諸侯の縦を合わせて秦を賓(しりぞ)け、魏の張儀は諸侯の縦を破って横に連ねた。縦横の起こる所以である。

以下、遊説がほぼ全文。燕の文侯へ——燕が安全なのは趙が南を蔽っているからだ、秦が燕を攻めるのは千里の外の戦、趙が燕を攻めるのは百里の内の戦、百里の患を憂えず千里の外を重んずるほど誤った計はない。趙の粛侯へ。韓王へ——秦に事えれば年ごとに身を削られ、地は尽きても要求は尽きない。魏へ、斉へ、楚へ。そして張儀が同じ六つの宮廷を回って一つずつ解いてゆく。楽毅の「比目の魚」の書。魯仲連が秦を帝とすることを拒む。范雎の遠交近攻。黄歇の上書。十二歳の甘羅が口先だけで趙から五城を取る。

篇末の論は、五等封建と郡縣を秤にかける。周は八百年、末には王赧が庶人に落ちてもなお名は天下の共主だった。枝葉が相持したからである。秦は周の失を懲りて五等を廃し郡縣を立て、君は海内を有ちながら子弟は匹夫、身死の日に海内は分崩した。布衣の男が沢中で大呼しても、王室に駆けつける理由のある諸侯が一人もいなかったからである。どちらも安全ではない。郡縣にして理まれば布衣の心が生じ、五等が代を御すれば縦横の禍がある。法にはみな弊がある。結論は、君主が兢々業々として日に一日を慎み、徳を修めて鎮め、賢を択んで使うほかない——「湯武の聖ありといえども興す能わず、いわんや布衣の細をや」。

巻第六 覇紀下卷第六 霸纪下

一篇、三国を論ずる。調子は冒頭で決まる——呉蜀が曹氏と衡を争えたのは徳でも人和でもなく地である。以下、地理に沿って攻守の便を一つずつ計算してゆく。この巻にも底本に総題がなく、「覇紀下」は四庫の編者が体例から補ったものである。

三国権三国权第十九

漢氏が綱を失い、網は凶狡を漏らした。袁本初は河朔に虎視し、劉景升は荊州に鵲起し、馬超・韓遂は関西に雄拠し、呂布・陳宮は東夏に命を竊んだ。みな百万の兵と千群の鉄騎を擁する一時の傑である。しかるに曹操は「天子を挟みて諸侯に令し」、六七年の間に十に八九を夷滅した。呉蜀は蕞爾たる小国、地図で計れば四州の土にすぎず、人は公戦に怯えて私闘に勇み、諸華の士に敵わない。ではなぜこの二雄は剣を撫して曹氏と衡を争えたのか。地利が同じからず、勢がそうさせたのである。

曹丕は江に臨み、波濤の洶湧たるを見て嘆じた。「これ天の南北を限る所以なり」。劉資は南鄭を「天獄」と称し、斜谷道を「五百里の石穴」と称した。前志を稽(かんが)みれば、みなその深阻を畏れている。この篇自身の註釈は乾いている——天道の順は地利に如かず、地利は人和に如かず。だが中材の者がこの地を守っていたなら、期を延べ命を挺(の)ばすことはできたであろう。

以下、地誌。蜀——地方五千里、提封四十郡、実に一都会。「天府の国」、沃野千里、女工の業は天下を衣(き)せ、名材竹干、魚塩銅鉄の利、水に浮かべて転輸できる。李熊が公孫述に説いた言葉。張松・法正が劉備を引き入れた経緯。最後に鄧艾が山を越えて来た道。荊——江の喉、だから魯粛は孫権に取れと言い、呂蒙は白衣で渡って取り返した。呉——湖と江、そして赤壁前夜の周瑜の計算。北人は舟に習わず、馬に秣なく、時節は不利、疫病が残りをやる。

篇末は賈誼『治安策』——近親の王が叛き、二万五千戸しかなく何の力もない長沙王が最後まで忠であった。「独り性の人に異なるにあらず、また形勢然らしむるなり」。そして著者自身がそれを自分の時代に当てはめる。今、城を専らにする者はみな提封千里、官は才によって居り、属は肺附にあらず、呉は江湖に拠り蜀は天険を阻む。万世の変に遭えば、国を有つ者は察せざるべからず。

巻第七 権議卷第七 权议

二篇。前篇「懼戒」は本書第二の長篇で、王朝の交替を一本の線に並べる。結論は一文——天下は一人の天下にあらず、天下の天下なり。後篇「時宜」は、同じ策が年が違えば逆の結果になることを示す。

懼戒惧戒第二十

『易』に曰く「湯武は命を革む。天に順いて人に応ず」。『書』に曰く「我を撫すれば則ち后、我を虐ぐれば則ち讐」。古語に曰く「窮鼠は狸を嚙み、匹夫は万乗に奔る」。黄石公に曰く「君は徳なかるべからず。徳なければ臣叛く」。

文王が酆に在って太公に商王のことを問う——この一段が篇中最長で、本書における「待つ」ことの最良の陳述である。身を修め、賢に下り、人に恵み、天道を観よ。天の殃がなければ先に唱えてはならず、人の災がなければ先に謀ってはならない。「天下は一人の天下にあらず。天下を取るは野獣を逐うが如し。これを得れば天下みな肉を分かつあり。」民に取るなき者が、民を取る者である。国に取るなき者が、国を取る者である。「吾れ其の野を観るに、草茅は穀に勝つ。吾れ其の群を観るに、衆曲は直に勝つ。吾れ其の吏を観るに、暴虐残賊、法を敗り刑を乱して上は覚らず。これ亡国の則なり」。

次いで交替の列。叔向が韓宣子に、楚の子干が済(な)らない理由を説く——国を取るに五難あり。寵ありて人なきが一、人ありて党なきが二、党ありて謀なきが三、謀ありて民なきが四、民ありて徳なきが五。子干は五つとも無く、棄疾は五つとも有る。子貢が一たび出て斉を乱し魯を存し呉を破り越を覇たらしめる——孔子の評は落ち着かない。秦の亡。王莽の篡。更始の敗。隋の滅と太原の起兵、白旗と野の誓い。

最後の一段が篇名の理由である。孔子が『詩』の「殷士膚敏、京に祼将す」に至って喟然として嘆じた。「富貴は常なし。かくの如くならずんば、王公は何をもって誡慎し、民萌は何をもって勧勉せん」。『易』に曰く「安くして危を忘れず、存して亡を忘れず。ここをもって身安くして国家保つべきなり」。ゆえに知る、懼れて誡を思うことこそ、国を有つ者の福である。

時宜时宜第二十一

同じことが年を隔てれば別のことになる。事が詭(よこしま)なのではない。時が変わったのである。

秦末、陳渉が陳に至ると土地の豪傑が王号を勧めた。張耳・陳余は止めた。「王となってはなりません。急ぎ兵を引いて西し、六国の後を立てて自ら党を樹ててください。さすれば野に交兵なく城に守牆なく、暴秦を誅し咸陽に拠って諸侯に令することができます。今ひとり陳に王たれば、天下は解けましょう」。

数年後、楚漢が相持するなか、酈食其が高祖にまったく同じ策を勧めた——六国の後を立てれば、その君臣百姓はみな陛下の徳を戴きましょう。高祖は「善し」と言い、印を刻ませた。そこへ張良が入って八難を数え上げる。湯が桀の後を杞に封じたのは桀の死命を制し得たからです。今、項籍の死命を制し得ますか。これが一。武王は商容の閭を表し箕子の囚を釈き比干の墓を封じた。今できますか。二。巨橋の粟を発し鹿台の財を散じた。今できますか。三。——そして七つめが刺さる。天下の游士が親戚を離れ墳墓を棄て故旧を去って陛下に従うのは、日夜、咫尺の地を望んでいるからです。六国を復せば、彼らはみな故郷に帰って自分の主に仕える。陛下は誰と天下を取るのですか。高祖は食を吐き出して儒者を罵り、印を毀たせた。

篇はさらに「天子を挟みて諸侯に令す」に同じ試験を加える。沮授が袁紹に勧めて容れられず、曹操が行って勝った。杜思沖が蕭衍に南康王を迎えよと勧め、張弘策は、王を人の手に置けば節下は人に使われることになると警告した。蕭衍は両方を退け、そのまま進んで建業を克ち江左を有った。同じ一手で、正解は毎回違う。時に随って変通せよ、一に執るべからず。

巻第八 雑説卷第八 杂说

十九篇。本書で最も散漫で、最も読みやすい巻。各篇二三百字、世間の常識の裏側を一つずつ拾う——口を開く前に相手の心を釣る法、信は無条件ではないこと、忠は疑われること、無用こそ大用であること、恩が怨を生むこと、敵に尽くした男の遇し方、何一つ必ずとは言えないこと、運命、大私こそ公であること、敗を功に変えること、明晰な頭が曇る理由、政は低く卑近であるべきこと、善は積んではじめて効くこと、俗の好悪と事実が食い違うこと、根と跡を見れば弁は要らぬこと、過ちはその人の党から読まれること、君子と小人はほぼ情勢の産物であること、傲慢もまた礼であり得ること。そして最後に、言葉そのものの辞書。

釣情钓情第二十二

孔子曰く「未だ顔色を見ずして言う、これを瞽(もう)という」。また「未だ信ぜられざれば、以て己を謗ると為す」。荀卿曰く「語りて当たるは智なり、黙して当たるもまた知なり」。ゆえに、語らんとする者は必ずまず人の情を釣る。

篇の中核は『韓非子』「説難」のほぼ全文である。厚利をもって説けば節を下げる者と見られ卑賤に遇され、必ず遠ざけられる。名高をもって説けば心なしと見られ事情に遠いとされ、必ず収められない。大人を論ずれば己を間(うかが)うと思われ、細人を論ずれば権を鬻ぐと思われる。その愛するところを論ずれば資を借ると思われ、その憎むところを論ずれば己を嘗(ため)すと思われる。事は密をもって成り、語は泄をもって敗る。必ずしも自分が洩らしたのではない。相手の匿すところに言が及べば、それだけで身が危うい。

この篇独自の寄与は四つの「釣」である。言をもって釣り、事をもって釣り、賢をもって釣り、色をもって釣る。最後の一つには『鈐経』の表がある——喜は色灑然として出で、怒は色麃然として侮り、欲は色熰然として愉しみ、懼は色憚然として下り、憂は色懼然として静かなり。「人情は必ず物に見(あら)わる。これを知る者は、説を人主に納るべし」。

詭信诡信第二十三

孔子曰く「君子は貞にして諒ならず」。また「信、義に近ければ、言、復(ふ)むべし」。これによれば、ただ義の在るところのみ。必ずしも信ならず。

葉公が「わが党に直躬なる者あり、その父羊を攘みてその子これを証す」と言うと、孔子は言った。「わが党の直き者はこれに異なり。父は子のために隠し、子は父のために隠す。直はその中に在り」。

楚が宋を囲み、宋は晋に救いを求めた。晋侯は解揚を宋に遣わし「晋師悉く起つ、将に至らんとす」と伝えさせた。鄭人がこれを捕えて楚に献じ、楚子は厚く賂して逆を言わせようとした。解揚は許した。楼車に登らされ、宋人を呼んで——そのまま君命を伝えた。楚子が殺そうとして言わせた。「汝は既に不穀に許してこれに反く。何の故ぞ」。答えて言う。「臣これを聞く。君はよく命を制するを義となし、臣はよく命を承くるを信となす。信は義を載せて行い、これを利となす。謀は利を失わず、以て社稷を衛るは民の主なり。義に二信なく、信に二命なし。君の臣に賂するは、命を知らざるなり。命を受けて出づ、死すとも殞つるなし。何ぞ賂せんや。臣の君に許せしは、命を成さんがためなり。死して命を成すは、臣の禄なり」。

篇は意図的な逆説で終わる。「ゆえに知る、譎はすなわち信なり、詭はすなわち忠なり。それ詭譎の行いは、すなわち忠信の本なり。」第十三篇の操作を、徳目一つずつに加えたものである。

忠疑忠疑第二十四

毀誉是非は定まらない。漢高の略と陳平の謀をもってしても、これを毀れば疏んじられ、これを誉めれば親しまれる。文帝の明と魏尚の忠をもってしても、法をもって縄せば罪となり、徳をもって施せば功となる。世の聴く者には多く「尤(かたよ)る」ところがある。尤るところが多ければ、聴くことは必ず悖る。

『呂氏春秋』——斧を失くした男が隣の子を疑った。歩き方を見、顔色を見、言葉を聞き、動作態度を見れば、一つとして斧を盗んだ者でないところがない。後日、谷を掘って斧が出てきた。翌日また隣の子を見ると、動作態度に斧を盗んだらしいところは一つもない。隣の子が変わったのではない。自分が変わったのである。

篇末の『淮南子』が最も美しい。城の上から牛を視れば羊のごとく、羊を視れば豚のごとし。居るところが高いからである。盤の水に面を窺えば円く、杯に窺えば隋(楕円)である。面の形は変わらない。変わったのは、何に映して見たかである。「今われ身を正しくして物を待たんと欲すといえども、世の自ら我を窺うところを庸詎(なん)ぞ知らんや。ここに知る、天下の是非に定まるところなし。世は各々その是とするところを是とし、その非とするところを非とする。今われ是を択びてこれに居り、非を択びてこれを去らんと欲するも、世の是非するところを知らずんば、孰れが是、孰れが非ぞ。」ゆえに忠にして疑わるる者あり。察せざるべからず。

用無用用无用第二十五

古人の言——鳥を得るは羅の一目なり。しかし一目の羅を張っても、ついに鳥は得られない。鳥が遠く飛べるのは六翮の力だが、衆毛の助けがなければ遠く飛べない。これを推せば、無用の用たるや大なり。

恵子が荘子に「子の言は無用なり」と言った。荘子は言う。「無用を知ってはじめて用を語るべし。天地は広く大ならざるにあらざるも、人の用いるところは足を容るるのみ。しからば足を削って墊(ほ)り黄泉に至らば、人なお用あらんや」。「無用なり」。「しからば無用の用たるや、また明らかなり」。

陳平は智に余りありて疑われ、周勃は質朴にして忠にして信ぜられた。仁義が互いを懐けるに足りなければ、智者はその余りによって疑われ、朴なる者はその足らざるによって信を取る。漢が処士の樊英・楊厚を徴し、朝廷は神明を待つように待った。来てみれば、これという異能もない。李固・朱穆は、処士は純ら虚名を盗むもので用に益なしとした。しかし後進はこれを希って器を成し、世主はこれを礼して衆を得た。その無用を原(たず)ねれば、それこそが用と為った所以である。踐まざるの地を忽せにし無用の功を賒(か)し、遠術を誚訕し国華を賤斥するに至っては、過ぎたりというべきだろう。

恩生怨恩生怨第二十六

『伝』に諺を称す、「怨むところにあらずんば怨むなかれ。寡人は怨まる」。ゆえに知る、およそ怨は疏きに怨まず、必ず親密に怨む。

高子が〈小弁〉を「小人の詩なり」と言った。怨んでいるからだ、と。孟子は言う。「固なるかな、高叟の詩を為すや。ここに越人あって弓を関いて我を射れば、我は談笑してこれを道う。他なし、これを疏んずればなり。兄弟が弓を関いて我を射れば、我は泣涕してこれを道う。他なし、これを戚しむればなり。しからば〈小弁〉の怨は親を親しむなり。親を親しむは仁なり」。

晋の韓簡子が秦師を視て言った。「師は我より少なく、闘士は我に倍す」。公が理由を問うと、「出でては其の資に因り、入りては其の寵を用い、饑えては其の粟を食む。三たび施して報いず。来る所以なり」。杜鄴は王音に言った。「鄴これを聞く、人情、恩深き者はその養謹み、愛至る者はその求め謹む。戚しくして異を見ず、親しくして殊を見ずんば、孰れか能く怨みなからん」。怨とは親しむことであり、恩とは怨の生ずるところである。察せざるべからず。

詭順诡顺第二十七

趙子は言う。雲雷、世に屯(なや)み、烏の瞻(み)るところ未だ定まらぬとき、質を委ねた者はその君のために人を治め、各々その主のために職を用いるのみである。ゆえに高祖は季布の罪を賞し、晋文は寺人の過を嘉した。前の窘(くるし)めを怨まなかった。大体に通じたというべきである。

晋の文公が初め亡命したとき、献公は寺人の披に蒲城を攻めさせ、披は公の袪を斬った。国に返り、呂・郤が逼を畏れて宮を焚いて殺そうとしたとき、披は謁見を請うた。公は責めさせた。「蒲城の役、君命は一宿なるに汝は即ち至った。その後わが狄君に従いて渭浜に田したとき、汝は恵公のために我を殺しに来た。命は三宿なるに汝は中宿に至った。君命ありといえども、何ぞそれ速やかなる」。披は答えた。「臣は、君の入るや、すでにこれを知っておられると思っておりました。もし未だでしたら、また難に及びましょう。君命に二なきは古の制であります。君の悪を除くには、ただ力これ視るのみ。蒲人・狄人が、私に何でありましょう。今、君は即位された。蒲・狄なきことがありましょうか。斉の桓公は射鉤を置いて管仲を相とした。君がこれを易えられるなら、命を辱うするに及びません——行く者は甚だ多く、あに刑臣のみならんや」。公は会い、難を告げられて呂・郤の難を免れた。

そして反面——晋侯は里克を殺し、漢祖は丁公を戮し、石勒は棗嵩を誅し、劉備は許靖を薄んじた。みな理由がある。范曄の一句が締める。「それ人、義を故主に守るは、ここに新主に事うべし。その衆を以て寵を受くるを恥ずるは、ここに大寵を受くべし。」

難必难必第二十八

人主は臣の忠なるを欲さぬ者はないが、忠は必ずしも信ぜられない。伍員は江に流され、萇弘は蜀に死んで、その血は三年にして碧と化したという。親は子の孝なるを欲さぬ者はないが、孝は必ずしも愛されない。孝己は憂え、曾参は悲しんだ。これが「必とし難き」ものである。

魏の文侯が狐巻子に、父子兄弟君臣の賢は恃むに足るかと問うた。「足りません。なぜか。父の賢は堯に過ぎませんが丹朱は放たれ、子の賢は舜に過ぎませんが瞽叟は拘えられ、兄の賢は舜に過ぎませんが象は傲り、弟の賢は周公に過ぎませんが管・蔡は誅せられ、臣の賢は湯武に過ぎませんが桀紂は伐たれました。人を望む者は至らず、人を恃む者は久しからず。君が理まるを欲されるなら、身より始められませ。人の何ぞ恃むべけんや」。

篇末に恃むに足らぬものが並ぶ。「権利をもって合する者は、権利尽きて交わり疏し」。「色をもって人に事うる者は、色衰えて愛絶ゆ」。墨子曰く「慈父ありといえども、無益の子を愛せず」。黄石公曰く「主は徳なかるべからず。徳なければ臣民叛く」。『詩』に云う「自ら伊(こ)の佑を求む」。「旨あるかな、旨あるかな」——この篇だけ、最後の一句を二度繰り返す。

運命运命第二十九

それ天道性命は聖人の希(まれ)に言うところ。旨ありといえども、詳らかにし難い。しかし古今を校べ、その紀を錯綜し、三勢に乗ずれば、その略を仿佛することはできる。

荀悦曰く、およそ三光精気の変異はみな陰陽の精である。その本は地に在って、上は天に発する。政がここで失われ、変があそこに見える。しかし——『洪範』の咎徴を称すれば堯・湯の水旱の災があり、『易』の「積善余慶」を称すれば顔・冉の短折の凶がある。善悪の報は類変万端、斉一にすべからず。視聴する者が惑うのはそのためである。

この篇の仕掛けは荀悦の「三勢」で、孔子の三語に掛けられている。「死生、命あり」——これが正理である。「其の死を得ず」——死ぬべくして死んだのではない。「幸いにして免る」——死んでよいところを死ななかった。同じ三つが教化にも移される。教えずして自ら成る者があり、教えを待って後に成る者があり、教えを加えてもなお成らざる者がある。

篇末は宿命論もその逆も拒む。天地の道には同あり異あり。その異なる所以に拠りてその同じき所以を責むれば、これ惑いなり。その同じき所以を守りてその異なる所以を求むれば、すなわち弊を取る。遅速深浅、変化はその中に錯わる。ゆえに参差として均しくし難い。ゆえに君子は心を尽くし力を尽くして、もって命を邀(むか)える。『易』に曰く「理を窮め性を尽くして、もって命に至る」。

大私大私第三十

最も短い篇の一つにして、本書最良の逆転。管子曰く「与うるの取ると為るを知るは、政の宝なり」。『周書』曰く「将にこれを取らんと欲すれば、必ず故らにこれを与う」。

黄石公曰く「得て有つことなかれ、立てて取ることなかれ。為す者はすなわち己、有つ者はすなわち士。いずくんぞ利の在るところを知らん」。彼は諸侯となり、己は天子となる。城をして自ら保たしめ、士をして自ら取らしむ。王者の道である。

湯は言った。「朕が身に罪あらば、万方に及ぼすなかれ。万方に罪あらば、朕が身これを受けん」。湯はその身を私せず万方を私した。文王は言った。「苟くも仁人あらば、何ぞ必ずしも周の親ならん」。文王はその親を私せず万国を私した。先王は私なきにあらず。私するところが人と同じからざるのみ。これを「大私を知る」という。ゆえに言う、ただ私せず、ゆえによくその私を成す。利せずして利する、すなわち利の大なる者なり。

敗功败功第三十一

『文子』曰く「功ありて仁義を離るる者は即ち疑わる。罪ありて人心を失わざる者は必ず信ぜらる」。

楚の恭王が病んで大夫を召した。「不穀は不徳にして、少(わか)くして社稷を主り、先君の緒を失い、楚国の師を覆えした。不穀の罪なり。もし宗廟の霊をもって首領を保ちて没するを得ば、請う、霊もしくは厲と為さん。大夫許すや」。卒するに及んで子嚢が言った。「しからず。君に事うる者は其の善に従いて其の過に従わず。赫赫たる楚国にして君これに臨み、南海を撫征し、訓は諸夏に及んだ。其の寵大なり。是の寵ありて而も其の過を知る。これを恭と謂わざるべけんや」。大夫はこれに従った。過をもって功と為すの類である。

魏の将王昶・陳泰が兵に敗れ、大将軍(司馬師)はこれを己の過とした。習鑿歯は論じた。「司馬大将軍、二敗を引きて己の過と為す。過は銷えて業は昌なり。智と謂うべし」。その敗を忘れて下がその報を思えば、康(やす)らかならざらんと欲するも得られようか。しかし敗を諱み過を推し、咎を万物に帰すれば、上下は心を離し、賢愚は体を釈く。楚が再び敗れ晋が再び克った所以である。人君もしこの理を統べて国を御すれば、行いは失うとも名は揚がり、兵は挫くとも戦は勝つ。百敗なおよし、いわんや再敗をや。

昏智昏智第三十二

それ神は智の淵なり、神清ければ智明らかなり。智は心の符なり、智公ならば心平らかなり。しかるに神清く智明らかにして成敗に暗い士がある。愚なのではない。声色・勢利・怒愛がその智を昏ましたのである。

孔子が魯の相を摂し、斉の景公は懼れた。「孔子政を為さば魯は必ず覇たらん。覇たれば吾が地は近し。我れ先んじて併せられん」。犁且が言った。「仲尼を去るは毛を吹くが如し。君なんぞこれを延くに重禄をもってし、哀公に女楽を遺らざる。哀公親しくこれを楽しまば必ず政に怠らん。仲尼は必ず諫めん。諫めて聴かれずんば必ず軽く魯を絶たん」。斉国中の好き女子八十人、みな文繡の衣を衣て康楽を舞い、魯君に遺られた。魯君はこれを受け、事に怠り、三日政を聴かなかった。孔子は「彼の婦の口は、以て出で走るべし」と言って衛に適いた。声色に昏むである。

太史公曰く「平原君は翩翩たる濁代の佳公子なり。然れども大体を睹ず。語に曰く『利は智を令して昏からしむ』。平原君は馮亭の邪説を貪り、趙をして長平に四十余万を陥らしめ、邯鄲は幾ど亡びんとす」。利に昏むである。次いで怒に昏む例、愛に昏む例。判断はこうである——子の悪を知る者なし。智が損じたのではない、愛がこれを奪ったのだ。ゆえに貴賤を論じ是非を弁ずる者は、必ず公心よりこれを言い、公心よりこれを聴いて後に知るべし。范曄曰く、利が己に在らざれば、事を謀るにその智慮は己を私せず。

卑政卑政第三十三

『淮南子』曰く「溺人を済うに金玉をもってするは、尋常の纏(なわ)に如かず」。韓子曰く「百日食わずして粱肉を待たば、餓えたる者は肯んぜず」。政は卑くして事を済すを貴ぶ。

韓非曰く——いわゆる智者の微妙の言は上智ですら難しい。今これを衆人の法と為して上智の難しとするところをもってすれば、人は識る由がない。糟糠に厭かざる者は粱肉を待って飽くのではなく、短褐の完からざる者は文繡を須って好しとするのではない。治世の事において、急なるものが得られなければ、緩なるものは務めではない。今治むるところの政は人間の事である。夫婦の明らかに知るところを用いず、上智の論じ難きところを慕えば、人に於いて過ぎて遠い。

『尹文子』曰く「およそ理ありて治に益なきは、君子言わず。能ありて事に益なきは、君子為さず」。ゆえに君子の言うところは名法・権術を出でず、為すところは農稼・軍陣を出でない。——そして自分の時代への苦言。今の世の人は、行いは独り賢からんことを欲し、事は独り能くせんことを欲し、弁は群を出でんことを欲し、勇は衆を絶たんことを欲する。独行の賢は化を成すに足らず、独能の事は務めを周くするに足らない。

叔孫通が礼を起こそうとして高帝が「難きことなからんか」と問うと、「それ礼とは、時世人情に因りてこれが節文を為す者なり」。張釈之が便宜の事を言うと文帝は言った。「これを卑くせよ。甚だ高論するなかれ。今、施行すべきものたらしめよ。」本書中、高論に対して最も容赦のない篇である。

善亡善亡第三十四

『易』曰く「積善の家には必ず余慶あり」。また「善、積まざれば以て名を成すに足らず」。

孟子曰く——仁の不仁に勝つは、なお水の火に勝つがごとし。今の仁を為す者は、なお一杯の水をもって一車の薪の火を救うがごとし。火消えざれば水は火に勝たずと謂う。これまた不仁の甚だしき者なり。また、五穀は種の美なる者なるも、苟くも熟せざれば稊稗に如かず。それ仁もまたこれを熟するに在るのみ。

『尸子』曰く——食は肥ゆる所以なり。一飯して人に問うて「奚若(いかん)」と言えば、みなこれを笑う。それ天下を治むるは大事なり。譬うるに今の人は、みな一飯して「奚若」と問う者のごとし。ゆえに徐偃の亡国を見て仁義は杖とするに足らずと言い、承桑の失統を見て文徳は恃むに足らずと言うのは、杯水をもって火を救い一飯して肥を問う説である。惑いもまた甚だし。

詭俗诡俗第三十五

それ事には、これに順って義を失うものあり、これを愛して害を為すものあり、己に悪くして美と為るものあり、身に利して国を損ずるものあり。

劉梁曰く「昔、楚の霊王は驕淫、暴虐にして度なし。芊尹申亥は王の欲に従い、乾谿に殯し、これに二女を殉ぜしむ。これ順って義を失う者なり」。鄢陵の役、晋楚対戦し、穀陽が酒を献じて子反はこれに斃れた。これ愛して害を為す者である。臧武仲曰く「孟孫の我を悪むは薬石なり、季孫の我を愛するは美疢なり。疢毒は滋(ますま)す厚く、薬石はなお我を生かす」。これ悪んで美と為る者である。

次いで韓非の一段、篇中最も鋭い。故人のために私を行うを「棄てず」といい、公財をもって分施するを「仁人」といい、禄を軽んじ身を重んずるを「君子」といい、法を枉げて親に曲るを「行あり」といい、官を棄てて交わりを寵とするを「俠あり」といい、俗を離れ世を遁るるを「高愨」といい、交々争いて令に逆らうを「剛材」といい、恵を行いて衆を取るを「人を得たり」という。——そして裏。棄てざるとは吏に奸あるなり。仁人とは公財の損ずるなり。君子とは人使い難きなり。行ありとは法制の毀るるなり。俠ありとは官職の曠しきなり。高愨とは人事えざるなり。剛材とは令行われざるなり。人を得たりとは君上の孤なるなり。この八者は匹夫の私誉にして、人主の大敗なり。

息弁息辩第三十六

『中論』曰く「水の寒きや、火の熱きや、金石の堅剛なるや。彼の数物は未だ嘗て言あらざるに、人その然るを知らざるなし。信、その体に著るればなり」。ゆえに知る、行に本あり、事に跡あり。その体を審らかに観れば、情を竄すところなし。

何をか行の本という。孔子曰く「身を立つるに義あり、而して孝を本と為す。喪紀に礼あり、而して哀を本と為す。戦陣に列あり、而して勇を本と為す」。太公曰く「人力を尽くさざるは吾が人にあらず。吏、平潔にして人を愛せざるは吾が吏にあらず。宰相、国を富まし兵を強くし、陰陽を調和し、万乗の主を安んじ、群臣を簡練し、その名実を定め、その令罰を明らかにする能わざるは、吾が宰相にあらず」。

何をか事の跡という。斉の威王が即墨の大夫を召して言った。「子の即墨に居りしより、毀り日に至る。然れども吾れ人をして即墨を視しむるに、田野は辟け、人民は給し、官に留事なく、東方は以て寧し。これ子の吾が左右に事えて誉を求めざればなり」。万家に封じた。次いで阿の大夫を召して言った。「子の阿を守りしより、誉れ日に聞こゆ。然れども吾れ人をして阿を視しむるに、田野は辟けず、人民は貧苦。趙が甄を攻めしとき子は救う能わず、衛が薛陵を取りしとき子は知る能わず。これ子の常に幣をもって吾が左右に事えたればなり」。これを烹た。その本行を操って事跡をもって縄せば、水の寒く火の熱きが如く、善悪は逃るるところがない。

量過量过第三十七

孔子曰く「人の過つや、各々その党に於いてす。過ちを観れば、ここに仁を知る」。

太史公云う——昔、管仲は斉に相たり、九たび諸侯を合わせ、一たび天下を匡した。然るに孔子はこれを小とした。「管仲の器は小なるかな」。周道衰え、桓公すでに賢なるに、これを勉めて王に至らしめず、すなわち覇を称したからではないか。

虞卿が魏王に説いた。「それ楚もまた強大なり。天下に敵なし。すなわち且に燕を攻めんとす」。王が言う。「さきに子は『天下に敵なし』と云い、今は『すなわち且に燕を攻めんとす』と云う。何ぞや」。答えて言う。「今、馬に力多しと謂うはこれあり。千鈞に勝つと曰うは然らず。何ぞや。それ千鈞は馬の任にあらず。今、楚を強大と謂うはこれあり。趙・魏を越えて燕に兵を開くに至っては、あに楚の任ならんや」。

管仲は九たび諸侯を合わせて孔子はこれを小とし、楚人は燕を伐つ能わずして虞卿は却って強大・天下無敵と言った。詭議ではない。各々その党より言うのみ。察せざるべからず。

勢運势运第三十八

それ天下に君子あり、小人あり、礼譲あり。この数事は必ずしもその性にあらず、必ずしもその行にあらず。みな勢運これをしからしむるのみ。

『文子』曰く「それ人、余りあれば譲り、足らざれば争う。譲れば礼義生じ、争えば暴乱起こる。物多ければ欲は省き、求め贍りれば争い止む」。『淮南子』曰く「游ぐ者は溺るるを拯う能わず、手足に争急するところあればなり。灼かるる者は火を救う能わず、身体に痛むところあればなり。林中に薪を売らず、湖上に魚を鬻がざるは、余りあるところあればなり」。

ゆえに世治まれば小人も正を守り、利もこれを誘う能わず。世乱るれば君子も奸を為し、刑もこれを禁ずる能わず。『荘子』曰く「堯舜に当たりて天下に窮人なきは、智の得たるにあらず。桀紂に当たりて天下に通人なきは、智の失えるにあらず。時勢適(たまた)ま然り」。

傲礼傲礼第三十九

『左伝』曰く「礼に傲るなかれ」。『曲礼』曰く「敬せざるなかれ」。しかるに古人は傲を以て礼と為した。なぜか。人の徳を彰かにせんと欲したからである。

侯嬴は大梁の夷門の監者であった。魏公子はこれを聞き、酒を置いて大いに会し、賓客座定まるや、車騎を従え左を虚しくして自ら夷門の侯生を迎えた。侯生は公子を引いて市を過ぎ、家に至って上客とした。侯生は言った。「今日、嬴の公子のために為すこと、また足れり。嬴はすなわち夷門の関を抱く者なるに、公子は親しく車騎を枉げられた。稠人広衆の中、過ぐるところあるべからざるに、今、公子は故らにこれを過ぎられた。しかも嬴は公子の名を就さんと欲し、ゆえに久しく公子の車騎を市中に立たせて公子を観るに、公子はいよいよ恭し。市人はみな嬴を小人と為し、公子を長者、よく士に下る者と為した」。

王生は廷中に立ち、三公九卿ことごとく会するなか、「わが韤(したうず)解けたり」と言い、張廷尉を顧みて「わがために韤を結べ」と言った。張はひざまずいてこれを結んだ。後に人が、なぜ辱めたのかと問うと、王生は言った。「わたしは老いて貧しく、張に何もしてやれぬと思った。張は天下の名臣である。だから韤を結ばせて、その重みを加えたのだ」。諸公はこれを聞いて王生を賢とし、張をいっそう重んじた。この篇は、非常に高くつく取引の話である——自分の評判を支払って、他人の評判を買う。

定名定名第四十

本書中もっとも辞書に近い篇。そしてこれがここにあるのは、兵を論ずる巻九が、言葉を定めてからでなければ始められないからである。

それ理、心に得るも、言にあらざれば暢びず。物、彼に定まるも、言にあらざれば弁ぜず。言、志を暢びざれば相接するによしなく、名、物を弁ぜざれば識鑒顕れず。その所以を原ね、その由るところを本づくれば、物に自然の名あり理に必定の称あるにあらず。その実を弁ぜんと欲すればその名を殊にし、その志を宣べんと欲すればその称を立てる。

以下、定義が一つずつ。道とは人の蹈むところなり。居りては為すところを知り、行きては之くところを知り、事には乗ずるところを知り、動いては止まるところを知る、これを道という。徳とは人の得るところなり。人をして各々その欲するところを得しむ、これを徳という。仁とは愛なり。利を致し害を除き、兼ね愛して私なき、これを仁という。義とは宜なり。是非を明らかにし可否を立つる、これを義という。礼とは履なり。進退に度あり尊卑に分ある、これを礼という。智とは人の知るところなり。信とは守られる言なり。

この七つの後に、派生語——聖、賢、勇、才、忠、孝、法、刑、賞。辞書趣味ではない。これは本書の文の半分を締めくくる行為であり、名と分が定まれば世の争いの半分はすでに終わっているというのがその要点である。

巻第九 兵権卷第九 兵权

二十四篇。巻頭に小序があり(本ページでは「出軍」篇の冒頭に置いた)、兵書はおよそ千種もあるが合変を知らなければいくらあっても無益だ、「少なければ得、多ければ惑う」と言う。ゆえにこの巻は刈り込んだ兵書提要である。骨は『孫子』『六韜』『尉繚子』から取り、各条の下に史事を一つ配す。四庫本はこの巻の篇次を「第一」から改めて振っているが、本ページは全書通しの篇次に従う。

出軍出军第四十一

趙子曰く——『詩』に「允(まこと)に文、允に武」と云い、『書』に「すなわち武、すなわち文」と称す。孔子曰く「君子に文事あれば、必ず武備あり」。『伝』曰く「天は五材を生じ、民並びにこれを用う。一を廃すべからず。誰か能く兵を去らん」。黄帝は蚩尤と戦い、顓頊は共工と争い、堯は驩兜を伐ち、舜は有苗を伐ち、啓は有扈を伐ち、湯は有夏を伐ち、文王は崇を伐ち、武王は紂を伐った。漢高に京索の戦あり、光武に昆陽の師あり、魏に官渡の軍を動かし、晋に平呉の役を挙ぐ。ゆえに『呂氏春秋』曰く「聖王に仁義の兵あり、而して偃兵なし」。

兵は凶器なり、戦は危事なり。兵戦の場は尸を立つる所。帝王やむを得ずしてこれを用いる。ゆえに、乱を救い暴を誅するを義兵という、その君は王たり。己に加えられてやむを得ず用いるを応兵という、これは勝つ。小故を恨みて憤怒するを忿兵という、これは敗れる。人の土地宝貨を利するを貪兵という、これは破れる。国の大を恃み人の衆きを矜り、威を敵に見さんとするを驕兵という、これは滅ぶ。

そして斧鉞の礼。天子は正殿に居してこれを召す。「社稷の安危、一に将軍に在り。今、某国臣とせず。願わくは将軍を煩わしてこれに応ぜん」。太史が卜し日を択び、斧鉞を授ける。君は入りて太廟に西面して立ち、将軍は北面して立つ。君は自ら鉞を操りてその首を持ち、その柄を授けて言う。「これより上、天に至るまで、将軍これを制せよ」。また柄を操りてその首を授けて言う。「これより下、淵に至るまで、将軍これを制せよ」。「閫(しきい)以内は寡人これを制し、閫以外は将軍これを制す。」

練士练士第四十二

それ王者、師を帥いるには、必ず英雄を簡練し、士の高下を知り、能に因りて職を授け、各々その長を取って股肱羽翼と為し、もって威神を成す。

以下は幕僚の編制表である。腹心一人、謀士五人、天文三人、地形三人、兵法九人、通糧四人、奮威四人、鼓旗三人、股肱四人、通材三人、権士三人、耳目七人、爪牙五人、羽翼四人、游士八人、術士二人、法算二人、方士二人。

そして兵卒を気質で分ける——これはこの篇独自の着想であり、巻一「任長」の直系の子孫である。大勇・敢死・傷を楽しむ者、聚めて一卒と為す。勃気・壮勇・暴強なる者、聚めて一卒と為す。奇正・長剣・雕弧を学び、武を接し列を斉しくする者、一卒と為す。格を破り鉤を舒べ、強梁多力にして、よく金鼓を潰破し旌旗を絶滅する者、一卒と為す。よく高きを踰え遠きを超え、軽足善走なる者、一卒と為す。故の王臣にして勢を失い、また其の功を見(あらわ)さんと欲する者、一卒と為す。以下、降ってその恥を隠さんと欲する者、貧しく憤りてその志を得んと欲する者——それぞれに名を与え、それぞれを一卒とする。

結営结营第四十三

短篇にして全編が式法である。太公曰く「軍を出し戦を征するに、器を安んじ陣を置くは、六をもって法と為す」。将軍は自ら九天の上に居ること一旬、また徙りて牙門を開く。常に建を背にし破に向かう。死水を飲まず、死地に居らず、地柱に居らず、地獄に居らず、天竈に休せず、龍首に当たるなかれ。

そして配置。およそ営を結び陣を安んずるに、将軍は青龍に居り、軍鼓は逢星に居り、士卒は明堂に居り、伏兵は太陰に、軍門は天門に、小将は地戸に、斬断は天獄に、治罪は天庭に、軍糧は天牢に、軍器は天蔵に居る。「これを天に法りて営を結ぶといい、物のよく害するなき者なり」。

この篇と下の「天時」は、唐代兵書の術数の部分に属する。本ページは削らずそのまま収める。それがこの書の実際に含んでいるものだからである。

道徳道德第四十四

兵の出すべからざるもの三あり。国に和せざれば、もって軍を出すべからず。軍に和せざれば、もって陣を出すべからず。陣に和せざれば、もって戦を出すべからず。

孫子の五事の第一。道とは、人をして上と意を同じくせしむる者なり。ゆえにこれと死すべく、これと生くべくして、人、危きを畏れず。黄石公曰く「軍井未だ達せざれば将は渇を言わず、軍幕未だ辦ぜざれば将は倦を言わず。冬に裘を服せず、夏に扇を操らず。これを礼将という。これと安んじ、これと危うくす。ゆえにその衆は合すべくして離すべからず、用うべくして疲らすべからず」。

そして四つの古事、いずれも同じ一事——なぜ士卒が死ぬ気になるのか。蓼を含んで疾を問い、越王は諸侯に覇たり。疽を吮って士を恤み、呉起は敵国を凌ぐ。陽門に慟哭して三晋の兵に勝ち、単醪を河に投じて一軍の士を感ぜしむ。勇者はこれがために闘い、智者はこれがために憂え、死を視ること帰するが如く、計、踵を旋らさず。

禁令禁令第四十五

孫子の二句が並べられ、どちらも単独では取れないようになっている。「卒、未だ専親せずしてこれを罰すれば則ち服せず。服せざれば則ち用い難し。卒、已に専親して罰行われざれば、則ち用うべからず」。そして「卒を視ること嬰児の如し、ゆえにこれと深谿に赴くべし。卒を視ること愛子の如し、ゆえにこれと死地に居るべし。厚くして使う能わず、愛して令する能わず、乱れて理むるを知らざれば、譬えば驕子の若し、用うべからざるなり」。『経』に曰く「兵は賞をもって表と為し、罰をもって裏と為す」。

篇の本体は武侯の軍禁七——軽・慢・盗・欺・背・乱・誤。そしてそれぞれの下に具体的な情状が並ぶ。期会に到らず、鼓を聞きて行かず、寛に乗じて自ら留まり、迴避して務め止め、初め近くして後に遠く、名を喚びて応ぜず、軍甲具わらず兵器備わらず——これを「軽軍」という。令を受けて伝えず、伝えて達せず、官吏遅く来たり士卒早く去る——これを「慢軍」という。以下、盗軍・欺軍・背軍・乱軍・誤軍まで、それぞれに罰がある。読み物ではなく、施行できる軍法の条文である。

教戦教战第四十六

孔子曰く「人を教えずして戦わしむ、これを棄つと謂う」。卒、服習せず、起居精ならず、前に撃ちて後に解け、金鼓の音と相失すれば、百にして一に当たらず。これ棄つる者なり。

ゆえに三軍を領して戦を教うるには、必ず金鼓・約令ありて士卒を整斉する。一人に戦を学ばしめ、教え成れば十人に合す。十人学びて成れば百人に合す。漸くにして三軍の衆に至る。

大戦の法にはその校陣があり、各々その道がある。左校は青龍、右校は白虎、前校は朱雀、後校は玄武、中校は軒轅。大将の処るところ、左に鋒、右に戟、前に楯、後に弩、中央に鼓旗、興動ともに起こる。鼓を聞けば進み、金を聞けば止まる。その指麾に随って五陣すなわち理まる。ゆえに孫子曰く「衆を治むること寡を治むるが如きは、分数これなり。衆を闘わすこと寡を闘わすが如きは、形名これなり」。

天時天时第四十七

孫子曰く「二に曰く天時。天時とは陰陽・寒暑、時の制なり」。『司馬法』曰く「冬夏に師を興さざるは、吾が人を兼ね愛する所以なり」。

篇の本体は唐代の軍中占候である。太陰を背にし太陽に向かい、五緯の光芒を察し、二曜の薄蝕を観る。太白をもって主と為し、辰星をもって候と為す。合宿すれば必闘の期あり、格出すれば不戦の勢を明らかにす。日耗を避け、月刑を背にす。王をもって囚を撃ち、生をもって死を撃つ。細雨が軍を沐せば機に臨んで必ず捷あり、迴風が相触るれば道還って功なし。雲、群羊に類すれば必走の道。——本ページはここに四百字近い占候の条を四庫本から補った。底本から脱落していた部分である。

そして篇末、調子がまったく変わる。「しかりといえども、賢を任じ能を使えば則ち占わずして事利あり。令明らかに法審らかなれば則ち筮わずして計成る。功を封じ労を賞すれば則ち禱らずして福従う。苦を共にし甘を同じくすれば則ち逆を犯して功就る。」前段のすべてを、一文で一段格下げする。しかも削除はしない。

地形地形第四十八

孫子曰く「三に曰く地利。地利とは遠近・険易・広狭・死生なり」。山林・険阻・沮沢の形を知らざる者は軍を行る能わず、郷導を用いざれば地の利を得る能わず。

九地、それぞれに定義と処置がある。散地——諸侯自ら其の地に戦う。戦うなかれ。軽地——人の地に入りて深からず。止まるなかれ。争地——我得れば利あり彼得るもまた利あり。攻むるなかれ。交地——我以て往くべく彼以て来るべし。絶たるるなかれ。衢地——諸侯の地、三属す。交を合わせよ。重地——人に入ること深く、城邑を背にすること多し。掠めよ。汜地——林・険阻・沮沢、およそ行き難きの道。行き過ぎよ。囲地——由りて入るところ隘く、帰るところ迂にして、彼の寡よく吾が衆を撃つ。謀れ。死地——疾く戦えば存し、戦わざれば亡ぶ。戦え。

そして六つの地形と、将が自ら軍を亡ぼす六つの道。この篇は教義ではなく測量である。

水火水火第四十九

『経』曰く「水をもって攻を佐くる者は強く、火をもって攻を佐くる者は明らかなり」。水火は兵の助けである。

火攻に五あり。一に火人、二に火積、三に火輜、四に火庫、五に火燧。火を行うに必ず因あり、煙火は素より具う。火を発するに時あり、火を起こすに日あり。時とは天の燥けるなり。日とは宿の箕・壁・翼・軫に在るなり。この四宿は風の起こる日である。

水については、太公曰く「強弩長兵は水を踰えて戦う所以なり」。孫子曰く「水はもって絶つべし」——城に灌ぐを謂う。また「水を絶たば必ず水に遠ざかれ。客、水を絶ちて来たらば、これを水内に迎うるなかれ。半ば渡らしめてこれを撃てば利あり。戦わんと欲せば、水に附きて客を迎うるなかれ」。例は、韓信が濰水を壅いで龍且の軍が半ば渡ったところで堰を切ったこと、関羽が七軍を水に沈めたことである。

五間五间第五十

『周礼』にすでに反間がある。呂望曰く「間とは、飛言を構え、聚めて一卒と為す」。間を用いるは一日にあらず。

五間——因間はその郷人に因りて用いる。内間はその官人に因りて用いる。反間は敵の間に因りて用いる。生間は反りて報ずる者。死間は誑事を外に為し、吾が間をして知らしめ、敵の間に待つ者。「五間ともに起これば、その道を知るなし」。

班超が篇を満たす。兵を長史に代わり、諸国の歩騎二万五千を発して莎車を撃ったとき、莎車は亀茲に救いを求め、亀茲王は左将軍に温宿・姑墨・尉頭を発せしめ、合わせて五万で来援した。班超は諸将と于闐・疏勒の王を集めて言った——わざと聞かせるための言葉である。「兵少なくして敵すべからず。計は各々散じて去るに如かず。于闐は東より、我は西に還る。夜鼓を聞かば発せよ」。そして捕虜をわざと逃がした。話は亀茲に届き、亀茲王は兵を分けて両道を塞いだ。班超は空になった道を戻り、夜明けに莎車の営を襲って破った。

将体将体第五十一

『万機論』曰く「百万の師ありといえども、時に臨みて敵を吞むは将に在り」。呉子曰く「およそ人の将を論ずるや、恆に之を勇に観る。勇の将に於けるは、すなわち万分の一のみ」。『六韜』曰く「将、仁ならざれば三軍親しまず。将、勇ならざれば三軍のために動かず」。

孫子の五才——勇・智・仁・信・必。勇なれば犯すべからず、智なれば乱すべからず、仁なれば人を愛し、信なれば人を欺かず、必なれば二心なし。

四機——三軍の衆、百万の師、軽重を張設するは一人に在り、これを気機という。道狭く路険しく、名山大塞、十人の守るところ千人も過ぎず、これを地機という。よく間諜を行い、その衆を分散して君臣相怨ましむ、これを事機という。車堅く舟利く、士馬閑習す、これを力機という。次いで将の弊、そして軍を与える前に人を試す八徴——これを問うて辞を詳らかにし、これを窮めて変を観、財を告げて廉を観る。篇末は孫子——「将、能にして君、御せざる者は勝つ。」

料敵料敌第五十二

それ両国戎を治め、交わり和して舎る。冥冥として事を決せず、必ずまず敵情を探る。孫子曰く「勝兵はまず勝ちて後に戦う」。また「これを策して得失の計を知り、これを候して動静の理を知る」。

まず敵将を知らんと欲せば、賤しくして勇なる者をして軽鋭を将いてこれに当たらしめよ。敵の来るを観る。一起一坐、その政、理をもってするか。北を追うに及ばざるを佯(いつわ)るか。利を見て知らざるを佯るか。かくの如くんば、将は必ず智あり。軽々しく戦うなかれ。もしその衆は譁り旗は乱れ、その卒は自ら止まり自ら行き、その兵は或いは縦に或いは横に、北を追うに及ばざるを恐れ、利を見て得ざるを恐るる——かくの如くんば将に必ず謀なし。衆しといえども獲るべし。

そして三十余条の徴候、『孫子』行軍篇の拡張である。辞卑くして備えを益すは進むなり。辞強くして進駆するは退くなり。約なくして和を請うは謀なり。半ば進み半ば退くは誘うなり。杖つきて立つは飢うるなり。汲みて先に飲むは渇するなり。利を見て進まざるは労するなり。鳥集まるは虚なり。夜呼ぶは恐るるなり。軍擾るるは将の重からざるなり。旗動くは乱るるなり。吏怒るは倦むなり。粟馬肉食して軍に懸くる炊具なく、その舎に返らざるは窮寇なり。しばしば賞するは窘(くる)しむなり。しばしば罰するは困しむなり。来りて委謝するは休息を欲するなり。

勢略势略第五十三

孫子曰く「勇怯は勢なり、強弱は形なり」。また「水の弱きが石を漂わすに至るは、勢なり」。

曹公が張魯を征して漢中を定めたとき、劉曄が説いた。「明公は歩卒五千をもって董卓を討誅し、北は袁紹を破り、南は劉表を征せられました。九州百郡、十に其の八を并せ、威は天下を震わし、勢は海外を懾せしめておられます。今、漢中を挙げられ、蜀人は風を望んで胆を破り守を失っております。これを推して前めば、蜀は檄を伝えて定むべし。劉備は人傑なれども、智ありて遅く、蜀を得て日浅く、蜀人は未だ附きません。今、漢中を破れば蜀人は震恐し、その勢は自ら傾きます。少しでも緩めれば、諸葛亮は理に明らかにして相と為り、関羽・張飛は勇、三軍に冠たりて将と為る。蜀人すでに定まり、険に拠り要を守れば、犯すべからざるものとなりましょう」。曹公は進まなかった。

そして同じことの裏。官渡の後、袁紹の子らを追撃せよと勧められて拒み、「急にすれば相助け、緩にすれば相食む」と言い、公孫康が首を送ってきた。この篇は同じ一事の二つの面である——勢はある間に使い切らねばならず、無いときに作ることはできない。

攻心攻心第五十四

孫子曰く「心を攻むるを上と為し、城を攻むるを下と為す」。何をか心を攻むるという。その恃むところを絶つ、これを心を攻むという。

戦国の時、斉王に説く者があった。「およそ国を伐つの道は、心を攻むるを上と為し、城を攻むるを下と為す。心勝を上と為し、兵勝を下と為す。ゆえに聖人の国を伐ち敵を攻むるや、務めはまずその心を服するに在り。今、秦の恃みて心と為すところは燕・趙なり。まさに燕・趙の権を収むべし。今、燕・趙の君に説くに、虚言空辞するなかれ。必ず実利をもってその心を迴らすべし。いわゆる其の心を攻むる者なり」。

沛公が西して武関に入り、二万人をもって秦の嶢関下の軍を撃たんとした。張良が言った。「秦兵はなお強く、軽んずべからず。臣聞く、その将は屠子の賈豎、利をもって動かしやすしと。願わくは沛公、しばらく壁に留まり、人を先に遣って五万人の食を具え、旗幟を諸山の上に益し張りて疑兵と為されよ」。巻中最短にして最も引かれる篇である。

伐交伐交第五十五

孫子曰く「善く兵を用うる者は、交をして合うを得ざらしむ」。

楚の莫敖が貳・軫と盟わんとし、鄖人が蒲騒に軍して随・絞・州・蓼をもって楚師を伐とうとした。莫敖はこれを患えた。鬥廉が言った。「鄖人はその郊に軍す。必ず誡めず。かつ日々四邑の至るを虞う。君は郊郢に次して四邑を禦げ。我は鋭師をもって宵に鄖に加えん。鄖は虚心ありてその城を恃み、闘志あるなからん。もし鄖師を敗らば、四邑は必ず離れん」。莫敖はこれに従い、ついに鄖師を蒲騒に敗った。

漢の宣帝のとき、先零と罕・開の羌が仇を解いて党を合わせ寇を為した。帝は趙充国に先に罕・開を誅せよと命じた。充国は便宜を守って従わず、上書した。「先零の羌虜は背叛を為さんと欲す。ゆえに罕・開と仇を解きました。然れどもその私心は忘るる能わず、漢兵至れば罕・開が己に背くを恐れております。臣愚かに以為えらく、その計は常に罕・開の急に赴かんと欲する——ただ、互いを信じてはおりません。」この篇が言うのは一事のみ。敵が固まる前に引き剝がせ。

格形格形第五十六

孫子曰く「安んずればよくこれを動かす」。また「その必ず趨るところを攻む」。

楚が宋を囲み、宋公は晋に急を告げた。晋の狐偃が言った。「楚は始めて曹を得、新たに衛に婚す。もし曹・衛を伐たば、楚は必ずこれを救わん。すなわち斉・宋は免れん」。果たしてその計の通りになった。

魏が趙を伐ち、趙は急にして斉に救いを請うた。斉の威王は田忌を将と為し、孫臏を師と為して輜車の中に居らせ計謀させた。田忌は兵を引いて趙に之かんとした。孫子は言った。「それ雑乱紛糾を解く者は拳を控(ひ)かず、闘を救う者は戟を搏たず。亢を批ち虚を搗けば、形は格(ふさ)がり勢は禁ぜられて、自ずから解くるのみ。今、梁と趙は相攻め、軽兵鋭卒は必ず外に竭き、老弱は内に疲る。君、兵を引いて疾く大梁に走り、その街路に拠り、その方(まさ)に虚なるを衝くに如かず。彼は必ず趙を釈きて自ら救わん。これ我れ一挙にして趙の囲を解き、しかも弊を魏に収むるなり」。——前篇が敵の味方を引き剝がしたのに対し、この篇は敵自身の陣形を引き剝がす。

蛇勢蛇势第五十七

語に曰く「兵を散地に投ずれば六親も相保つ能わず。舟を同じくして済らば、胡越も何ぞ心を異にするを患えん」。孫子曰く「善く兵を用うる者は、譬えば率然の如し」——首を撃てば尾至り、尾を撃てば首至り、中を撃てば首尾ともに至る。

宣帝のとき先零が寇を為し、趙充国が征った。兵を引いて先零の在るところに至ると、虜は久しく屯聚して解弛しており、大軍を望み見て車重を棄て湟水を渡ろうとした。道は厄狭である。充国は徐ろに行いてこれを駆った。ある者が「利を逐うには速きがよい」と言った。充国は言った。「これ窮寇なり。追うべからず。これを緩くすれば走りて顧みず、これを急にすれば還りて死を致さん」。諸将校みな「善し」と言った。虜は果たして水に赴き、溺死する者数百、ここにこれを破った。

袁尚は敗れて遼東に奔り、衆は数千。遼東太守公孫康はもとより遠きを恃んで服さない。曹公は烏丸を破った後、「遂にこれを征せば尚兄弟は擒にすべし」と勧められた。行かなかった。公孫康はその首を斬って送ってきた。迫れば合し、放てば食い合う。——本書で唯一、著者の自注がまったくない篇である。

先勝先胜第五十八

孫子曰く「善く兵を用うる者は、まず勝つべからざるを為して、もって敵の勝つべきを待つ」。

梁州の賊王国が陳倉を囲み、皇甫嵩と董卓が各々二万をもって拒いだ。董卓は速やかに陳倉に赴かんとし、嵩は聴かない。董卓は言った。「智者は時を待たず、勇者は決を留めず。速やかに戦えば城全く、救わざれば城滅ぶ。全滅の勢、此に在り」。嵩は言った。「しからず。百戦百勝は、戦わずして人の兵を屈するに如かず。ここをもってまず勝つべからざるを為して、敵の勝つべきを待つ。勝つべからざるは此に在り、勝つべきは彼に在り。彼の守は足らず、我が攻は余りあり。余りある者は九天の上に動き、足らざる者は九地の下に陥る。今、陳倉は小なれども城守は固く備わる。九地の陥にあらず。王国は強しといえども、我が救わざるところを攻む。九天の勢にあらず。勢、九天にあらずして攻む——」果たして陳倉は持ちこたえ、王国は疲れて退き、嵩はそこで撃った。

次いで周亜夫が昌邑を守って戦わず、賊が自ら疲れるのを待った例、司馬懿が諸葛亮を拒いだ例。守れるのは自分であり、待つべきは相手の過ちである。

囲師围师第五十九

孫子曰く「師を囲めば必ず闕(か)く」。

黄巾の韓忠が宛に拠り、朱儁・張超がこれを囲んだ。塁を結び土山を起こして城に臨み、鼓を鳴らしてその西南を攻めると、賊はことごとくそこへ赴いた。そこで東北を掩い、城に乗じて入った。忠は小城に退保して降を乞い、諸将は聴こうとした。儁は言った。「兵に形同じくして勢異なる者あり。昔、秦・項の際は民に定主なし。ゆえに附くを賞して来るを勧めたのだ。今、海内は一統、ただ黄巾のみ寇を造す。降を納れて善を勧むるによしなく、これを討ちて悪を懲らすに足る。今もしこれを受けば、更に逆意を開く。賊は利あれば進み戦い、鈍すれば降を乞う。敵を縦にし寇を長ずるは、良計にあらず」。急にこれを攻めたが、克たなかった。

儁は土山に登り、張超を顧みて言った。「吾れこれを知れり。賊は今、外囲周く固く、連営逼り急なり。降を乞うて受けられず、出でんと欲して得ず。ゆえに死戦する所以なり。万人一心なお当たるべからず、いわんや十万をや」。囲を解き塁を撤すると、賊は出てきて、出るところを破られた。この篇と「利害」は同じ一つの考えの両半分である——自分は故意に死地に閉じこもり、敵は決してそこへ追い込まない。

変通变通第六十

孫子曰く「善く敵を動かす者は、これを形せば敵必ずこれに従う」。

魏と趙が韓を攻め、斉は田忌を遣って救わせ、まっすぐ大梁に走った。魏将龐涓は韓を去って帰ったが、斉軍はすでにこれを過ぎて西していた。孫臏が田忌に言った。「かの三晋の兵は素より悍勇にして斉を軽んじ、斉は怯を号とす。善く兵を用うる者は、その勢に因りてこれを利導す。兵法に曰く『百里にして利を趨る者は上将軍を蹶す』と。斉軍をして魏地に入りて十万の竈を為し、明日は五万、明日は二万を為さしめよ」。龐涓は喜んだ。「吾れもとより斉卒の怯なるを知る。吾が地に入りて三日、士卒の亡ぐる者すでに半に過ぐ」。歩兵を棄て、軽鋭をもって日を倍して逐った。臏はその暮に馬陵に至ると度った。道狭く険多し。大樹を斫って白く書した——「龐涓、此の樹下に死す」。

そして同じ仕掛けの逆用。虞詡は羌に追われて退くとき、日々竈を増やした。孫臏が減らしたのになぜかと問われ、羌は多く我は少ない、緩やかに退けば追いつかれ、増えるように見せれば追われない、と答えた。兵法で最も有名な条さえ、裏返して使える。

利害利害第六十一

孫子曰く「これを死地に陥れて後に生き、これを亡地に投じて後に存す」。また「利に雑えて務め伸ぶべく、害に雑えて患い解くべし」。

韓信が趙を攻め、趙は井陘口に兵を盛んにした。信は井陘口に至らざる三十里で止舎した。夜半に軽騎二千人を選び、各々一赤幟を持たせ、間道より萆山して趙軍を望み見るところに置き、誡めて言った。「趙は我が走るを見れば、必ず壁を空しくして我を逐わん。若(なんじ)疾く趙の壁に入り、趙の幟を抜きて漢の赤幟を立てよ」。裨将に伝餐せしめて言った。「今日、趙を破りて会食せん」。諸将はみな信ぜず、佯りて「諾」と応えた。そして万人を出して水を倍(せ)にして陣せしめた。趙軍は望み見て大いに笑った。

夜明けに信は鼓と旗を出して戦い、久しくして鼓旗を棄てて水上の陣に走った。趙軍は壁を空しくして追った。水を背にした兵は行くところがなく、命がけで戦った——実際に命がかかっていた。二千騎が入って幟を換え、趙軍は赤い旗を見て崩れた。後に諸将が、これは兵法の何かと問うた。信は言う。「兵法に在り。諸君が察しないだけだ。『これを死地に陥れて後に生き、これを亡地に投じて後に存す』と言わないか。かつ信は未だ士大夫を得撫していない。これがいわゆる市人を駆りてこれを戦わしむである。その勢は死地に置いて人々をして自ら戦わしめざるを得ず。今、これに生地を与えれば、みな走ってしまう」。

奇兵奇兵第六十二

本書最短の篇、百六十余字。太公曰く「分移する能わざれば、奇を語るべからず」。孫子曰く「兵は正をもって合し、奇をもって勝つ」。

魏王豹が漢に反き、漢王は韓信を左丞相と為して魏を撃たせた。魏王は蒲阪に兵を盛んにし、臨晋を塞いだ。信はますます疑兵を為し、船を陳ねて臨晋より渡らんとするふりをして、伏兵を夏陽より木罌をもって渡らせ、安邑を襲った。魏王豹は驚いて兵を引いて信を迎え、信はついに豹を虜にし、魏を定めて河東郡と為した。

ここに知る、奇正は兵の要なり。『経』に曰く「戦勝は奇正に過ぎず。奇正の変、勝げて窮むべからず。環の端なきが如し。孰か能くこれを窮めん」。

掩発掩发第六十三

孫子曰く「善く戦う者は、その勢は険にして、その節は短なり」。「利をもってこれを動かし、卒をもってこれを待つ」。また「善く敵を動かす者は、これを形せば敵必ず従う」。

燕が斉を平らげ即墨城を囲み、城中は田単を推して将と為して燕を拒いだ。田単はその卒を激怒させようとして、わざと言い触らした。「吾れただ燕将が得たる斉卒を劓(はなき)り、城外の墳墓を掘るを恐るるのみ。先人を傷つけられては、寒心すべし」。燕将はその言の通りにした。即墨の人はみな涕泣し、ともに出でて戦わんと欲し、怒りはみな十倍した。単は人より金を収めて千鎰を得、即墨の富豪をして燕将に遺らしめ、書に曰く「即墨すなわち降らん。願わくは吾が家族を虜にするなかれ」。燕将は大いに喜び、また懈った。

そして牛千頭を収め、葦をその尾に束ね、その端を焼き、城に数十穴を鑿ち、夜に牛を縦って出した。壮士五千人がその後に随い、牛は尾が熱くて燕に奔った。——そして呂蒙が白衣で艪を揺らし商賈の服を作して昼夜兼行し荊州を取った例。いずれも戦場での勝敗ではない。相手が緩んでいる間に蓄えた力を、一瞬で放つ話である。

還師还师第六十四

最後の篇、戦の終わりについて。そして本書で最も冷たい文章である。

孫子曰く「師を興すこと百万、日に千金を費やす」。王子曰く「四人虚を用うれば、国家に儲なし」。ゆえに曰く「糧を百里に運べば一年の食なく、二百里なれば二年の食なく、三百里なれば三年の食なし。これを虚国という。国虚なれば人貧し。人貧しければ上下相親しまず。上はその恩を樹うるによしなく、下はその身を活かすによしなし。すなわち離叛の心生ず。これ戦い勝ちて自ら敗るるなり」。

ゆえに敵を外に破り功を内に立つといえども、しかも戦勝は喪礼をもってこれに処る。将軍は縞素して君に罪を請う。君曰く「兵の加うるところは無道の国なり。敵を擒にし勝を致す。将に咎殃なし」。そしてその官を尊くして、その勢を奪う。

ゆえに曰く「高鳥死して良弓蔵れ、敵国滅びて謀臣亡ぶ」。亡ぶとは、その身を喪うにあらず。これを淵に沈むるを謂う。淵に沈むとは、その威を奪い、その権を廃するを謂う。天下の取り方を教える書が、兵権の返し方を教えて終わる。

底本と校訂例

この日本語版について。本ページの繁體字/簡体字版に収める漢文は二二六、九二八字(標点を除けば約一八万三千八百字)、うち五割六分は趙蕤自身の自注であり、その自注はほぼ全部が史書と諸子からの引用でできている。この日本語版は序と六十四篇のすべてを扱い、各篇について論旨を述べ、その篇が懸かっている文を訳出し、著者が積み上げた史例を名指して要約する。二二六、九二八字を一文ずつ訳した全訳ではない。「 」で括った箇所は訳文であり、地の文で述べた箇所は要約である。漢文の全文は繁體字版・簡体字版にある。篇には番号と篇題が付いているので、どの段落についても漢文を引き当てることができる。

書物について。本来の書名は『長短経』。開元四年(七一六)、梓州塩亭の趙蕤の著。自ら「草莽の臣」と署し、朝廷に召されて出仕しなかった。孫光憲『北夢瑣言』は夫婦ともに隠操ありと記し、『新唐書・芸文志』は字を太賓とし書名を『長短要術』とする——一書二名である。彼について伝わるのはそれだけである。今、中国で一般に通る『反経』という書名は後起のもので、第十三篇の篇題——統治の八つの道具を一つずつ裏返してその害を示す篇——から取られた。

本文。底本は中文ウィキソースの標点本。同サイトの『長短経(四庫全書本)』録文と全文校合した。四庫本は句読を施さないが、趙蕤の双行小字注を明示し、乾隆の御題詩・四庫提要・洪武丁巳(一三七七)沈新民の跋(提要はこれを書賈の偽託と疑う)を備える。校合の結果は字形の相違二、〇八五箇所、四庫本の漫漶一一八箇所、文字の異同二、五八五箇所(六、八三四字位)。

日本語でも述べておくべき二つの修復。第一に、底本では巻四と巻五が溶接され、順序が壊れていた——巻五(七雄略)全篇が巻四の最初の注の中に落とし込まれ、別のページに巻四冒頭の切り詰められた重複が置かれていた。四庫本の分巻は明瞭であり、本ページの表紙に用いた清刻本の巻頭もそれを裏づける。ここでは両篇を切り分け直した。第二に、底本から落ちていた五箇所、計およそ三三〇〇字を四庫本から補った。最大のものは第十五篇「適変」の後半全部で、黄老・儒・墨・法の四家評はそこにあり、それを欠けばこの篇には結論がない。

表紙はこの書自身の巻頭葉である。国立国会図書館蔵『読画斎叢書』本『長短経』(清・嘉慶年間、桐郷の顧修輯刊。請求記号 082.1-D95K)己集第四十一冊、巻第一の首葉。巻次「長短經卷第一」、総題「文上」、巻中八篇の篇目、篇題「大體第一」、そして本書の第一文が刻まれている。

各篇の解題と地の文は AI が書いた。訳出した文は訳であり、史実に関する記述は本文に照らして確認してある。

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